肆・氷刃竜 後
氷刃竜は全身をくねらせて身を起こし、端厳たる咆哮をあげた。
長い尾に打たれた大地は砕け、岩が弾け跳ぶ。その場の全てを破壊せんとばかりに怒り猛る。
折しも翠の間合いに入り込もうとしていた狐面の進路を、その尾が遮った。すでに振り下ろされていた二日月刀は、高い音と共に白雪の鱗に弾かれる。
大きくひと揺らぎした尾を避け、翠と狐面がそれぞれ後方に跳ぶ。
翠は大きく間合いが開いた隙に駆け出した。
氷刃竜の身体が浮き上がった瞬間に下を駆け抜ける。疾走する翠が目指すのは、さらにその先。
槍を持たない左手で、伏したままのはるかを掬い上げ駆け抜けた。直後、紅蓮の焔が翠の背をわずかにかすめゆく。
追撃に備え、翠は片手にはるかを抱えたまま鳴神槍をかざし緋焔を振り返る。
緋焔は襲い来る様子もなく、氷刃竜の尾の一撃をかわしながら叫んだ。
「だぁー! なんだってんだ、まったく。全然興ざめしちまった!」
倒す目標は思い通りに死なないわ邪魔は入るわで、すっかりやる気を削がれてしまった。
窪地の上空を覆う術式が結ぶ三角形。深羅、朱鷺乃、煌樹の成す術は、完成の時が近づいているようだった。
相当な力を持つと思われる銀龍も出現し、これ以上この場にいても面倒が増えるだけだ。
戦線を離れるか迷う緋焔の視線が、窪地の端のほうへと向かう。朱鷺乃と煌樹のいる位置のちょうど中間に見た。ふたつの影が現れるのを。
「何だ、あいつら?」
ひとりは、やわらかな銀髪の幼い少女。
ひとりは、闇より深い艶やかな黒髪に、朝日の金色を宿した瞳を持つ少年だった。
薫路の術に包まれた後、良夜は気づけば砦を離れた地に降り立っていた。連れられるままに森を抜け、たどり着いたのはこの激戦の地。
良夜は己が眼を疑った。その光景を信じたくなかったのだ。
「まさか……魂の開放を……!?」
良夜もかつての戦乱中、己の身を捨てて姿を変じた同胞を眼にしたことがあった。魂の具現である竜または龍の姿は、個体ごとに異なるのだ。
だが、窪地の中で荒れ狂う猛々しくも気高い白い龍の姿。その深く濃い冬海の碧さを持つ瞳――見た瞬間に氷冬だとわかった。
魂の開放には、それを内包する外郭――つまり肉体を取り払う必要がある。
一度魂を開放してしまえば、肉体は元には戻らない。力を全て使い果たした魂は、霧散し消え果てるのだ。
不意に、至道の言葉が良夜の心に浮かびあがる。
――氷冬には、これしか――夜天の遺志を次ぐことしか――残されていないのだ。
考えるより先に、身体が動いていた。
窪地の中へ駆け出そうとする良夜を、動くと同時に遮る小さな影。
「なーんか、ずいぶん大変なことになっちゃってるのねぇ」
大変さとはまったくもってかけ離れた、のどかな声を出したのは薫路だ。背中で良夜を止めながら視線は前方へと向けられている。
窪地の地面、その中にいる者たち。天をおおう黒輝の妖術陣。両者のあいだで氷刃竜が所狭しと暴れ回っていた。
「……このままだとちょっとまずいわね」
小さなつぶやきは周囲に轟く破壊音にかき消され、薫路自身にすら聞こえない。彼女の細い肩に良夜の手がかけられる。
「どいてくれ! 俺は」
「行ってどうするつもり? 力を出せないあなたに、何ができるの?」
良夜の言葉を遮った幼い声には、聞く者を驚かせるほどの冷たい響きがあった。
前を向いたままの薫路の表情は、良夜にはわからない。
だが。
彼女を押しのけようとしたその手は、微塵も動かないのだ。力は込めているはずなのに、相手はこんなにも小さく軽そうな少女だというのに。
良夜はかわいらしい少女の背中に、空恐ろしさを感じずにいられなかった。
ゆっくりと、薫路が振り返る。
見上げてくるのは、年相応の無邪気な笑みだった。
「まぁ見ててごらんなさい。世の中どう転ぶかわからないから、面白いのよ」
「う……うう……」
痛む全身を引きずるように、冴空は地面を這って進む。
三人の術者により作り出された妖術陣と、激しく躍動する氷刃竜が起こす大地の振動が腹に響く。
手足のみならず身体の節々が悲鳴を上げ、動かすたびに意図せず口からうめき声が洩れる。
それでも、弓を握ったままの腕を前に伸ばし。四本の指で大地をつかみ。脚の力も加えて全身を前へ引き寄せる。
何度もそれを繰り返し、ようやく目的の場所へとたどり着いた。
冴空は痛みをこらえつつ、ゆっくりと上体を起こした。弓を左肩に担ぎ、目の前にある石屑を両手で交互に掘り分ける。
山吹色の衣服が隙間からのぞくと、冴空は掘る手を早めた。
「兄貴……いま、助けるっす……!」
身体を半ば覆っていた石を全てどかしても、秋良は仰向けに倒れたままだ。閉じられた瞼は震えるほどにも動くことはなかった。
一瞬どきりとして思わず秋良の腕を取る。草人特有の、白に近い若苗色の皮膚を持つ細く節くれだった手に、弱くはあるが確かな脈が伝わってきた。
ほっと短く息を吐き出した直後、冴空ははっと顔を上げる。猫に似た大きな緑色の瞳が、せわしなく動いて周囲を探った。
ずっと奥、風凛の水籠の足元。長老が守護石を守るすぐ隣に、はるかの身体が預けられている。
「姫さんは、たすけられて無事でやすよ」
そう遠くない位置で翠と、追ってきた狐面の戦いが繰り広げられている。翠は先の二連戦が響いているのか、徐々に相手に押されているようだった。
はるかが戦っていたはずの緋焔の姿は見当たらない。
低く雄々しい咆哮が頭上から響く。
見上げた氷刃竜の周囲が白く煙る。光を反射しきらめくそれは白鱗から発する冷気だ。いくつもの鋭い槍状の氷塊が生まれていく。
氷刃竜の一声で、それらは一斉に上空へと放たれた。窪地の上に立つ、三人の術師めがけて。
二十本近い氷塊が魔術陣を抜ける直前。魔術陣の前を黒い闇が遮った。氷塊は闇の膜も意に介さず突き抜けていく。
そう思われた。しかし。
闇を軸に表と裏がねじれてしまったように、氷塊は闇に消えた勢いのまま大地めがけて降り注いだ。
「あっ!? わわ……」
冴空は慌てて秋良の半身を埋める瓦礫を掘り起こした。
頭上で氷刃竜が身を翻し、迫る氷槍をいなす。ちょうど氷槍の降り注ぐ直線上に氷刃竜がいたおかげで、冴空は難を逃れた。
だがふと向けた視線の先。冴空は身体中の水分が凍るほどの光景を眼にする。風凛の水籠付近に七本の氷槍が迫っていたのだった。
【竜人族と竜神の血】
竜人族は竜神化できる者とそうでない者に分類される。
竜神の血が薄い者は、自らの理性と引き換えに戦闘本能をあらわにした竜神の姿――竜へと変貌する。
血の濃い者は、竜気を開放することで神と竜の力とを兼ね備えた存在へと昇華――竜神化することができる。
その選ばれた者に宿る竜神の力は、竜人族としての肉体を捨て去り、魂を竜神そのものとして具現化させることによって極限まで引き出せる。それが魂の解放である。
今回登場人物名が多いので紹介
【はるか】珠織人・稀石姫である栞菫。記憶を失いはるかとして過ごしている。今は意識も失っている。
【秋良】はるかが懐いている斎一民。過去に訳ありで男として過ごしている。
【翠】雷神と恐れられた竜人族の戦士。今は栞菫を支える覚悟を胸に珠織人と共に過ごしている。
【緋焔】妖魔六将の一柱、炎の拳術使い。封じられた守護石の中で環姫を恨み続けていた。
【深羅】妖魔六将の一柱。闇の術に長けた小柄な老人。魔竜士団を利用していた。
【朱鷺乃】妖魔六将の一柱。長髪の黒巫女。魔竜士団長、夜天に協力(?)していた。
【煌樹】妖魔六将の一柱。短袴少年。つい最近まで守護石の中にいた。
【狐面】妖魔六将の一柱。遠近自在の二日月刀を操る。狐面で素顔を隠して過ごしている。
【氷刃竜】竜人族・魔竜士団。氷の副士団長として恐れられていた氷冬が変じた銀龍の祖竜神。
【良夜】竜人族・魔竜士団。兄のあとを継いで士団長となった黒竜の若者。
【至道】竜人族・魔竜士団。夜天、氷冬とは幼なじみ。古くから皆を支えてきた褐竜。
【夜天】竜人族・元魔竜士団長。祖先の罪と真実を知り魔界を求めた良夜の兄。
【冴空】草人・折鶴蘭の若者。秋良を師とすべく追い回していた。強さの答えを見いだせるのか?
【松野坐】草人・唐檜の老人。長老として守護石を守り抜けるのか?
【風凛】星見巫女と呼ばれる女性。五感を持たず水籠にたゆたう。氷槍からどう逃れる?
【薫路】良夜の前に現れた謎の美少女。闇を操り良夜を砦から連れてきた。




