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肆・氷刃竜 前

 

 戦場となっている窪地内で、(みどり)と狐面が。はるかと緋焔(ひえん)が。それぞれ戦いを繰り広げている。

 大地の鳴哭に紛れて遠く聞こえる戦いの音が、今の氷冬(ひとう)にはより遠く聞こえていた。

 片膝をつき、手には氷刃凍牙(ひょうじんとうが)が逆手に握られている。それを、力の限り地に突き立てた。刃先が埋まるのをやめてもなお、拳が震えるほどに力をこめる。


「おのれ……」


 かつて夜天(やてん)は、竜谷(りゅうこく)を出る計画を氷冬に話した。何者かの力を借りて外界とを隔てる結界を破ったのは、その後すぐの事だった。

 夜天に力を貸しているという『協力者』は、その後も夜天とのみ接触する形で魔竜士団に関わっていた。

 その術は守護石外周を守る結界を破り、守護石自体の力をも弱める。魔竜士団の目的達成のためには、なくてはならない存在だったのだ。

 それが、夜天を失った戦いの後には何の報せもないまま。一切の消息を絶っていた。


 魔竜士団が、行方不明の良夜の捜索と平行して探していたその術者。

 それが今、このような形で眼にすることになろうとは!


 腰を超す長い黒髪を吹き荒れる風に舞わせ、長い袂と裾の儀服は髪同様の漆黒。

 当時は頭巾付きの外套に身を隠していたが、遠目にも印象に残っている。血気のない白い肌と、鴇色(ときいろ)の瞳。


 夜天が人目を忍んで会っていた『協力者』だ。


 女は今、深羅(しんら)と共に術式に妖気を送っている。魔界からおびただしい数の妖魔を召喚するために。

 夜天が『協力者』に対し、『彼ら』と言っていたことが思い出される。それはすなわち――。

 窪地の縁にいる深羅を見上げ、貫く瞳。氷海の深い紺碧の色に、荒れ狂う海の激しさを宿し。鬼気迫る殺気は、押し隠すことなく視線の先へ向けられている。


「貴様……断じて許さんぞ!」


 氷冬は両脚で大地を踏みしめ、氷刃凍牙を支えに立ち上がる。

 深羅は術式に妖気を送る手を止めず。しわがれた声が頭巾からのぞく口から発せられた。


「おぬしらは魔界を新天地などと信じておったが、とんだ茶番よ」


 その声は開いた距離も周囲に轟く地響きも、ものともしない。窪地の中にいる者たちには、まるですぐ隣で語られているかのように感じられた。

 邪悪をそのまま音へと変じた深羅の声は、聞く者の背筋をおぞましく撫であげる。


「魔界そのものの命脈はもはや風前の灯。今更魔界に行ったところで何の利があろうか」

「……!」


 氷冬と、至道はその言葉に愕然とした。脳天から足元まで、巨大な杭を打ち込まれたかのような衝撃がふたりの思考を揺さぶる。

 それに追い討ちをかけるように、嘲りを色濃く浮かべた深羅の声が続く。


「そこの朱鷺乃(ときの)が少し餌を蒔いただけで、すぐに喰らいついてきおった。おかげでこちらは、今まで秘密裏に計画を進めることができた。おぬしらの士団長は本当に名役者だったわ」


 氷冬は怒りのあまりに血の気が引くのを感じていた。脳裏には夜天の声が蘇る。


――天界は竜人族を……いや、双月界に在るすべての者を偽り続けてきた。真実の一端を知った竜人族は竜谷に押し込められたんだ。


 夜天の胸にあったのは、竜人族としての誇り。それを貶めた天界への怒り。


――創世記の伝承すら、天界の都合よく描かれている可能性だってある。魔界も、天界の都合で貶められたのだとしたら?


 それも、朱鷺乃とかいう女に吹き込まれたものなのか。


――俺は魔界を開放する。竜神は魔界から来た神……その血を受け継ぐ竜人族にとって、魔界こそが帰るべき場所なんだ。


 彼の声は、常に氷冬の中に消えることなく渦巻いている。

 夜天が信じていた中にいかほど真実が含まれていたのか。氷冬には確かめる術もない。


 ただひとつ、夜天の純然たる思いだけは偽りないものだった。夜天は竜人族の未来と希望を、魔竜士団の――己の進む先に見据え信じて疑っていなかった。

 今それは、妖魔のために利用され捨て去られようとしているのだ。


「深羅。貴様の思うようには、させん」


 氷冬は地面から抜き去った氷刃凍牙の刃を正眼に構えた。深羅は視線を送ることもせず一笑に付す。


「無理をせずとも、術が成れば痛みも感じず消し飛べよう。その身体では、もはやなにもできまい」

「そうだ。今の、この身体ではな」


 激戦をくぐり抜けてなお、薄氷のごとく研ぎ澄まされた氷刃凍牙。切っ先は、深羅へと。そこに左手の二指が添えられる。

 氷冬は深い呼吸の後、静かにその瞳を閉じた。


「その姿天衝く角で雷雲を穿つ。鋭き牙で氷を砕き、荒ぶる爪が大地を裂く」


 氷冬の声は朗朗と響く。辺りを取り巻く地鳴りすら、その謳を彩る助奏に聞こえてしまうほど勇壮に。


「雄大な翼は空を切り、気高き魂は為虎添翼(いこてんよく)天神地祇(てんしんちぎ)にも敵う者なし」

「よせ、氷冬!!」


 至道(しどう)が咆えた。氷冬を殴り倒してでも止めんとする思いに身体がついていかない。限界を超えた肉体は、心急く至道に応えてはくれなかった。


 たとえ今の氷冬に残された唯一の手段がそれだとしても。

 たとえ彼が、病魔に侵された身体に残されたわずかな命を微塵も惜しんでいないとしても。

 今ここで友の命が果てようとしているのを、無為に見過ごすことしかできないのか。


 やりどころのない怒りに歯噛みする至道の眼の前で、氷冬の身体は七色の光彩を放ち始める。

 いや、その光は氷冬から放たれているのではない。彼の内側から氷冬という外殻の隙間を縫って漏れ出ているのだ。

 無数に放たれる虹色の光は、髪一筋ほどだったものが見る間に膨れ上がっていく。

 氷冬の身体を襲う負荷はいかほどのものか、彼は気力のみで正眼の構えを保っている。

 肉体を蝕む病が彼の喀血を誘おうとも、謳は止むことなく続けられた。


「この血に宿りし竜神の魂よ、今、我願い奉る」


 残された道はひとつ。

 今の自分に力がないならば、この全身全霊をもって。妖魔もろとも稀石姫(きせきのひめ)たちも討ち果たす。

 夜天の仇をとり、彼のもうひとつの遺言を果たすために――。


「我が命持て契り成さん! 今この身より天翔けよ!」


 詠ずる声の結び。氷冬は反転させた氷刃凍牙の刃を両手で握り、手より迸る朱も意に介さず己が胸へと突き立てた。

 氷冬の内より光彩があふれ出す。その七色の光は氷冬の姿を融かし、渦を巻いて昇華する。

 不安定に揺らぐ光の渦は、上空で次第にある形を成していく。完全なる形を成すと、白雪の鱗に吸いまれて光は収束した。

 長い蛇のような巨体が宙でくねる。背には等間隔に三対の細い翼が見てとれた。その瞳は厳冬の深海のごとき深い紺碧を湛えている。


「氷……冬……」


 至道の声は震えた。こうなってはもう、自分にはどうすることもできない。


 その場にいる誰もが、銀色に輝く白鱗を持つ竜を見上げた。

 短くも強靭な四肢には鋭い爪が空を握り。頭部には薄氷を削りだしたかのように透く鋭利な角を戴く。


氷刃竜(ひょうじんりゅう)……」


 翠の口から竜の名がこぼれる。

 氷冬が手にしていた刀に冠されたその名にある通り。まさしく眼前にあるのは、銀竜族の祖である竜神そのものだった。



【鴇色】鴇(鳥)の翼に見られる淡い桃色。朱鷺乃の名は瞳の色から名付けられた。


【氷刃凍牙】竜人族を構成する五部族に伝わる武具のひとつで、銀竜族に継承されている長刀。武器には部族の祖となる竜神の名が冠されている。


【創世記】双月界の成り立ちを伝える有名な書物。

「天界が双月界をつくるため、天地守護・環姫に命じ邪悪な妖魔を倒した。妖魔六将を守護石に封じ、戦いに貢献した六種族の祖を守護石護衛の任につけた。守護石を中心に種族ごとの国が発展することになる」というのが大まかな内容。

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