拾・良夜と約束
四角く切り出された岩を隙間なく積み上げた壁を、松明の橙色の光が照らし出している。窓のない廊下に、言い争う声が響く。
「そこを通してくれ!」
「いけません! お身体も万全ではない今、この砦からお出しするわけにはまいりません」
声の主は、良夜と門番だった。
魔竜士団の砦は、箱の中に小さな箱を入れ込んだような二重構造となっている。内側が居住区となっており、屋外へと続く外周部に繋がる通路はふたつ。門番たちの背後にある両開きの鉄扉がそのひとつだ。
「士団長の命とあっても、通すことはできないのか?」
旭光の金色を宿した瞳に力をこめて、良夜は門番ふたりを順番に見つめる。ひとりが視線をさまよわせうろたえた。
「で、ですが……氷冬様が――」
「おい!」
もうひとりの門番にたしなめられ、はっと口をつぐむ。同時に顔から血の気が引いた。
「も、申し訳ありません! 士団長のお言葉を優先すべきではありますが、副士団長の命に背くわけにもいかず……」
「士団長がその気になれば我らなど障害にもならぬことも承知していますが、ここはどうか!」
屈強な男ふたりが、幼さを残した少年に深く頭を下げる。
氷刃のごとき副士団長に反し、良夜は人当たりもよく士団長となる前から皆に親しまれていた。その実、士団長にふさわしい力の持ち主であることは誰もが知っている。稀石姫と繰り広げられた壮絶な戦いは、未だ鮮明に士団員たちの記憶に焼き付いていた。
士団長と副士団長の板挟みとなった門番たちは、息を殺して良夜の様子をうかがっている。
「……わかった」
良夜はすっと眼を伏せると、踵を返した。背中越しに、緊張から開放された安堵の息が聞こえた。
どちらの命にも叛きたくはないという、彼らの気持ちもわかる。この二人を越えて扉をくぐることは簡単だが、仲間を傷付けるような真似はしたくない。
――なりふり構わずやるのは最後の手段だ。今は別の方法を考えよう。
自室にあてがわれた部屋へと戻ってくると、良夜は寝台へ腰掛けた。
動悸を落ち着けるために、深く息を吸い、吐く。額に浮かんだ汗を腕で拭うと、良夜はそのまま後ろに倒れこんだ。
身体が重い。
己の全てが混濁するようなあの眩暈も、間隔は長く回数も少なくなってきてはいる。時折起こる身が捻じ切られるような発作は、薬を飲めばすぐに治まる。
だが、この倦怠感だけは、常に身を苛んでいた。腕ひとつ、指一本動かすにも、自分の意識したそれよりわずか遅れた反応を返す身体。動かそうとするたびに、通常の倍以上意志の力を必要とする。
少し動き回っただけで、この様だ。
――どうやったら、ここを出ることができる?
居住区は、天地四方を外周区に取り囲まれており窓もない。外周区へは門番のいるふたつの扉のどちらかを抜けるしかない。
外周区へ出たとして。外へ出る出入口は、居住区からの通路より最も遠い垂直線上にふたつ。または砦の角にある階段を上がり、屋上に出るか。
いずれにせよ脱出を試みようとすれば、砦に待機している士団員が阻むだろう。この身体でどこまで耐えられるだろうか。
――竜神化して、石の継ぎ目を打ち破れば……?
この砦は、竜谷にある古城から建材を崩し出して建てたものだ。竜人族が竜谷に住まう前からあるという古城は、竜谷を構成する鋭く切り立った岩壁を四角く切り出して建てられていた。
竜谷の岩壁は、竜人族のどのような力でも破壊できない。それをどのように建材としたのか。石材は無理でも、魔竜士団が砦を組んだ時の継ぎ目なら――。
だが、良夜はすぐにそれをあきらめた。今の身体では竜神化できないだろう。壁を破壊し直線脱出を目指したとして、士団員たちが立ちはだかることにかわりはない。
「くそっ!」
良夜は焦れる心を抑えることができず、横たわったまま拳に握った右手で石壁を叩いた。
「あらあら。そんなにお外に出たいのかしら」
「――!」
突然聞こえた少女の声に、良夜は寝台の上に跳ね起きた。
視界の端をかすめた薄布を追って、右へ視線を切り返す。が、姿は見えない。確かにこちらに動いたはずなのに――。
いぶかしむ良夜の耳を、くすくすと楽しそうな忍び笑いがくすぐる。逆の方向を振り向き、ようやく捉えた。
壁際に置かれた小振りな棚の上に、声の主はいた。
ふわりと薄絹をまとわりつかせた華奢な身体。大胆に胸元が切り込まれた意匠の黒い衣服からは、白い肌が多分に露出している。身体に密着する部分と柔らかく空に舞う部分が、絶妙な調和を見せる妖艶な着衣。
それとは裏腹に衣服の主である少女は、人間の年齢で言うのであれば、まだ十歳そこそこでしかないだろう。
緩やかに波打つやわらかな銀髪。頭の両側に結って流したそれを揺らすようにして、少女はまだ笑いの余韻を残している。
良夜は得体の知れぬ不気味さを感じて全身に緊張を走らせた。
この砦は、良夜が外に出ることが叶わぬほどに護り固められている。それをかいくぐって侵入してきたというのか――?
「何者だ……どこから入ってきた?」
「何者、ねぇ……名前なら教えてあげる。あたしは香路。うふふ、どうやって入ってきたか、知りたい?」
香路という名の少女は羽毛が舞う軽さで音もなく着地した。
ゆっくりと近づく彼女は、笑みの形に細めた碧眼で良夜の身体の隅々までなめまわす。幼い外見にそぐわぬ妖艶な瞳に、良夜の本能は絶えず警鐘を鳴らしている。
巧妙に隠されているが、その瞳の奥――深く底知れぬ闇の気配に良夜は気が付いた。
「妖魔か!」
良夜が立ち上がろうとするより早く、少女は踵を返した。近づいてきたときと同じ緩やかさで遠ざかり、香路は良夜を振り向く。
「あたしが何者かなんてどうでもいいでしょう? 重要なのは、あたしがここを自由に出入りできるって、そのことじゃない?」
「なに?」
「そこそこ強いって聞いてたから、どんな大男かと思ってたけど。かわいくて気に入ったわ。なんなら、稀石姫の居場所も教えてあげましょうかぁ?」
「――!」
良夜は寝台を蹴るように立ち上がり、掴みかかららん勢いで香路に詰め寄った。が、すでに姿はなく、背後からため息が届く。
「もう! 乱暴なのはきらいよ」
「栞菫は……稀石姫は、生きているのか!?」
良夜が振り向くと、香路は寝台に腰をおろしていた。両足を遊ばせながら、良夜の剣幕を可笑しそうに見つめている。
と、いい案を思いついたと言わんばかり。香路の口元にじわりと艶やかな笑みが広がっていく。
「あたしが連れて行ってあげる。そ・の・か・わ・り。ひとつ約束してちょうだい?」
香路は弾みをつけて立ち上がり、良夜の耳元に唇を寄せた。
ささやかれる提案は、妖魔の罠なのか……たとえそうだとしても。今の良夜にとっては、彼女だけが唯一砦の外へ出るための活路となりえる。そう思えていた。
「……と、いうわけ。どう? 守れるかしら?」
良夜は即答できなかった。
提示されたのは、想像していた以上に苦しい結約だ。
だが――。
「真偽をこの眼で見極めたとき、承諾しよう」
今の話が真実なのであれば、それは自身にとっても望ましい選択となるはずだった。
「うふふ、じゃあ決まりね。約束は守ってもらうことになっちゃうけど、ここからは出してあげるわ」
香路は小気味良い音を立てて指を鳴らす。
刹那、二人を囲む地面から突如として黒いものが津波のようにせりあがり、二人の姿を覆い隠す。
黒の波が円を閉じ、再び地面へと吸い込まれる。後には沈黙が支配する無人の部屋だけが残された。
【竜谷と古城】竜谷を形成する切り立った岩壁は、竜人族ですら破壊することができない強度を持っている。天界が竜人族を封じる場所に選んだのはそれが理由でもある。強固な岩壁を建材として切り出したのは、誰がどのような技術を持っておこなったのか。古城の内壁には双月界のどこにも見られない文字のような刻印も残されている。




