捌・響心 後
地面に横たわる秋良の眼に映ったのは、地に片膝つく至道の後姿だった。
岩甲をまとう右腕以外の全身に大小の刀傷を負っていた。その肩が、乱れた呼吸に合わせて上下している。秋良と戦っているときには息ひとつ乱さずにいた至道が、である。
――翠が、圧しているのか?
至道がゆっくりと立ち上がった。巨体に遮られていた、その先の光景が飛び込んでくる。
間合いを置いた先、全身を朱に染めて立つ翠の姿があった。
彼が至道に負わせた傷を上回る痛手を全身に受け。なお緑玉の瞳は戦意という名の光を宿し、傷だらけの右腕には己が刀をしかと握りしめている。
翠と至道、動いたのは同時だった。
「うおおおぉぉ!」
至道の気合と共に地面から無数の岩が跳ね上がる。わずか空中に留まりを見せたそれが弾丸と化し翠を襲う。
岩による豪雨に翠の姿が紛れ、秋良は上からはるかが息を呑む音を聞く。
直後走る一条の光。岩礫の壁を一刀にひらき、翠が疾走する。斬り上げた刀を返し突き立てた切先。胸元めがけて穿たれるその一撃に対し、至道も後方に引いた右腕を前へ繰り出す。右拳の岩は一本の巨大な槍へと変じ翠を狙う。
至道の槍先が翠の腹部を貫く。しかしそれよりも早く、翠の刃が至道の心臓の位置を捉えていた。
「やった……!」
冴空が思わず漏らした歓喜の声。それを金属音が打ち破る。
「残念だったな」
至道は苦痛に顔を歪ませながらも明瞭な声で告げた。
「俺の岩は、体内にも移動させることができるのだ」
刃が心臓に届くより早く、岩が阻んだ。渾身の力をこめた翠の突きと、至道の岩盤との衝突に耐え兼ねたのだろう。刀は、鍔から三寸上で砕け折れた。
冴空は再び脱力し膝から崩れ座り込む。
「そんな……あの捨て身の攻撃でも、だめなんでやすか……」
ほぼ同時に発せられた秋良のうめき声。はるかが下を見ると、秋良は身体を起こそうとしていた。
「秋良ちゃん、動いちゃ――」
「なにを、してやがる。あいつは……あいつだって、至道みたいに姿を変えられるんじゃあ……」
それより先は声にならず。秋良の身体は再び地面へ沈む。
はるかはわずかな間だけ眼を閉じ、記憶をたどる。再び開かれた紫水晶の瞳に宿るのは栞菫の哀しみだった。
「翠くんは、『竜人族であることを捨てた』って、言ってたの」
竜人族として生まれ持った力は、多くの命を奪った。珠織人と共に歩む決意と共に、己の過去と竜人族の力を捨て去ったのだ。
「だから『雷神』としての力は、もう使わないんだと思う」
翠の背負う痛みをありのまま受けたような、はるかの表情。それは驚きに変わる。
秋良が再び立ち上がろうとしていた。はるかが押しとどめようとする手を振り払い、四肢に無理やり力をこめる。
はるかは振り払われた手を、秋良を支えるために使う。それに気づくこともなく、秋良はまっすぐに前方を見据え。口元からかすかな声がこぼれる。
「馬鹿か、あいつは」
その視線の先で、至道は翠を貫いたままの右腕を高々と掲げた。
「ぐっ――!」
食いしばった翠の歯からうめきが漏れる。胴を貫く岩に自らの重みがかかり、鮮血が舞う。
至道が右腕を振り下ろした。翠は地面へ叩きつけられ、跳ね上がり、離れた地面へ転がる。刀身の折れた刀を手になお立ち上がろうとするが、その姿は誰の眼から見ても限界が近いことが察せられた。
「これ以上、生き恥をさらすこともあるまい」
至道はゆっくりと翠へ近づいていく。
「おい、てめぇ……!」
響いたのは秋良の怒声だった。歩みを止めた至道が振り向く。しかし秋良の鋭い視線は、至道の先にいる翠を射抜いていた。
「いくらお前が逃げようとしたってなぁ、過去は捨てられねぇんだよ!」
どんなに恥ずべき過去でも。
どんなに忌むべき過去でも
どんなに苦しい過去でも。
自分という存在がここにある以上、過去を切り離すことなど誰にもできはしないのだ。
翠は黙したまま、秋良の言葉を受けていた。その両腕両脚が、岩の楔に貫かれる。
「――!」
突然の灼けるような痛みに、声も出ない。翠の身体は楔の勢いと共に後方にさらわれ、地面がめくれ立った岩盤へとはりつけにされる。
至道が再び、悠然と翠との距離を縮めていた。
翠は自らを繋ぎとめる楔を外そうと足掻くが、動くたびに傷から血があふれ出る。
翠の自我は薄れていく。血と共に、意識まで流れ出しているかのように。
朦朧とする意識の中、なお叫ぶ秋良の声が届く。
「どんなにお前が否定しようとも、お前が竜人族であるという事実は変えられない。逃げることなんか、できやしないんだ!! わかってんのか!?」
――逃げる……俺が?
翠は頭の中でそれを否定する。浮かぶのはかつて栞菫に受けた言葉。
――竜人族であった時の自分を忘れないで。あなたの名は、『翠竜』の『翠』であるということを。
そうだ。竜人族であったときの所業を忘れたことなど、片時もない。奪った命の重みを背負い、罪を償うために。命を奪った力は二度と使うまい、と――竜人族である自分は、存在してはならないのだ。
駆け寄らんばかりの勢いを、秋良の足は支えきれず。転倒しそうになりながらも前へ出る秋良を、はるかは必死で支えていた。が、閃光のごとく脳裏をよぎった栞菫の記憶に、翠を振り仰ぐ。
「翠くんの名前は、罪や罰をあたえるものじゃない。栞菫は、竜人族であることも、翠くんの言う『罪』も全部、『翠竜』のありのままを『翠』として受け入れてくれていたんだから!」
あの夜、翠へと語った栞菫の言葉に秘められていた想い――。それに、はるか自身の想いをのせて、翠へと投げかける。
しかし翠は微かにも動く気配がなかった。傍らに到達した至道が、岩槍を頂いたままの右腕を振り上げる。
「翠くん!」
はるかの声に涙が混じる。その手を離れ、秋良が駆け出す。膝は数歩で力尽き、前のめりに転倒した。反射的についた両手を拳の形に握り、地面を叩き叫ぶ。
「死んじまったら、何もかもおしまいだろうがぁ!!」
突然の閃光。拳を振り下ろす至道の姿が白にかすむ。光の正体は天から降り注いだ幾条もの稲妻だった。天地を結んだ光の柱に遅れて訪れる轟音。落雷に打たれ砕けた岩楔から解放された翠を中心に、雷の雨は未だ止まず。そのうちのひとつが至道に注ぐ。
「ぐっ……むうぅ!」
至道の胸に残された刀身に落雷したのだ。紫電を宿す刀身を左手で掴み、抜き捨てた。雷に焼けた傷から煙がくすぶる。
ひときわ大きな彗星のごとき雷撃が地面へ突き立つ。それを最後に雷の嵐は静まった。
地面を貫いたのは一振りの槍。ふくらみのある穂に沿う形の副刃を持ち、紫電をまとう姿は名にふさわしい威厳すら感じさせる。
それを握ることができる唯一の人物が槍の柄を掴み、抜き取った。
穂先から石突までを駆け抜ける雷渦が、漆黒の髪を明るく照らす。髪の間から天を突きそびえる麒麟のごとき角。一対のうち右のものは、根元付近で砕けた古傷となっている。
携えた槍は、翠竜族最後のひとりを生かす理由となった鳴神槍。
そこに立つのはまぎれもない。敵味方から『雷神』と恐れられた男だった。
【鳴神槍】竜人族・翠竜に伝わる武具。木の彩玻動と同調し雷を操る。




