漆・襲来 後
地鳴りがゆっくりと静まりゆく。秋良たちを護っている風凛の結界も光を収束させていった。薄れゆく白緑色の光壁ごしに周囲の光景が見えてくる。その有様は、結界が消えて鮮明になったことで嫌でも信じざるを得なかった。
神木周辺の大地は大きくえぐられ、直径十間近くもあろうかという円形の窪地となっている。守護石の間となっていた神木下の洞穴が窪地の底面となり、頭上を覆っていた土や細かな根はすべて失われてしまった。今や守護石の間は、神木の太い根が囲うだけのもろい鳥籠の様相を呈している。
窪地の中はめくれ上がった土や岩、砕け折れ呑みこまれた樹々が混在している。その中で、ひとりの男が両の脚でしっかりと大地を踏みしめ立っているのが見えた。
「あいつ、至道……なのか?」
秋良は誰にともなくつぶやく。
柳茶色の髪を持つ、七尺近い巨漢。以前木霊森で戦った竜人族の男。しかし今眼にしている人物は、肩から指先までが強固な岩肌と化していた。
いびつに隆起した岩が右腕全体を包み、手の先に近づくにつれて大きく膨れ上がっている。特に右拳は左の倍はあり大槌さながらだ。
額に巻かれていた紺色の布はなく、額に降りかかる髪の間から巨大な一対の角がそびえていた。長い年月雨風に絶えしのいだ磐石のようにごつごつと角ばったそれは、まごうことなき竜の角である。
至道は己の先、一点を見つめていた。
視線の先にあるのは、木であった巨大な破片と共に土砂に埋もれる翠の姿だった。
「……!」
「翠く……!」
息を呑む秋良と、思わず駆け寄るはるか。はるかが秋良の隣を駆け抜けようとしたその時、ふたりの足元を右から左へ岩の刃が駆け抜ける。
はるかが足を止めると、横薙ぎに岩刃を発生させた右腕をゆっくりと下ろした。岩をまとった至道は、拳を触れさせずとも竜気を大地に通せるのだ。鋭い眼光がはるかを射抜き、言う。
「守護石の結界は解けたのだな」
秋良もそれを確認すべく、はるかをうかがう。秋良の視線を受け止めるはるかの顔には『どうしよう?』という心の声がありありと浮かんでいた。言われずとも、結界は解け守護石が危険にさらされている状況は理解した。
「どうもこうも、やるしかねぇだろ!」
秋良は両手に小曲刀を抜き放つ。窪地の外から至道の部下たちが滑り降りてきたからだ。
はるかを守護石の元に向かわせるか? いやそれ以前に、守護石を護らなくては――。
「あんた、なんとかならないのか!?」
秋良の呼びかけに、風凛は心苦しそうに答える。
“先ほどの結界に力を使ってしまいました。もう少し時間がないと……”
はるかも細身刀を抜き竜人族を迎え撃つ。拳刃を持つ褐竜の戦士だ。繰り出される刃を刀身で受け流しながら後方へ呼びかけた。
「長老様、守護石をお願い!」
「承知!」
松野坐は長い節杖を両手で高く掲げた。込められた力に震える杖先に呼応し、太い神木の根から失われた側根が見る間に成長し始める。幾重にも絡みつき、神木が抱く守護石を完全に隠し包んだ。
「神木も弱っておる上、わしももう歳じゃ。長くは持たぬぞ!」
長老は杖を保持したまま、神木に力を送り続けている。それを視認しつつ、秋良は足元から襲いくる岩の尖塔を跳んでかわした。岩の側面を足場に竜人族へ向けて跳躍する。上半身をひねる回転に任せ袈裟懸けに右の小曲刀を振り下ろした。
宙に舞うわずかな赤。秋良の小曲刀が切り裂いた竜人族の腕と、竜人族が地に打ちつけた拳が生んだ石矢がかすめた秋良の左頬から血が飛ぶ。どちらも浅い。
はるかは竜人族と互角以上に戦っている。不思議とこれまでのような恐れは感じなかった。
身体に宿る力を、信じることができるようになったからなのだろうか。記憶を思い起こす、というよりも。身体の中を探り、その方法を見つけ出すという感覚。そうして栞菫の身体に記録された方法をなぞり、力を発動させるのだ。
「天地守護環姫の御元に仕えしこの名をもって、我が刃に双月の力を授けたまえ――我が名は栞菫!」
はるかの声と共に刀身が彩玻光に輝く。斜に薙いだ刃が、向かいくる太い岩槍をいともたやすく両断する。たじろぐ竜人族の懐に、身を低くし入り込む。
「はっ!」
細身刀を、弧を描く軌跡で右から左へ。竜人族の身体を捉えつつ、こちらへ拳を振りかざすもうひとりの方へ振り抜いた。
「がっ!?」
「ぐぇっ!」
ふたりの竜人族は彩玻光に増幅された剣圧によって、窪地の反対側まで吹き飛び土砂に埋もれた。
「ごめんなさい。命に関わる傷ではないから……」
遠くで起き上がる様子のない竜人族に小さく頭を下げる。打ちつけたのは刀の峰だったのだ。
「はるか、こいつらも頼む!」
横合いから秋良の声。見ると秋良は至道の後姿めがけ駆け出していた。後を追おうとした竜人族の前に、はるかは慌てて割って入る。
至道は、部下が稀石姫たちを足止めしている中、悠然と。窪地の中心――風凛と松野坐の方へ歩みを進めていた。
「待て!」
突然かけられた少年の声。至道は声の主に視線を合わせる。
呼び止めたのは小さな草人だった。
冴空は風凛の水籠を背に立ちはだかり、矢をつがえ至道に向けている。
風凛は皆を護るための結界に力を使い果たし、はるかと秋良は至道の部下と戦っている。長老は守護石を護るため、自らの生命力を神木へ与えている。
至道が風凛に凶拳を向けたとき、彼女を護れるのは自分しかいないのだ。
「風凛様には指一本触れさせないっす!」
表明した決意とは裏腹に、声や手足は震えが止まらない。
至道は冴空のことなど意に介さぬ様子で歩を進めた。一歩、また一歩。風凛に対する脅威が近づいてくる。
冴空は口を強く結び、力を込めて震えを止めた。いっぱいに引き絞った矢を、放つ。矢は一直線に空を切る。寸分たがわず至道の左眼へ。
乾いた音。そしてふたつに折られた矢が地面へ落ちた。至道の岩拳に払われたのだ。
次の矢を引き抜く間もなく、冴空の身体は軽々と宙へ舞った。至道が払った拳が呼んだ岩の鎚が、冴空を脇腹から突き上げたのだ。
地面へ落下し転がる冴空の眼に、近づいてくる至道の足元がかすんで見えた。その向こうに、至道へ向けて跳んだ秋良の姿も。
秋良は両刃をそろえて至道の背中めがけ振り下ろす。硬い音と手ごたえ。岩に武装された至道の右腕が受け止めていた。
即座に小曲刀を軸に縦方向へ。至道の頭上を越えて身体をひるがえす。地面から突き上げる尖塔をかわしつつ、秋良は至道の正面に立ちふさがった。
至道の見下ろす視線と、秋良の睨みあげる視線が交差する。先に口を開いたのは至道だった。
「命を無駄に捨てることはない。邪魔立てせねば危害は加えん」
「邪魔者扱いされるのは慣れてるんでね」
秋良は全く物怖じもしない様子で答える。
しかし内心は穏やかではなかった。
なぜだ。
守護石が破壊されようと、自分には関係のないことのはず。
こうして正面に立つだけで、至道の体から発せられる闘気が肌を痺れさせるほどに伝わってくる。今の自分の力で、渡り合えるものかどうか……。
――なぜ、至道と冴空の間に割って入った?
その答えは見えぬまま、至道との戦いが始まる――。
【間】距離を表す単位。一間は約二メートル。




