碌・神木と星見の巫女 後
はるかの視界が、白に染まる。
風凛の周囲を取り巻いていた全ての光が、透明な皮膜に触れた両手に集約する。まぶしさに細めていた瞳でそれを見て、驚き手を離そうとした。
離れない。
違う。身体が動かない。心と身体を繋ぐ線が切れてしまったかのように。
それ以上開けていられず眼を閉じた。閉じた瞼の中でも入りこんだ白は消えない。身体の、心のずっと奥まで侵食していく。
もはや周囲の音も景色も、自身の感覚すらもない。
“大丈夫。恐れず、心を開いて”
どこからともなく反響する風凛の声。はるかは不安に流されそうになっていた心を持ち直した。
“記憶をさかのぼっていきます。あなたは、心のおもむくまま……”
風凛の声が次第に遠くなる。
それが周囲を取り巻き始めた風のせいだと。気がついた時には風は瞬く間に強さを増し始めていた。はるかを中心とした旋風が起こっているのを肌と音で感じる。
いつしか消えたまぶしさに、はるかの紫水晶の瞳が開かれた。
取り巻いている風の正体は無数の音の嵐と光景の波だった。見上げるほどの高さまで伸びあがったそれは、上から降りかかるようにはるかを呑みこんだ。
神木の葉音と身体のきしむ音
葉は天蓋のごとく夜空を遮って
若草色の木洩れ陽 隙間を塗って差し込む柔らかな陽光
「なぜ、槍を使わん」
その人の、胸には、槍が――深々と――
砕けた幹と、えぐられた根
樹の破片に埋もれるように、翠が
殺気に顔を上げた栞菫と、父を傷付けた男との視線が交差する。
秋良の身体は竜めがけて
「はるか、刀よこせ!」
天地の使徒・珠織人として授かりし名の元に
この月を、あの人も見上げているだろうか。戦を控え、どのような気持ちで
「早く行こう、秋良ちゃん!」
その鎖を解き放ち、委ねる。
「でも絶対強くなるよ!」
私は記憶を取り戻そう
「またお会いできましたな。稀石姫――
李の、いつもと変わらぬほんわかとした笑顔
薄汚れた茶色の外套をまとったその姿。
緋焔は、ざっくりと斬り込まれた肩口から血を
玻光閃であれば、妖術の炎といえど
「てめぇの身内だろうが!」
緋焔の金色の瞳を 白銀の渾身の一撃は
自分を、栞菫であると信じることに
自らの身体を包み込むように広げられた二対の大きな翼
珠織人として――稀石姫としてこの双月界に生を受けたことの重みを――。
「はるか……とにかく逃げろ」
夕闇に包まれた丘が炎熱の奥に揺らいで見える。
炎狗は蛇のように縦長の、炎のように紅い瞳で
すべてを呑みこんでいく、焔、焔、焔――。
「馬鹿か、おまえは!」
夜空にひっそりと咲く大輪の花
赤い蠍の刺青――。 白い砂の上に、大量の血が
大地を埋める白い砂の照り返し
「私、帰るところないし……ここに居させて」
巻き上がる砂煙 地平に近づき大きく膨らんだ橙色の夕日が霞んで
砂の上に散った腕輪の破片
「それ……を……」
晴れた夜のような深い瑠璃色。
「あの人、に……渡さないと……」
「お前は、ここに残って――」
兄様――
「俺にもしものことがあったら、これを彼女に渡して欲しい」
私は……
もし――再び会うことができたら、そのときは……
士団長と一対一で戦い
宿命と共に双月界に還るのが、我等のさだめ
良夜という名は――
私は……誰
私は珠織人として――聖、そして稀石姫として……
何があってもお前を守るよ
わたしは二人とも大好きだから
またこの場所に 蒼月の彼方に ふたりがはるかなる地へ
争ってなんか欲しくないのに
わたしが二人を止めなくちゃ……
私は……私は、私は、私はわたしは――
ぱん――!
乾いた音が強く響き、はるかの意識は『今』に戻った。
すでに記憶の奔流も、それを起こした白も消えている。
時をさかのぼり次々現れた記憶――栞菫の身体に刻まれた記録。一瞬で過ぎ去るものもあれば、鮮烈に残像を残すものもあった。それらは入れ替わり立ち代り浮かんでは消えていった。
はるかとしての意識が戻る前に見えたそれは、特に深く、胸をえぐるような感覚を伴っていた。
――もう少し見えていたら、なにかがわかるような気がしたのに……。
はるかが顔を上げるのと、風凛の言葉が響くのは同時だった。
“そんな……ことが――。環姫、あなたは稀石姫に何を……”
「風凛様……?」
松野坐が気づかわしげに声をかけた。そうせずにはいられないほど、風凛の声ともいうべき旋律は戸惑いに揺れていた。
しばしの沈黙。風凛は再び語り始めた。迷いの消えた涼やかな音色があたりに響く。
“双月界にかつてない事態が起こっています。今の私にはこの先を見ることはできませんが……はるかさん”
「はいっ!?」
突然名を呼ばれて身体を跳ね上げながら返事をするはるかを、風凛のやわらかな音が包む。
“あなたが今『はるか』として在るのには大切な意味があるのです。なにがあっても、決して負けないで――”
風凛の言葉は婉曲的で、なにを示しているのか誰にも察することができなかった。しかし風凛はそれ以上触れずに、はるかに言った。
“さあ、今のあなたなら結界の解き方がわかるはず。あまり時間がありません。結界を解いて巡礼の儀を”
風凛の言う通り、はるかは自身の中に感じ取っていた。以前からそうだったようにごく自然に、結界を解く術が存在していることを。
はるかはうなずき、腰の細身刀の柄に左手をかけた。わずかに鞘から抜いた刀身に、右の人差し指を滑らせる。指に走った赤い筋にふくれあがる血を、奥に守護石が見える空間に添えた。
なにもないはずの空間に、堅い手ごたえ。そこに、代々の聖にしか知りえない文字を書き連ねていく。
秋良はその様子を遠くから見ていた。が、自身の中に膨れ上がる欲求をこれ以上抑えていられず。身体と声が風凛へと向かう。
「なぁ、あんた! この場にいない者の『星』とやらも見ることができるのか?」
あまりの言いように風凛に向けられたものとすぐにわからず、遅れて松野坐がたしなめる。
「これ! 風凛様にむかってなんと無礼な!」
しかし秋良には松野坐の姿も声も届いていない。鳶色の瞳は風凛の姿を。その姿の向こうに一縷の希望を。それだけを映していた。
秋良の挑むような、それでいてすがるような視線。風凛の纏う衣服が、光の揺らぎと共にふわりと持ち上がる。
“その方に深く縁のあるものをお持ちでしたら、辿ってみましょう。確実な答えは保証できませんが……”
「かまわない」
“では、こちらへ”
秋良は足早に水籠に歩み寄りながら、腰に帯びた一対の小曲刀のうち左のものを鞘ごと外す。はるかがつい先刻まで立っていた位置で立ち止まった。左手で握った小曲刀を前へかざす。
“持ち主の名と、あなたとの縁を教えてください。あなたがその人を求める想いが、媒介であるその刀と探している方を結ぶ糸を強くするのです”
風凛の言葉に、秋良は答えをためらった。長いこと誰にも明かすことなく、己の内に秘めてきたものだからだ。
――それでも……わずかでもいい。手がかりが欲しい!
左手の小曲刀は質実剛健な右のものに比べ、流線形の形状と装飾が施されている。
それを見つめながら、秋良は告げた。
「名は、春時――俺の、兄だ」
お読みいただきありがとうございます!
誠に勝手ながら、しばらく隔週金曜日(第二・第四)更新で進めさせていただきます。
体調不良、多忙、解消されましたら毎週更新に戻したいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします!
遡った記憶の登場人物
【李】珠織人、栞菫付きの次女。今日も侍従長に絶賛怒られ中。
【緋焔】妖魔六将、炎の妖術と拳術が得意。負傷したまま行方不明。
【白銀】玉織人、暁城近衛隊長。銘刀・薄宵虹月を用いた技・玻光閃を伝承している。
【炎狗】魔界に暮らす獣型妖魔。炎の身体で実体を持たない。
【良夜】竜人族、魔竜士団長。魔竜の乱で栞菫と戦ったが、それ以前は……?




