碌・神木と星見の巫女 中
下っていた根と土の道は間もなく水平にもどった。同時に視界が開ける。
ほぼ円形の広い空間。湾曲した天井。陽昇国の守護石がある場所に酷似した場所。
天井からは数えきれないほどの木の根が下がっている。それらは天井を、壁を伝い、地面へと潜りこんでいた。
空間の中央には守護石がそびえている。守護石の大きさは陽昇国と変わらず。こちらの空間の方が天井が低いため、守護石の上部は根と土の天井を突き抜けている。守護石の根元はどれよりも太い樹の根たちが絡み合い、まるで守護石の台座のようだ。
それらの光景を浮かび上がらせているのは、守護石の手前から漏れ出でる淡い白緑色の光だった。
守護石を支える樹の根がせり上がり、一間半ほどの大きさはある球状の塊をつくりだしている。光は、その奥から根の隙間をぬって洞内をほのかに照らしていた。
「栞菫殿」
松野坐が道を譲る。
はるかは恐る恐る足を踏み出す。球体まであと二間まで迫ったとき、白緑色の光がゆっくりと領域を広げ始めた。
複雑に絡んでいる根が、ゆるゆるとその手を放し始めたのだ。お互いに譲りながら解け、内側に包み込んでいたものを解放していく。
強まっていく光に、はるかの後姿が陰っていく様を見つめながら。秋良はその美しさに息を呑んだ。
無数に枝分かれした何十本という樹の根が造り出す鳥籠。いや、水籠、というべきか。
籠の内と外は透明な何かに遮断され、中の空間は液体が満たされているようだった。底から照らす白緑色の光が、時折立ち昇る気泡にきらめいている。
その中で揺らめく白い布。長くふわりとまとった衣服の各所に配された鳴子状の装身具が、揺らめきのたびに高く透明な音を響かせるのだ。
それらの間をたゆたう、足元まで届こうかという長い金糸の髪。瞳を閉じている端正な顔。気泡と対流に揺れる衣服と髪が水中花を連想させる。
彼女と、彼女を取り巻くすべてが幻のごとく美しく、そして儚い。
“おひさしぶりですね、稀石姫”
星見巫女の足元から水籠へ、水籠から洞内へ。白緑色の光と共に、涼やかな音色が響き渡った。
彼女の衣服に揺れる装身具の金属が触れ合う鈴音に似た、それでいて確かに声と認識できる音色。現実離れしたその感覚に戸惑う。目の前の、やや高い位置に揺れる巫女の発したものだということに遅れて気が付く。
“いえ……あなたにとっては、はじめまして、ですね。私は風凛。星見巫女と呼ばれています”
はるかに語りかける風凛の様子に、秋良は思わず数歩前へ出た。
言葉という形を成している旋律は間違いなく届いているのに。水籠の中にいる風凛は少しも動きを見せないのだ。
ただ『動かない』というのではない。深い眠りを宿すように閉じられた瞼や、微かに開かれた唇も。ほんのわずかにすら動く気配がない。
彼女の声は、洞内に響いているのではない。信じがたいことだが、直接心の内に響いてくるのだ。
はるかはそれを気に留めることもなく、風凛を見上げて言った。
「栞菫としての記憶がないこと、わかるの? 『星を通して定めを見、全てを見通す』?」
“すべてがわかるほど万能ではありません”
風凛が紡ぐ旋律に合わせて、足元から上る白緑色の光が揺らぐ。はるかは無音の揺らぎの中に風凛が微笑む気配を感じた。
“私の見る『星』は、いくつかのものを指しています。ひとつは空にある『星』。ひとつは、世界を指す『星』”
「せかい?」
“双月界と同じように、存在する世界があるのです。それこそ、夜空に浮かぶ星のごとく無数に。それらは個々に時の流れも文化も異なり、通常は交わることなく存在しています”
はるかと風凛の会話を聞きながら、秋良はおとぎ話を聞かされている心持になっていた。想像も及ばない内容をすぐに信じることなどできない。後姿しか見えないが、はるかはきっと口を開けて間抜けな顔をしているに違いない。
“そしてもうひとつは命に宿る『星』。双月界に命を持ったその瞬間から、『星』はその者に宿り、共に歩むのです。見えず、話せず、五感全てが閉ざされた状態にある私は、あなたたちの『星』を感じ、直接語りかけることで意志を伝えることができるのです”
「わたしの中の、『星』……」
“私が『星』に触れるとき、『星』があなたたちと歩んだ足跡が伝わってきます。稀石姫、いえ、はるかさん。あなたの『星』には、ほんの数年前からのものしか感じられないのです”
五感全てが閉ざされた――彼女は動かないのではなく、動けないのだ。
秋良は目の前のできごとを自己の中で消化しきれずにいる。その視界の端をよぎる影があった。
向かい合う風凛とはるかの方へ歩み寄ったのは翠だった。
はるかの背後まで数歩の距離で立ち止まり、風凛へ深い礼を送る。
「私は暁城に仕える翠と申す者。無礼を承知で風凛様にお伺いしたい」
“稀石姫の核の所在、ですね。その強い思い――あなたがここに立ち入ったときから感じていました”
翠と風凛のやり取りに我に返り、はるかは勢い込んで割って入る。
「わかるの? どこにあるのか」
“核は彩玻動を通してあなたの身体と繋がっています。『星』に深く触れ、それをたどってみましょう”
「ちょっと待てよ」
秋良は思わず口を挟んだ。
「巡礼の儀とやらを先にやるべきじゃあないのか? いつ竜人族がくるか知れないんだ。核の場所を探すのは、その後でもいいだろ」
“巡礼の儀を行うためにも、必要なのです。稀石姫は魔竜の乱の時に、私と守護石の間にも結界を張りました。それがある限り誰も……稀石姫自身すらも守護石に触れることはできません”
それに驚いたのは、はるかだった。秋良と風凛を交互に見つめ、弱々しい声でつぶやく。
「私、そんな方法わからないよ?」
“大丈夫。私が記憶を呼び起こすお手伝いをしますから”
風凛は優しい音を響かせる。その音色は聞く者に言葉を信じさせてしまう、不思議な力が備わっているようだった。
はるかが風凛を見上げてうなずく。すると白緑色の光に変化が起こった。淡い光彩はそのままに、強まる輝きは足元から領域を広げて風凛の全身を包みこむ。
“さあ、こちらへ。両手を触れて”
音色に誘われるまま、はるかはゆっくりと歩み寄る。
細く太く入り乱れる樹の根が隆起する足元を確かめつつ登り、水籠のすぐ前へとたどり着いた。
はるかの白い両手が、風凛とこちらを隔てる不可視の壁に触れる。
洞内を照らす光がより強さを増していく。
光そのものが強まっているのではない。淡い白緑色の中に、白い光の粒が生まれていく。それらは見る間に大きく、手のひらに収まるほどに成長した。
次から次へと生まれてはたおやかに明滅する白い光球は、風凛の周囲をゆるりと渦巻くように漂っている。
光が、動きを止めた。
すべての光球が、はるかの両手に集約する。集まり発せられた強烈な閃光に、はるかの後姿が白く霞む。
秋良は得体の知れぬ緊張に喉の渇きを感じた。
記憶を呼び起こす。そんなことが本当に可能なのか。はるかが、栞菫の記憶を取り戻したら、はるかは――はるかとしての記憶は、どうなってしまうのか。
もし、栞菫の記憶に、はるかの記憶が塗り替えられてしまったとしたら――
その考えを、自ら打ち消す。
たとえはるかが、はるかとして過ごした時間が消えたところで自分に何の影響がある?
自分が成そうとしている目的に、どのような支障がある?
何も変わらない。はるかを、あの砂漠で見つける前に戻るだけだ。
秋良は胸をよぎる混沌としたものを握り潰すかのように、強く拳を握りしめた。
【次回更新のお知らせ】次回の更新はお休みさせていただきます。申し訳ありません! 4月14日までお待ちくださいませ。
【守護石】創世の女神、天地守護・環姫が双月界を脅かす妖魔六将を封じたとされる巨石柱。双月界を巡る彩玻動流の要に配されている。魔竜士団はこれを破壊することで魔界への扉を開こうとしている。
【彩玻動】双月界を巡る生命波動。その流れる道が彩玻動流であり、守護石により正常な流れが保たれている。
【風凛と『星』】星見巫女である風凛は、その名のとおり『星』を『見る』。空の星の動きからは先を予見する。生命に宿る星からはその者の過去や現在を見る。双月界を含む世界のことをも星と呼んでいるが、この星にはいわゆる魔界も含まれている。




