碌・神木と星見巫女 前
双月界の空にはふたつの月が巡っている。
白月は主に日中の空に。蒼月は主に夜の空に姿を現す。しかし巡る速度は蒼月がわずかに速く、両者は長い年月をかけて徐々に距離を縮めていく。
「つきしんどう?」
はるかがゆっくりと口にしつつ首をかしげる。
うなずきを返したのは翠だった。はるかにわかるようにと補足する。
「双月界と、ふたつの月の位地や高さによって彩玻動が共振することだ」
「位置と高さが鍵になるってことは、文献なんかに残されてる大地震もそうなのか」
秋良がひとりごとのようにつぶやくと、翠は律儀に答えを返す。
「そうだ。大地震は蒼月と白月が同じ位置に重なると起こるとされている。ここの守護石を護る結界は、双月の高さを利用したものだ」
「確か、草人の長老は『ふたつの月が同じ高さに並ぶ時』と言ってたな。夜だと白月は見えないが……」
「待って待って!」
ふたりの会話に追いつけず、はるかが口を挟んだ。
「つまり、どういうこと?」
身を乗り出すはるかの額を秋良が指先で小突いて言う。
「このあたまにわかるように言うと、今日から明日に変わる頃に守護石のところへ行けるってことだよ」
「うう……」
はるかは押された箇所をさすりながら、『それは長老から聞いたのに』という言葉を飲みこんだ。実際に詳しく説明されても、理解できない可能性が高い。秋良の回答はある意味、はるかを理解した上での正解なのだ。
気を取り直し、はるかは両の拳を握りしめて言う。
「とにかく、私は守護石のところで巡礼の儀を済ませればいいんだね!」
すると翠は小ぶりな巻物を取り出しはるかに手渡した。
「では、巡礼の儀で行なう『結固め』の詠詞を……」
「えぇっ!? おさらいするの? 今から?」
機会を見計らったかのような翠の提案に驚き、はるかは悲鳴に近い声を上げた。
実は木霊森に入ってからも、何度か翠と練習をしていた。三長老のひとりである泡雲からそうするようにと、翠が言い付かっていたのだが。
翠は職務に実直すぎるがゆえに手心を加えることがない。暁城で三長老から講義を受けていた時よりも大変だと、はるかは秋良にこぼしていたくらいだった。
「えっと、私、これから秋良ちゃんと……」
なんとか用事をこじつけて逃れようと視線を向けた先。すでに秋良の姿はなかった。
その後泣く泣く特訓を終えて今、はるかは神木の前に座っている。
巨大な木霊森の樹々のどれよりも太く高くそびえる幹。
厚い苔や無数の蔦に覆われた姿を恐れ敬うように、周囲を護り固めるように。他の樹々は遠巻きに神木を取り囲んでいる。
しなやかにうねり伸びる神木の枝は、取り囲む樹々に護られた空間の隅々まで領域を広げ。宿る葉は天蓋のごとく夜空をさえぎっていた。
神木も木霊森の木であることに変わりない。これだけ重なり合う葉のどこからか、不思議と蒼月の光は頭上に差し込んでくるのだ。
この神木のある空間は、草人の里の外周と同じく草木の壁に隠されている。さらにその内外を草人の戦士たちが護り固めている。
草人の長老、松野坐は神木の正面に座し、時を待ち続けている。自らの背丈ほどもある節くれだった木の枝を抱え、眼を閉じたまま微動だにしない。そうしているとまるで木と区別がつかないほどだ。
はるかはその隣に座っている。首から提げた瑠璃石を右手で触れてじっと見つめる横顔を、少し距離を置いた位置から秋良は見つめていた。秋良がいるのは、長老と稀石姫の両脇を護る草人たちの列の中だった。秋良のすぐ近くに翠もいる。
この場に集ってから半時。
たったの半時が、神木を前にした者たちにはどれほど長く感じただろうか。
何の前触れもなく、突如として神木の葉が揺れ鳴り始めた。まったくの無風であるにも関わらず、だ。葉と葉、枝がぶつかり合うその様は、激しい風に揺すられている状況そのもの。それは神木そのものの幹の震動によるものだった。
草人たちの間からどよめきが起こる。驚きではなく、待ち望んだその時に対する喜びの声。秋良も草人たちと共に立ち上がっていた。
おもむろに立ち上がった松野坐が手にした杖を高く掲げると、草人たちは静まった。皆の視線が集まる中、神木の葉音と幹のきしむ音だけが響き渡る。
音の源は神木の足元。一般的な樹木の幹ほどもあろうという太さで地を這う根と根の間。はるかと松野坐の正面にあたる場所から発せられていた。硬く滑らかな木肌が生き物のように蠕動し、自らその身を縦に引き裂いていく。
激しく樹が引き裂かれる音は小さくなり、止んだ。
神木の根元には、人が数人ならんで入ることができるほどの洞がぽっかりと黒い口をひらいていた。
はるかが口を開いたまま入口を見つめていると、松野坐が声をかけた。
「さあ、栞菫殿。守護石の元へ参りましょうぞ」
「あ、は……はいっ」
はるかは松野坐の後について行く。わずか距離を置いて翠が、その後ろに秋良が続く。
洞の入口に差し掛かると、十数名の草人が洞の両脇に並んで道を作る。その草人の中に、冴空の姿があった。秋良は冴空からの視線を感じたが、一瞥もくれずに洞の中へ足を踏み入れていく。
秋良が洞内に入ったところで、入口から差し込んでいた蒼月の光が陰った。振り返ると草人たちが入口を護るべく立ちふさがったためとわかる。
洞の中は湿り気のある土と樹のにおいが満ちている。壁も足元も全て神木の根と、それらが抱える土で形作られていた。
すぐに下りの坂道となり、完全に闇に包まれるかと思われたそのとき。前方に柔らかな光が灯る。松野坐が杖にひっかけたそれは、大きな蛍袋の花を丸ごと使った行灯だった。先を蔓で綴じた花弁の中で、三つの光が明滅しながら浮遊している。おそらく蛍を入れてあるのだろう。
「かつて珠織人の巡礼を受けてより時がたち……」
歩みは止めず、前方を向いたままで松野坐が語り始める。
「巫女様も結界の効力が消えつつあることを憂慮されておった。栞菫殿の訪れに、巫女様もご安心召されるであろう」
「みこさま?」
相変わらず緊張感のないはるかの声を、秋良は後方で聞いていた。ふたりの姿は翠の背中に遮られている。
少しの間の後に松野坐が言う。
「栞菫殿は記憶をなくされているのでしたな。巫女様――風凛様は『星見巫女』と呼ばれるお方。星を通して定めを見、全てを見通す。栞菫殿の記憶を取り戻す手立ても、見つけてくださるかもしれぬ」
「ほんとに!?」
嬉しそうなはるかの声を聞きながら、秋良は思う。
確かに、その巫女様とやらがすべてを見通す力を持っているのであれば、栞菫の核のありかを知ることができるかもしれない。
翠は最初から知っていたか否か、特に反応を示さない。顔は見えないがきっといつもの無表情に違いない。
秋良はふと気がつく。
すべてを見通す、星見巫女――ならば。
過去のあのことに関する手がかりを掴むことができるかもしれない。
そう思うと、気持ちが急くのを抑えることができなかった。
【月震動】ふたつの月の引力が彩玻動に影響をもたらす。五百年に一度の周期で蒼月と白月は同じ位置に重なり合い、大地震が起こるとされている。
【神木】草人たちがご神体としてあがめる巨大樹。守護石を内包していることもあり、草人たちの侵攻と守護の象徴である。
【蛍袋の行灯】草人たちが灯りとして生活に取り入れているが、草人は夜目が利くため観賞用として用いられている。




