伍・何のために
草人の里を訪れてから一夜明けた早朝。
はるかと秋良は、里の泉を訪れていた。はるかが栞菫の姿を白昼夢として見たという場所だ。これまで栞菫の目線で見ていた白昼夢の中で唯一、誰かの視点で起きたもの。それをもう一度確認できれば、と思ってのことだったのだが。
「だめ、やっぱり見えないみたい」
はるかは首を横に振ってみせた。
一方秋良はさほど期待はしておらず、はるかほどの落胆の色はない。
「まぁそうか。これまでだって、ひとつのきっかけから起こる白昼夢は一度きりだったんだろ? また別の機会を待つしかないな」
「うーん……」
はるかは珍しく難しい顔でうなり、泉のほとりにしゃがみこむ。
『水鏡の泉』と呼ばれる澄んだ泉は、名にふさわしく周りの風景を映し出している。湿り気のある朝の空気越しの梢。さらに奥高くから差し込む暁光が、梢を通して緑色に輝く。それを背景とした、はるかの顔。
考えがすぐにわかる、と秋良によく言われるがその通りだ。自分の不安にあふれた顔を見て、はるかは無意識のうちに首の革紐を手繰り瑠璃石を握りしめる。
「もう一度、見たかったな……」
誰に向けたものでもなく、つぶやきがもれた。
はるかは眼を閉じ、件の白昼夢を思い浮かべる。
白昼夢が発現するときは、一度真っ白に閉じた視界が栞菫の記憶として開かれていく。しかしこの泉の光景だけは、光が閃くように現れた。
どこか森の中にある泉はここよりも大きい。木霊森のように巨大ではないものの木々に囲まれ、苔むした樹肌が緑潤う光景をつくりだしている。
湿った空気に薫る土と植物のにおい。そよぐ風とほのかな陽光。その中で穏やかに語らう、栞菫と少年の姿。
少年の、夜の闇より深くありつつも輝きを宿した黒髪。朝陽を凝縮したような金色の瞳。彼と話す栞菫の安らいだ表情。
今思い出しても、胸の奥がほのかにあたたかく。それでいて苦しいような複雑な気持ちになる。もしかするとこれが『懐かしい』という感覚なのだろうか。
「お願いいたす! あっしを弟子にしておくんなせぇ!」
「ひゃっ!?」
突然背後から聞こえた大きな声に、はるかは小さく悲鳴を上げて横を振り返った。
そこには冴空と名乗った草人が、両手両膝を地につけて秋良を見上げる姿があった。
昨日から何度断ってもきりがない。いよいよ煩わしさが限界に達したか小曲刀を抜きかけた秋良の手を、はるかが慌てて押しとめた。
その間にも冴空は必死に訴える。
「あっしはどうしても強くなりたい! どうか兄貴!」
「お前、昨日もそんなこと言ってたな」
はるかの手を振り払った秋良は、苛立ちもあらわに言った。
「何のために強さを求める?」
「そ、それは……」
問われて、冴空は戸惑いに視線をさまよわせた。必死に考えをめぐらせながら答える。
「あっし……弱いばかりにいつも、みんなに迷惑をかけてしまって。あっし自身、このままじゃ駄目だと思ってはいるんでさぁ。でも自分の力では、どうにも……」
「どうにもならない? それこそどうしようもねぇな」
秋良は冴空の言葉に呆れ果てて嘲笑を浮かべた。
「じゃあ、強さを手に入れたらどうする気だ?」
「……」
秋良の問いを受けた冴空は答えに窮した。はるかは秋良の少し後ろで、二人の会話をじっと見守っている。
「どうした、答えられないのか?」
「……」
「そんなんじゃ、強くなるなんて無理だ。諦めるか、それでなきゃもっと考えるんだな」
秋良は真剣な声でそう言うと、踵を返し歩き出した。そのままはるかの横を通り過ぎる。はるかは一度秋良を目で追ってから冴空を振り返った。
彼は座り込んだままうつむき、落胆した様子で肩を落としている。声をかけようとした瞬間、背後から秋良の声が聞こえた。
「行くぞ、はるか!」
構うな、ということなのだろう。はるかは心の中で『がんばって』と念じ、泉を後にした。
何のために強くなるのか。
強くなってどうするのか。
秋良の言葉を、はるかは自分の中で繰り返す。
それなら――
「秋良ちゃんは、なんのために強くなって、なにをしようとしてるの?」
森を行く秋良に追いつき、はるかが尋ねる。秋良は前を見据え、里へ向けての歩みを止めずに答えた。
「別にお前は知らなくていいことだろ」
「そんなことないよ! だって――」
「お前は」
食い下がろうとしたはるかの言葉を、秋良の感情のない声が遮る。はるかが口をつぐむと、秋良はそのままの声で続けた。
「記憶を取り戻すという目的がある。そのことだけ考えてろ」
――だって、私は秋良ちゃんのことをもっと知りたいのに。
飲み込んだ言葉は、表に出ることはなかった。
いつもそうだ。彼女自身の過去に触れることになると、ほんのわずかに踏み入ることすら許されない。
だけどいつか、それを話してもらえるように。
頼りにしてもらえるように。
好きな人たちを守れるように。
自分は自分にできることをしよう。
――私は、そのために強くなりたい。
先を行く秋良の背中を見つめながら、はるかはひとり心に誓った。
泉のほとりにひとり残された冴空は、心に風穴を穿たれた心地だった。
強くなって、その先。
ただ強くなりたいと願うばかりで、そんなことは考えたことがなかったのだ。
“冴空……”
突然響いた、かすかな声。繊細で消え入りそうなそれは女性のものだ。
冴空は勢いよく顔を上げた。
「風凛様!」
眼の前に降りてくる光。指先に乗るほど小さな光の粒を、冴空は手のひらでそっと受け止める。草茎のように節くれだった長い指に包まれてほのかに明滅する光に、冴空は言う。
「あっし、やっぱり駄目な草人っす。兄貴と見込んだお人に認めてもらうこともできず……このまま、弱いままでいるしか、ないんでやす……」
“あなたは弱くはないわ。ただ、自分で気づいていないだけ”
直接冴空の心に伝わる声は、光と同じ淡くはかない音色をしている。その声はいつも、冴空の胸を締め付ける。
“もっと自分を信じてあげて……”
「待って、風凛様。あっし――」
手の中で薄れゆく光に呼びかけたのも空しく、光は空気に溶けて見えなくなった。声も、もう届かない。
いつも声が聞こえなくなったときはどうしようもない寂しさを感じていた。だが、今日の冴空には希望があった。
もうすぐ扉が開く。そうすれば、またお姿を拝見できるのだ。
「何のために、強くなるのか。あっしは――」
冴空は焦る心に自ら問う。
扉が開けば、巡礼の儀が行われる。稀石姫たちもこの地を去ってしまう。それまでに答えを見つけなくては。
更新のたびに足を運んでくださるみなさま。
長い物語を、ここまで読み進めてくださったみなさま。
一気読みして更新分まで追いついてくださるみなさま。
本当にありがとうございます!
それを糧にこれからもがんばります!




