肆・良夜 後
小さくかすれゆく氷冬の靴音。
遠ざかっているからというだけではない。良夜の五感すべてが、膜一枚を通したように鈍くなりつつあるためだった。
良夜は壁に背をつけたままその場に座り込む。目覚めてからこの方、ずっと身体が重い。長時間立って歩くのは正直辛かった。
細く長く息を吐き切る間だけ休み、切石の床に手をついて立ち上がろうとする。そんな良夜の腕をとって、至道は軽々と助け起こした。良夜の口元に自然と笑みがこぼれる。
「ありがとう」
まだ少年のあどけなさも残す顔。今見せている姿が、至道も良く知る本来の彼の姿なのだ。
良夜の笑顔の中には懐かしさと哀しみが同居する。彼の心情がそのまま表れた複雑な色を見せていた。
わずかに瞳を伏せるようにして、良夜はつぶやく。
「みんなが言い合いになった時は、よく至道が間に入ってくれてたっけ」
皆がなにも知らずに竜谷で過ごしていた頃。血のつながった兄である夜天はもちろん、氷冬、至道も。良夜に対し弟のように接してくれていた。
今はもう戻れぬとわかっているからこそ、より輝かしいものに思える。
至道は無言のまま。しかし柳茶色の髪を押し上げる額の紺布の下で、鋭く小さな瞳が細められた。
彼が言わんとしていることを察し、良夜がうなずく。
「わかってるんだ。氷冬が心配してくれているってことは」
竜人族にとって祖となる竜神の血は誇りであり、古より守られている掟は絶対のものなのだ。今わの際に残される遺言を受けた者は、命に変えてもそれを遂行する。
それは魔竜士団の中でも絶対とされている『竜血の掟』のひとつだ。掟自体が、血に刻まれていると言っても過言ではないほどに、それに反することには誰もが強い拒絶感を覚える。
良夜が掟に反することで、魔竜士団の団結のみならず良夜自身を危険にさらすことになる。氷冬はそう案じているのだろう。
しかしもう決めたのだ。譲りはしないと。かつての選択は、大切な人たちを悲しませることになってしまったのだから。
「そうだ、至道。ずっと聞きたかったんだ」
その大切なひとりについて、良夜はようやく機会を得たと至道にたずねる。
「紗夜はどうしてる?」
紗夜は夜天と良夜の妹だ。黒龍の中にごく稀に生まれる希少種、白龍として生を受けた。白龍は他者にはない神通力を持つが、生来身体が弱く短命とされている。
魔竜士団として竜谷を出た後も、ここで意識を取り戻してからも。良夜は妹のことがずっと気がかりだった。
だが彼女の存在を知っている者は皆忙しく、これまで尋ねる機会がなかったのだ。
「紗夜は」
ぽつりと名を口にし、至道はその先をためらった。良夜が紗夜をどれだけ大切にしていたか知っているからこそ。
だがいずれは知ってしまうことなのだと、自らを諭し。七尺を超す巨躯の至道はうつむくように良夜の瞳を見返して告げる。
「行方がわからなくなっている」
至道を見上げる良夜の笑顔が薄れ、愕然とした表情へ変じていく。それを見ていられず、至道は眼を閉じた。
良夜は至道の剛腕を掴み詰め寄る。
「そんな! 竜谷から出ないようにと、目付もついていたはずだろう!?」
「目付の者が気づいたときには、すでに谷を出てしまっていたようなのだ。探してはいるが、まだ見つけられていない」
至道の言葉を聞きながら、良夜は勢いを失い力なくうなだれた。至道は低い声を絞り出す。
「すまん」
良夜は弾かれたように顔を上げて首を横に振って見せた。
「至道が謝ることはないよ。きっと、きっと無事なはずだ」
後半は自らに言い聞かせるようにつぶやいた。無理をしているように感じられたが、凛とした士団長としての顔をのぞかせていた。
「引き留めて悪かった。もう、行かなきゃいけないんだろう? 俺も、少し休む」
言葉の通り疲れた様子の良夜に、至道は無言でうなずき返し扉へと向かう。
良夜は氷冬や至道よりも若く、まさに少年と言うべき年頃だ。士団員の前で見せている姿は、士団長として己を律しているものなのだろう。
竜人族を束ねる黒龍の部族に生まれ、夜天も良夜も。幼い頃からそれにふさわしくと教育されていた。夜天の遺志を継いでからの良夜は、より一層厳しく己を律した。感情を殺し、魔竜士団のためだけに士団長として在り続けていた。
魔竜士団の大望のために、良夜を犠牲にしているという事実。
それを知りながら、氷冬は良夜に士団長として在ることを望む。夜天の遺志を遂行することを『間に合わせる』ために。
扉に手を掛けたところで至道は動きを止めた。
しばしの逡巡。
意を決し、良夜を振り返って言う。
「氷冬に残された時間は少ない。奴の気持ちも、わかってやってほしい」
良夜がその言葉の真意を確認しようとしているのをわかっていながら、至道は後ろ手に扉を閉めた。
出陣すべく廊下を進みながら大きな拳を白むほどに握りしめる。
なにかを得るためには、犠牲が無くてはならないのか。
氷冬も良夜も、自らの信ずるところを進もうとしているだけだ。
――ならば己は、なんのために戦う? なにを望む?
出陣すべく廊下を進みながら自らに問う。
良夜が氷冬に問いかけた、その言葉を。
至道が出ていった扉を見つめる視界が渦を巻く。
良夜は再びその場に座り込んだ。
身体が重い。まるで自分のものではないようだ。
氷冬に掴まれたときも。体調が満足であれば、されるがままになることなどなかった。身体の反応速度が極端に遅い。あの激戦の後遺症、なのだろうか。
魔竜の乱、と呼ばれているあの戦で。事実上連合軍の指揮を執っていた珠織人の呉羽と、魔竜士団長の夜天が散った時に予感はしていた。
良夜の願いもむなしく、予感は最悪の形で現実となったのだ。
大勢の想いと期待を背負い、皆の未来を護るために戦った。
自分は魔竜士団長として。
彼女は稀石姫として。
そうなるであろうことは、予感はしていた。きっと、彼女も。
――それでも。そうすることで戦が終わるのなら、と。
だが、結果はこのとおり。双月界すべての命が掛けられた争いは今も続いている。
床に腰を下ろしてもなお回り続ける視界に、たまらず良夜は身体を横たえた。
鉛に変じたような身体を仰向け瞳を閉じ、不定形にうごめき歪む天井を映し出す視界を遮断する。背中に感じる石の床が持つ冷たさが心地良い。
自分がこうして生き延びているならば。
もしかしたら、彼女も。
体と精神と魂とが混濁し一体となって床に沈み埋もれていく錯覚と感覚に襲われる。
そんな中で、切に願うその想いだけは、しかと良夜自身のものとして己の中に感じていた。
――どうか、ふたりとも無事でいて。紗夜……栞菫。
【七尺】至道の身長、約210cm。一尺はおよそ30cm。
ついでに主な登場人物の身長。
はるか・154
秋良・168
翠・183
白銀・187
李・145
緋焔・178
深羅・150
氷冬・180
至道・210
良夜・172
冴空・131




