肆・良夜 中
食堂を後にして二人は司令室へと向かった。
氷冬が人払いをしたため、司令室の中はもちろんその付近からも人の気配は失せている。
「どういうつもりだ」
そう問いかける氷冬の声は抑えた怒りを含んでいた。
良夜は気にした様子もなく氷冬に告げる。
「俺は、俺の思うところを皆に知ってもらいたかった」
「そうではない!」
氷冬は思わず声を荒げた。
「団の志を違えるような真似は許さん。夜天の遺志を忘れたわけではあるまい!」
先の戦において夜天が負傷し、息を引き取る間際に言い残した言葉。
良夜は遺志を継ぎ、魔竜士団を魔界へと導くように。そして氷冬と至道は、良夜と魔竜士団を支えるようにと。
竜人族にとって、遺言は命に代えても遵守すべきものなのだ。
「わかってる。でも、氷冬――」
良夜は氷冬の深海の青を思わせる瞳をまっすぐに見つめる。
「俺は俺のやり方で、皆と自由を手に入れたい」
一切の迷いも曇りも無い、金色の瞳。色は違えど、その輝きはかつて氷冬が魅せられた銀色の瞳に酷似している。それなのに。良夜の見据える先は、夜天とは別のものなのだ。
氷冬の手から力が抜け、良夜の肩から離れる。
良夜は外した視線を、壁一面に掛けられた双月界の地図へと移して言う。
「竜人族と、他の五種族。特性や能力の違いはあれど、同じ双月界にある命だ」
それは戦が始まってしまう前に、あの人から聞いた言葉だった。
竜谷と竜人族の価値観しか知りえなかった良夜に、彼女は様々なことを教えてくれた。それは今も、良夜の心に深く刻まれている。
「竜人族が魔界の竜神を祖に持つから? 戦う力に秀でているから? それが他の種族を虐げる理由になりうるのか?」
そして、あの戦の中では表すことが叶わなかった自身の言葉を告げる。
「夜天は魔界に魅入られていた。魔界を求める己が欲のために、皆の竜谷から出たいという思いを利用したんだ」
氷冬を振り向きながらの良夜の言葉が終わるが早いか、彼の身体は背中から壁の地図へ打ちつけられた。氷冬が胸倉をつかんだ勢い余ってのことだった。
背中に感じた痛みに良夜はわずかに顔をゆがめた。近距離から見る氷冬の冬海色の瞳は、荒れ狂う大海のごとき怒りを宿している。
「いくら実弟と言えど、夜天を誹謗するのは許さんぞ。お前は竜の血の盟約に従い夜天の遺志を継いだ。それを忘れたのか」
言いつつさらに力の込められた氷冬の拳に、良夜は自らの右手を重ねた。その金色の瞳は、氷冬の怒りを飲みこんでなお深く、静謐な光を湛えている。静かに開かれた唇から、小さく言葉を紡ぐ。
「でも俺は、夜天じゃない」
数瞬の沈黙。
それは扉が開かれる音に破られた。扉から姿を見せたのは至道だ。足早にふたりに近づき、大きな手が氷冬の腕を抑えた。
氷冬は良夜から視線を外し、壁に彼を押し付けていた手を放す。圧迫されていた胸部が解放され軽く息をつく良夜から一歩離れ、氷冬は至道を見上げた。発せられた声は平常通りの冷淡なものに戻っている。
「誰も立ち入らぬよう言ってあったはずだ」
「急ぎの報告だ。すぐに緑繁国へ向かう」
そう至道は答えた。が、実際は扉の表で氷冬が出てくるのを待っていたのだ。言い争う声を聞いて、踏み込まずにはいられなかった。
しかし火急の連絡であったことに嘘はない。稀石姫一行が草人の部落へ入ったと報せがあったのだ。
良夜がいるために必要以上の言葉は省いた。しかし、良夜はその顔を曇らせて尋ねる。
「今も、守護石の破壊は続いているのか?」
どちらにともなく放たれた問いに氷冬が答えた。
「当然だ。守護石の破壊、そして魔界の解放が魔竜士団の悲願」
「夜天の、だろう?」
良夜は揶揄するでもなく淡々と言う。振り返った氷冬に、真摯な瞳をまっすぐに向けて言葉を重ねる。
「氷冬は、本当にそれを望んでいるのか? 氷冬自身は、なんのために戦っているんだ?」
氷冬の唇が微かに動いた。が、その吐息は言葉を成さずにこぼれ落ちていく。
「氷冬?」
良夜が聞き返す。氷冬からかすかな声が絞り出された。
「お前も、双月界の真実を知れば……」
氷冬は渦巻く感情を抑えきれず発してしまった言葉に後悔の念を抱き、口を閉ざした。
その事実は、今となっては氷冬しか知らない。夜天が長老から聞き出した真実。夜天ですら氷冬にしか明かさなかったそれを、氷冬は未だ胸の内に秘めている。いや、明かすことができずにいた。
いぶかしげな表情を浮かべる良夜を一瞥し、氷冬は厳しく言い放つ。
「すでに我々は残る守護石を破壊すべく動いている。夜天との契り、我らはこの身を捨ててもそれを果たさねばならん。勝手は許されんぞ」
強く言い置いて部屋を出ようとする氷冬の背中を、良夜は見つめて言う。
「氷冬、俺は俺が思う戦いをするつもりだ。なにを言われても、それは変わらないよ」
わずか足を止めていた氷冬は沈黙のまま扉へと向かう。扉をくぐる直前に、至道に向けた言葉が肩越しに投げられた。
「緑繁国では手筈通りに事を運べ」
閉じた扉が氷冬の姿を遮る。短い間隔で響く足音が遠く小さくなるまで、良夜は扉を見つめ続ける。
幼い頃から変わらない。夜天は弟に対して甘かったため、その分氷冬が厳しく接してくれていた。
今もそうだ。氷冬の怒りは、自身への心配も含まれていると良夜にもわかっている。
「氷冬……」
続く謝罪の言葉を、良夜は胸の内にとどめた。
目覚めた時、ひとり誓ったのだ。かつては生きながらに捨てていたこの命。今度は自らのための生を貫くのだと。
【竜血の掟】自らに流れる竜神の血を誇りとする竜人族は、古くから竜神に恥じぬよう掟を定めそれを遵守することを最良としてきた。竜谷を出た魔竜士団たちは改革派と言えるが、この掟については絶対遵守とされている。
【魔界の解放】双月界の地下深くにある魔界は、創世の時に六柱の守護石によって封じられた。守護石をすべて破壊することで魔界を引き寄せそちらに渡る。それが夜天の計画だった。




