拾・過去と今 前
深い夜色の満天に星が浮かんでいる。ずっと見ていると星の満ちた海へ向けて落ちていく錯覚を覚えるほどだ。
海の中心に漂うのは、蒼く輝く大輪の光。天心にのぼりつめた蒼月は、静寂を光にのせて大地へ差し伸べている。
それはこの『月影の間』にも等しく降り注いでいた。
大きな両開きの扉から広間の奥へ整然と二列に並ぶ柱。柱列の上に設えられた天窓から蒼月の光が注がれている。月の光が扉から聖の御坐までの道を誘う。
月の道をゆっくりと、静寂を守り歩を進める。
光の先にある御坐が据えられた高壇の前で足を止め、栞菫は顔を上げた。紫水晶の瞳が映すのは御坐の奥にある父の姿だ。
聖に就いた頃の呉羽の肖像。
白い肌に降りかかる長い髪を後ろに束ね上げ、その色はまさに今宵の空で染め上げたかのような青褐色。星明りを湛えた夜空の瑠璃色を宿した瞳。秘められた強い意志と、未来を見据える希望。そして慈愛に満ちた眼差しが、生前と変わらずこちらを見返している。
父が生きてそこに在ると見紛うほどの、精巧な肖像画。今となっては栞菫の内に秘められた悲しみを疼かせるだけだった。
それを抑えるため、静かに眼を閉じる。
――この悲しみを、これから起こるであろうことすらも。乗り越えなくてはならないのですね。父上。
自らのまぶたにより訪れた闇の中、環姫から授かった天命を思う。
珠織人として、何より稀石姫として双月界に生を受けたことの重みを。
「栞菫?」
不意に背後から響いた声。
少し驚きながら振り返る。広間の中央、蒼月の降る中たたずんでいる長身の影。
「翠……どうしました?」
「扉が、開いていた」
いつも通り言葉少なく翠が答える。
普段は締め切られているはずの扉が開け放たれたままになっていた。それを不審に思い確認しにきた、ということなのだろう。
「あなたこそ、こんな時間に。眠れないのですか?」
栞菫は問いかけたが、それは自分のことでもあった。いや、おそらく暁城上層部の者は皆そうだろう。
休戦状態にあった魔竜士団から再戦の申し入れがあったのだ。こちらは聖の呉羽を、魔竜士団は士団長の夜天を、それぞれ失ってから三年。新しい士団長を立てて体勢を整えたのだろう。
暁城内では連日、盟国の王たちとの合議が行われていた。しかし、戦以外の解決法を求める穏健派と、魔竜士団の淘汰を主張する武力派。どちらの意見も決め手に欠け、まとまる気配は見えない。
ふと気づくと、翠の視線はいつの間にか呉羽の肖像に注がれている。彼の黒緑玉の瞳に、後悔の念が見て取れた。
栞菫は複雑に絡み合う感情の中、わずかな嬉しさも感じている。このところの翠は、以前に比べて感情が表れるようになってきたと思う。
大多数の者には察知できない程度ではあるけれど。それでも少しずつ、彼は変わっているのだ。
歩み寄った栞菫に気付き、翠は視線を微かに伏せた。
「俺は――」
「父は――」
ふたりの声が重なった。
ためらい言葉を止めた翠に微笑みかけ、栞菫が続ける。
「呉羽は、自らがあの戦で命を落とすと察していました。いつ、誰に、とまでわかっていたわけではないようですが……父は、泡雲以上に先見の力が強かったのです」
緑繁国で戦いに望む前、呉羽は栞菫と三長老にそれを伝えていた。
もし、それが現実になったそのときは――。
「聖の命を絶った者を、決して憎んではならない。それが父の遺言でした。父は、あの地で双月界へと還る宿命だったのです。あなたがそれを悔いることはありません」
はっきりとした口調で伝える栞菫に、翠は微かな苦しさをにじませた表情を向けて問う。
「何故、宿命などという不確かなものを、それほどまでに信じることができるのだ」
栞菫は瞳を見開き息を呑んだ。
脳裏に浮かぶ、あの時の光景。あの人の声。みずみずしい新緑が風に揺れる中、あの人はまぶしいほどにまっすぐな金色の瞳で。
――どうして? 宿命だからという理由だけで、栞菫はそれを受け入れてしまうのか?
栞菫はほんの一瞬、唇を引き結び。そのときと同じ返答を返す。
「珠織人の命は、環姫様より授かりしもの。天命のままに生き、宿命と共に双月界に還るのが我らの定めなのです」
双月界を巡る彩玻動の結晶を素に、環姫の手により生み出された双月界最初の命。
生を受けてからちょうど三百年。聖は五百年。わずかな誤差すらなく定められた寿命。その一生は環姫の意志を継ぎ、双月界を護るためにある。
環姫が深い眠りについた後、三千年の時を経てもそれは変わらない。変えられないのだ。
「これは他の種族には理解しがたいことかもしれません。でも――」
栞菫はいつもどおりの希望にあふれた少女の笑みで、背の高い翠を見上げた。
「珠織人ではないあなたただからこそ、できることがある。それを忘れないで」
向けられた言葉を受け止め、翠は微かに、だが力強くうなずいた。その表情から先刻までの影が消えているのを確認し、栞菫もうなずき返す。
「翠は、なにを言おうとしていたのですか?」
「いや。今の言葉を聞けただけで十分だ」
そう言って口を閉ざした翠に、栞菫もそれ以上は問わなかった。
「私はもう少しここにいます。翠は先に戻っていて」
そう促され、翠はなにか言いたそうではあった。が、栞菫の意志を尊重し黙したまま一礼する。それは栞菫と、おそらく呉羽にも向けれられたものだったのだろう。
扉へ向かう背中に、栞菫は心配していたことを思いだし呼び止める。
「翠」
足を止め、こちらを振り返る翠の姿。いつもと変わらぬように見えるが、その心の内はどうなのだろう。
――過去は捨てる
その翠の言葉が、栞菫は気にかかっていた。
「竜人族であった時の自分を忘れないで。あなたの名は、『翠竜』の『翠』であるということを」
その言葉に、翠の口元がほころんだように栞菫には見えた。目礼し、去る姿が扉の向こうに消えるまで見送る。
ひとりになった栞菫は、聖として魔竜士団との戦を思案する。
魔竜士団が和平を受け入れることはないだろう。再び戦になれば、どちらの軍にも甚大な犠牲が出るはずだ。
再戦を告げる文には、士団長の名として『良夜』と記されていた。先代の弟である彼が継いだのだろう。
戦いによる犠牲を最小限に、かつ魔竜士団を抑える方法。
明日、それを議題として提示する。栞菫自身と士団長との戦いにより勝敗を決する覚悟でいる、と。
環姫より授かった定めと共に生き、定めのままに果てる命。
珠織人であり、なにより稀石姫として双月界に生を受けたこの身が背負うものは誰にも代えられない。
栞菫としての想いと、稀石姫としての天命。それは決して秤にかけることはできないのだ。
たとえ、大切な人と剣を交えることになるとしても。
栞菫は小さく息をつき、天を仰いだ。
天井の中心、柱列の上に長くつくられた天窓から注ぐ光は冴え冴えと。変わらぬ蒼月の輝きを宿している。おそらくこの光は、創世の頃から変わらず双月界へ注いでいるのだろう。
青く、白く、輝く蒼月。
祈るような気持ちで見つめる。
この月を今、あの人も見ているだろうか。戦を控え、どのような気持ちで――。
【月影の間】暁城の、謁見の間にあたる広間。環姫の伝承に天界から下る際『蒼月より月影、雫となりてこぼれ落ち、そこより出でる』と記されている。環姫と縁の深いものであるとして暁城には中庭も含め、蒼月の光を取り入れるように造られている場所が多い。
【環姫と稀石姫】天地守護環姫は四枚二対の翼を持つ女神であり、その伝承は双月界の誰もが知るところである。だが稀石姫が環姫の現身であることは珠織人にのみ伝わる。稀石姫だけに託された『天命』を知るのは稀石姫本人だけである。
【盟国の王】このとき集まっていたのは竜人族が治めていた地響国、守護石を破壊され王と軍を失った風翔国を除く四国の国主たち。暁城諜報隊の瞬間移動術である『彩渡り』が使えていたため、暁城に集まるのも容易だった。




