漆・雷渦の記憶 前
翠は微動だにしない。
わずかに開かれた唇から苦しげな吐息を漏らしながら。表情は普段のそれと変わらず、至道をまっすぐに見返している。
至道のまなざしが鋭く細められた。
――腹の底が読めぬその顔が、眼が、昔から気に入らなかった。
「なぜ、槍を使わん」
至道の低く響く声が、空気を震わせた。
「付け焼刃の剣術で俺と渡り合えると思っているのか?」
翠は問いかけに答えず。身体を支えていた右腕を木肌から離し、刀を下段に構える。その腕や肩、脚にいたるまで。至道に受けた傷に加え、折れた木片が刺さり衣服に血がにじんでいた。
至道の侮蔑と怒りの入り混じった視線を逸らすことなく受け止める。翠の暗緑色の瞳は光を失ってはいない。
至道の、篭手をはめた右腕が軋む。拳が震えるほど握りこまれたからだ。
――なぜだ。誇りと、課された責務を捨てた男が……。
強い意志を宿した輝き。かつてのこの男にはなかったはずのそれが、至道の怒りを増幅させる。
「誇り高き竜血の掟にのっとり、貴様を滅す!」
至道が動く。その前に翠は予備動作なく踏み出していた。右下段から斜に斬り上げる一太刀。迅雷の速さ。刃は至道の脇腹に食いこむ。
だが、それだけだった。
至道の左脇腹に、刀身は隠れるほどまで斬りこんでいる。それ以上の侵攻を許さぬのは強靭な筋肉だった。そして翠も、それ以上力を込めることができずにいたからだ。
「――っ……」
翠の口から歯と歯が軋む音が漏れる。至道の右手が翠の首にかかり、喉笛を締め上げ始めたのだ。決して軽くはない身体が上へと持ち上げられ、刀は翠の手を離れる。
脇腹に残ったままの刀を意に介さず。至道は握力を強めていく。
秋良は、はるかの数歩後ろで見ているしかできなかった。
至道から発せられる肌がしびれるほどの殺気と威圧感。こめかみを汗が伝う。
はるかへと視線を向けた秋良は、はるかが苦しげに息継ぎをしているのに気がついた。至道に注意を払いながら静かに移動する。
「おい……」
小声での呼びかけは、はるかには届いていなかった。
はるかの中で、栞菫の記憶が明滅するように現れては消える。魔竜の乱――戦場での記憶。時間も場面も入り乱れ、はるか自身の現実の視界と栞菫の過去の視界が目まぐるしく交錯する。
無秩序に、脈絡なく。すでに自分がどの時間にどの場所にいるのという認識すら薄れ。身体の中にあふれる『栞菫』の記憶で『はるか』が押しつぶされてしまう。その息苦しさから必死に酸素を求めていた。
今見えている栞菫の記憶に音はない。
遠くからぼやけた音で、切れ切れに秋良が呼ぶ声が聞こえているのに。返事を返そうにも声は出ない。
栞菫の記憶は、あるひとつの光景に集約し始めた。それは忘れもしない、幾度か繰り返されていた父の最期の記憶。
視界が揺れ、呉羽の姿が近づく。栞菫が駆け寄っているのだ。傾いだ身体を、両腕で受け止める。
まばゆい雷渦をまとった槍が、呉羽の心臓を、その中心にある核を貫いている。
槍は自ら持ち主の元へ飛んで戻っていく。
栞菫の視線が、父を離れ殺気の元へ――槍の主へと向けられた。
戦乱に乱れた黒髪の間から、天へ向かって伸びる竜のごとき一対の角。その片方は、根元から砕かれている。鬼神のごときその形相は、まさしく――。
「雷神、か」
至道の翠を嘲る声が、やけにはっきりと聞こえてきた。
「そうまで呼ばれた男が、落ちたものだな」
記憶の中で栞菫が見つめる、父の敵。
黒に限りなく近い緑色の瞳にみなぎらせた、すさまじい殺気。手にした槍に走る雷渦さながらのそれは、まさに雷神と呼ぶにふさわしい。
「裏切り者の翠竜に、死を」
至道の声が、はるかの心臓をわしづかみにする。傷みが、胸から全身へと広がっていく。同じく、はるかの意識の中に白い光が満ちていく。光は、意識を手放しそうになる苦痛をわずかだが和らげていく。
――あなたの名は……
その中に、響く声。
光の中に反響し、揺らめくその声は自分の――いや。栞菫の、声……。
――これからは『翠』として――
はるかの意識と、栞菫の身体が、乖離する。
意識が、引き剥がされる――。
記憶の中心から広がる白が、はるかを埋め尽くす。
そんな中、かつての翠の声が静かに響いた。
――これからは、珠織人と共に――
霞んでいく意識。それでも、誓いの言葉は確かにはるかの耳に届く。
それを最後に、はるかは白の中に溶け込むような感覚の中で意識を手放した。
秋良はどうすることもできなかった。はるかは息を喘がせ胸元を強く掴んでいるが、原因もわからず呼びかけにも応えない。
はるかの身体が前傾し崩れ落ちそうになる。秋良は左手の刀を放し支えんと伸ばした。
「――!?」
しびれるような痛みを感じ、秋良は反射的に手を引いてしまう。指先が、はるかの身体に触れる直前。不可視の力に弾かれたようだった。
秋良は驚愕に眼を見開いた。わずか差す月明かりしかない夜闇の森で、いつもより濃い色を宿していた鳶色の瞳。それが今、にわかに生じた光に明るんでいる。
はるかの全身を守る、淡く白い光。
そう秋良が感じたのは、苦しんでいた表情が和らぎ、穏やかに眠っているようにすら思えたからだ。力なく重力にゆだねられた身体は、光に支えられて地上に浮いていた。
はるかの足元から、彼女の身体を包む光と同質の、さらに強い光が地面に広がる。
瞬く間に半球状に成長する光のまばゆさに、秋良は腕を眼前にかざす。光の持つ得体の知れぬ圧に、意識せぬまま後ろへと退く。
――この光は、あの時の?
似ているように思えた。琥珀の街で、秋良の命を救った光に。
わずかな間にはるかの頭部まで覆った光は、瞬時に彼女の胸元に収束し、全て前方へと放たれた。
光の支えを失った身体は反動で後方へと倒れていく。秋良の左腕が、今度こそしっかりとはるかを支える。だがその瞳は光が矢として放たれた先へ向けられていた。
闇を裂く光が、気づき振り向いた至道に迫る。翠の首を掴み上げたままの右腕。その肘よりわずか下を、白光の矢が貫いた。背中の中心を狙っていたそれが、至道の動きにより逸れたのだ。
秋良の眼は、宙に舞う至道の腕を捉えた。穿たれた勢いのまま、右腕の下半分が地面へと転がる。釣り上げられていた翠の身体は、支えを失い至道の足元へ崩れ落ちた。
光が生じてから矢として放たれるまでは数瞬。
あたりは再び月明かりの蒼と静寂に包まれた。
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