碌・襲撃 後
人の姿から変貌した一頭の竜は、ゆっくりと秋良の方へ向き直る。地上より一間上で、男の面影を残す隻眼が獰猛に赤光する。
右眼の位置にある古傷。木が根を張るように広がるそれが、男と竜が同一の存在であると示していた。
秋良は頭上をにらみ上げ、小曲刀を握りなおす。
「秋良ちゃん!」
はるかの声は、地鳴りのごとき竜の咆哮にかき消された。秋良は駆け寄ってきたはるかを真横に蹴り飛ばし、反動で自身も横に跳ぶ。
「きゃん!」
転がるはるかと秋良の間を竜の肢がかすめる。直後の地響き。
踏み下ろされた肢から逃れ、はるかは土まみれになりつつも起き上がる。秋良は視界の端にそれを捉えながら竜の姿を改めて見上げた。
竜は自重で埋もれた右前肢を引き抜く。その肢のみならず全身が柳茶色の固い鱗に守られている。脊髄に沿って並ぶいびつな背びれは岩さながら。
こちらを見下ろす左眼が秋良を捉え。人ひとり簡単に飲み込めるであろう巨大な口が開き、再び咆哮が発せられる。
翠は至道と戦いながら、はるかたちと対峙する竜の姿を見た。
竜の右脇腹には、秋良が斬りつけた真新しい大きな傷がある。秋良が斬りつけたそれのために、竜化せざるを得なかったのだろう。しかしそれは急速に塞がりつつあった。
竜人族の中には竜の姿に変化できる者がいる。身体に流れる竜の血の濃さによるとされているが、強靭な肉体を得て回復力もさらに増大する。
しかし――
「馬鹿者が……」
かすかなつぶやきは至道のものだった。
竜化により、その者の自我は失われる。ただ眼前の敵を襲うだけの獣に成り下がるのだ。我を取り戻し元の姿に戻るには、竜としての意識を失う以外に方法はない。
翠にできたのは、竜化した竜人族を相手取るふたりを一瞥するのみ。それ以上気遣う余裕がない。ふたりを信じ、至道との戦いに意識を集中させた。
竜の太い尾が横に薙ぎ払われる。上へ跳んでかわす秋良。はるかも左へ回りこみ避ける。刹那、はるかは動きを止めた。
視界が切り替わったからである。
はるかが見ているのは、木霊森ではあるがここではないどこか。
乱戦の戦場。大勢の怒号。駆け回る兵を何頭もの竜が蹴散らしていく。
「馬鹿、上っ!」
突然意識を裂いて届いた秋良の声。
見上げたはるかの眼前に、振り下ろされた鉤爪が迫る。後方へ下がる――だけでは間に合わない!
高低の入り混じった金属音が響く。
左手を沿えた刀身を、はるかは無意識のうちに鉤爪との間に割り込ませていた。しかし勢いは殺せず。身体は後方へ弾き飛ばされる。
「はるか!」
地面で一回転して起き上がるはるかに秋良の声が鋭く飛ぶ。秋良は小曲刀を逆手に握ったまま、立てた人差し指を地面へ向けて見せた。
かすかにうなずき、はるかは竜の懐へ駆けこむ。軸足へと斬りつけたが、硬い鱗に阻まれ傷ひとつつけることができない。いや、傷がつかないからこそ、はるかはためらうことなく攻撃を続ける。
秋良の指示通り竜の気を引く。先ほどの秋良の合図は、運び屋の仕事の中で幾度となく使ってきたもののひとつだ。
その隙に秋良は竜を見下ろす大木の枝に移動していた。
眼下ではつかず離れず、ひいては寄せる波のごとく立ち回るはるかの姿がある。竜の攻撃をうまくかわし、その合間に距離を詰めて斬りつけている。
樹上で身をかがめ、秋良は待つ。
左の小曲刀は鞘に収め手には一振りのみ。逆手に構えた右手にもう一方の手を添えて。
狙いを定め――
――今だ!
下方に向けて枝を蹴る。重力に脚力が加わり、秋良の身体は竜めがけ急降下する。
小曲刀に、それを握る両手に伝わる。肉を裂く鈍い感触と衝撃。間を置かず狂ったような竜の叫びが耳をつんざき皮膚が震動する。
秋良の小曲刀は狙い通り、唯一残された竜の左眼に根本まで突き立っていた。
「――っ!」
竜の頭部に着地していた秋良の身体が宙に浮く。激痛と暗転した視界に混乱した竜が暴れ出したのだ。右手で小曲刀の柄にぶら下がる形で落下を免れる。
秋良は右へ左へと翻弄されながら、おろおろとこちらを見上げるはるかへ叫ぶ。
「はるか、刀よこせ!」
手にした刀を放るべく、逆手に持ち換えて振り上げた直後。
またもや白い閃光が視界を支配する。
静寂が支配する白を抜けたとたん、先ほどの戦乱の中に意識が投げ出された。
数頭の竜と何百人もの兵が入り乱れる中、現れた敵将の姿。雷渦まとう槍を手にした黒髪の――
「……るか! 早く、刀を投げろぉ!」
はっと上を見上げる。秋良は竜の首の動きや爪による攻撃をなんとかかわしている。片手でぶら下がっている状態でありながら、そこを離れようとはしない。
はるかは柄が上になるようにして投げ上げた。竜が頭を振ったために、秋良の身体は刀の軌道から遠ざかってしまう。秋良は自ら身体を後方へ振った反動を利用して左手を伸ばす。
取った! 刀の柄を握った秋良の身体は振り子のごとく戻る。さらに身体を振った勢いを上乗せして、逆手に受け取ったままの刀を振り下ろす。
断末魔の叫び。刀は竜の右目に広がる傷痕に深々と突き刺さった。
ゆっくりと倒れていく竜の顔の上で、秋良は刀と小曲刀を引き抜く。竜の身体が地面に横たわる前に樹の根に跳び移る。
次第に小さくなる竜の身体が完全に地面に伏した時には、元の竜人族の姿に戻っていた。
生死を確認すべく大樹の根から跳び下りようとした秋良は踏みとどまる。
届いたそれまでにない大きな破壊音は大樹が引き裂かれ割れたことによるものだった。その光景に秋良のみならず、はるかも息を呑んだ。
数間離れた位置にたたずむ、至道。
背中越しに見えるその光景。
小さな小屋ほどの太さを誇る巨木の幹は、周囲の木々の枝を巻き添えに地面へと横たわっている。
その根と幹の根元は砕け散っていると表現するにふさわしい有様だった。今空気を振るわせた轟音は、このためのものだったのだろう。
砕けた幹と、えぐられた根。そこに降り注いだ無数の樹の破片に埋もれるように、翠がもたれかかっていた。
至道に叩きつけられたのであろうその身体。いたるところに傷を負い、口の端からも血が流れ出している。左手は今しがた強烈な一撃をくらった腹部をかばい。刀を握ったままの右腕を根の残骸に押し付けるようにして身体を支えていた。
「翠くん!」
駆け寄ろうとしたはるかは、数歩で踏みとどまった。
肌が痺れるほどの殺気。
肩越しにこちらを振り返った至道の視線に込められたすさまじい鬼気に足がすくんだのだ。
はるかも、そして秋良も。それ以上至道に近づくことができなかった。
至道は視線ごと殺気を正面へ戻す。その先にいる翠へ向けて、足を踏み出す。
ゆっくりと二人の距離が縮まっていく。
翠との距離が一間に迫ったところで、至道は歩みを止めた。
【一間】約二メートル。
【竜化】竜人族特有の能力。全ての竜人族に備わっているわけではない。かつて魔竜の乱でも決死の覚悟で竜化した竜人族に、連合軍は苦戦を強いられた。
【秋良の合図】運び屋の仕事中、相手に悟られず作戦を伝えるための手記号が使われていた。実際は幾通りかあるのだが、はるかが覚えられたのは三つまでだった。




