弐・道を選び、進む 前
決意を新たにし、はるかは寝台から身体を起こした。
窓際に立ち外を眺めていた秋良が気づいて振り返り、にやりと口端を上げて言う。
「へぇ。俺の目覚ましなしで起きるなんて、珍しいこともあるもんだな」
はるかは自力で目覚めた自分をほめ称えた。あと数分目覚めるのが遅かったら、鉄拳という名の目覚ましを喰らっていただろう。
「毎日秋良ちゃんに起こされてたら、頭の形変わっちゃうよ……」
「心配するなって。中味はそれ以上悪くなりようがない」
「……」
言い返す言葉もないはるかを、窓から吹き込む風が包んだ。風に含まれる潮の匂いに誘われ、急ぎ身支度を整え歩み寄る。
昇ったばかりの朝日で金色に染められた木造家屋の多い拓帆の街並み。広い市場が港を中心に広がる街の光景は、陽昇国を離れる際に立ち寄った潮の街をさらに大きくしたような印象を受けた。
建物によっては一部土壁を使用している部分もあるが、そのほとんどに木を使用した建物というのは、はるかにとって潮と拓帆で初めて眼にしたものだった。
窓のすぐ下は表通りだ。市へ行き来する人々でにぎわっている。朝のうちに表通りが混雑するのは、どの街も変わらないようだ。
宿屋周辺は商店街のため、二階建ての建物が多い。宿の三階にあるその窓からは、少し離れた位置にある港までをそれらの屋根越しに見ることができた。
「秋良ちゃん、海が見えるよ!」
はるかは窓から身体を乗り出した。首から提げた瑠璃色の石が、陽光を吸い込み明るみを増す。再度吹き込んできた潮風に金茶色の髪が舞い上がる。
港のさらに奥。広大に広がる水面と、水平線からあがったばかりの太陽が見える。陽光が、水面でいくつものまばゆい瞬きに変わっていく。その上を走り抜けてきた風は潮の香りだけでなく、そのきらめきの欠片さえも運んでくるように思えた。
「ね、秋良ちゃん、海!」
満面の笑顔で振り返ったはるかとは正反対の渋面で、秋良が言う。
「海の話はもういい」
初めて見る海、初めて乗る船に感激したはるかは、船に乗り始めてからずっと騒ぎっぱなしだったのだ。
船の部品や波やその合間に漂う海藻や泡、果ては空を飛ぶ鴎まで、『あれはなんという名か』『どうしてあんなふうなのか』など、歓声をあげては秋良を質問攻めにした。
島国である陽昇国と大陸の東端にある緑繁国とは、海を隔てているとはいえ距離的にはさほど離れていない。拓帆までは船で約一日半。
延べ勘定でそのうちの半分は『なになぜ攻撃』を受けていた秋良は、ついに耐えかねてこう言ったのだった。
――そんなに海が気に入ったんなら、思う存分堪能できるように船縁から逆様に叩き込んでやろうか?
秋良の渋面に、船上で胸ぐらを掴まれ言われたその言葉を思い出す。はるかは必至にふるふると首を横に振った。
突然のはるかの『思い出し拒否』に、秋良が不審そうな視線を向けた。ちょうどそのとき、部屋の扉を叩く音と、扉越しの声が響く。
「失礼」
「翠くんだ。どうぞ」
はるかは小走りに扉まで行き、翠を部屋へ招き入れる。
一礼し部屋に入ってきた翠は、諜報に出かけるときと同じ身軽な出で立ちだった。
ただ、公用時のような白地に暁城の紋が入ったものではない。白縹の薄い青を基調とした衣服に身を包んでいる。
巡礼の儀に当たる際は本来であれば公用の、しかも儀服を用いるところだ。だが今回は危険を伴う忍んでの旅。陽昇国の者であるということは知られないに越したことはないのだ。
「今後の予定について詳しくお伝えします」
翠が持ってきた地図を片手に告げ、窓際にいる秋良へも視線を向けた。秋良はふい、と顔をそらす。
それを見たはるかは心情をそのまま表に出した微妙な笑顔が浮かべた。
秋良と翠の間に、というよりも、秋良が翠に対する不信感を抱いているのは一目瞭然。
はるかが暁城に連れて来られるまでの間に、はるかの知らないやり取りがあったこと。それによって秋良の翠に対する印象が良くないものになっているということは知っている。
だが今後ずっとこの調子でいられると思うと、間に挟まれる者としてはいたたまれないものがあった。
「翠くんもここに座って?」
はるかに勧められるまま、翠は寝台に腰掛けた。宿の部屋は質素なもので寝台と小さな棚以外は何も置かれていないのだ。
寝台の上に地図が広げられると、はるかは寝台に上りその地図の横にぺたりと座る。
翠が視線を上げると、言うより早く秋良が開いている窓を閉めている。話し声が外に漏れないようにするためだ。窓を閉めた秋良は、そのまま窓の横の壁に寄りかかった。
「緑繁国の守護石は、拓帆の北西にあります」
広げた双月界の地図の東端、海に浮かぶ小島。これが陽昇国だ。
その西に広がる大陸の、陽昇国に向けて迫り出した半島の先端にある拓帆の街。そこに置かれた翠の指が左上に移動していく。半島に広がる草原を越え、広大に広がる森へ入り……森のほぼ中心で動きを止めた。
「前回の巡礼の儀には、栞菫様も呉羽様に同行されていました。同じ道をたどればあるいは、記憶を取り戻す手がかりが――」
「ちょっと待った」
秋良が翠の言葉を遮る。
「忍んでの旅、とか言っておきながら。そんな堅苦しい話し方で名前まで呼んでたら即刻ばれるだろうが」
「……しかし――」
言い返しかけて、翠は二の句が告げなかった。
表情にはほとんど変化は見られないものの、その困惑した様子を察してはるかが口を挟んだ。
「じゃあさっ! 秋良ちゃんと一緒で『はるか』って呼んでよ」
『秋良ちゃんと一緒』の言葉に、秋良が露骨に嫌そうな顔をした。しまった、と思ったものの気付かないふりで話を流すべく先を続ける。
「私ね、まだ記憶が戻ってないから、みんなの知ってる『栞菫』じゃないと思う。それなのにみんなが『栞菫様』って呼んでくれるの、申し訳ないなって思ってたんだ。だから、記憶を取り戻してちゃんとした『栞菫』に戻るまでは、翠くんも『はるか』って呼んでよ。それに――」
はるかは一度言葉を切った。が、すぐに笑顔で先を続ける。
「言葉遣いも、普通でいいから」
翠は沈黙のまま、自分に笑いかける少女の紫水晶の瞳を見返した。先刻言葉が途切れたときに見えた、憂いの色はもう見えない。気のせいだったのだろうか?
ゆっくりと息を吸い込み、翠は言った。
「わかった。……俺を呼ぶ時も『翠』でいい」
「うん。翠、ね。みどり、みどり……」
はるかはぶつぶつと名前を繰り返す。
秋良はため息混じりに頭を振った。
かつて自分も何度となく、時には実力行使も交えて教え込もうとした。しかし未だに名前に付随する呼称は消える気配を見せないのである。きっと、今回も同じ結果に終わるだろう。
「じゃ、続きを話して。翠くん……じゃなかった、翠」
はるかは元気に、努めて元気に声を出す。
――栞菫とは、親友なんでしょ? だから――
その頃のことも、翠のことも、なにも覚えていない『はるか』には、言うことが出来なかったその言葉を、心の奥底に押し込めながら。
【潮】陽昇国最北の港町。秋良が暁城に忍び込む際に協力させた商人・磯道が店を構えている。拓帆の商店街には磯道の兄である浜道の店がある。
【白縹】色の名前。青みを含んだ白色。薄い水色。
【呉羽】故人。栞菫の父。過去に珠織人の長『聖』として巡礼の儀を行なっていた。幼い栞菫も同行していたが、はるかにはその時の記憶がないまま……。




