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壱・はじまり



 (あかつき)を過ぎ天心への道を歩み始めた陽の光が岩肌を照らす。

 風は強さを変えて絶えず吹き流れている。守護石を失って久しい風翔国(かぜはしるくに)の中でも、風が豊かなこの森にはまだ名残があった。


 木々茂る中、身をひそめるように円形に落ちた五間ほどの窪地。周囲とは十五尺もの岩の段差で隔てられている。わずかに届く朝日に照らされて育ったのだろう。地面は丈の短い柔らかな草に覆われており、岩壁のたった一箇所開けた細道へも続いていた。

 人がふたり並べるかどうかというその道は、そびえる岩壁を両脇に、道幅は次第に広く岩壁は高くなっていく。いや、岩壁が高くなっているのではない。道が降っているのだ。

 届く光が消えたところで草のないむき出しの地面に変わる。


 道の終わりは直径十尺そこそこのいびつな岩に囲まれた空間だった。天を仰げば黒い岩影によって小さく円形に切り取られた空。井戸の底を思わせる筒状の岩沿いに、細道から入った風が渦を巻いて吹き上がる。


 光も届かぬその地に、ひとり立つ影。


 背中に長刀を背負い、軽装に身を包んだ出で立ち。

 ひときわ眼を引くのはその髪だ。二十代前半の容姿に、この暗がりにあってなお輝度を失わない白雪の髪。老いて色を失ったそれではない生来の白髪。まとった黒い衣服に映え、いっそう白さを増して見える。

 冬の海を思わせる深い青色の瞳。切れ長の眼に宿るそれは、じっと一点を見つめていた。


 ぽっかりと口を開いた洞穴の入口。

 岩壁の突き当たりにあるそここそが、彼に――いや彼らにとっての『始まりの地』であった。ここから彼らの戦いは始まり――それはまだ、今もなお続いている。


 そう、まだ終わってはいないのだ。


氷冬(ひとう)


 名を呼ばれ、男は振り返る。白髪が吹き上がる風に舞う。

 彼を呼んだのは、七尺近い巨漢。短く切った髪は緑味を帯びた茶色――柳茶色。前髪が邪魔にならぬよう、紺色の布を額に巻きつけている。むき出しの腕に隆々とした筋肉。それは腕のみならず、全身を覆っていることが服の上からでもわかる。

 その体躯を誇りながらも、いつから背後に立っていたのか。まるで気配を感じさせなかった。


「『稀石(きせき)』が」


 氷冬は静かな声で語りかける。


陽昇国(ひいづるくに)を出立したそうだ。今は、緑繁国(みどりもゆるくに)に入っている」

「……奴が、いるというのは本当か」


 紺色の布の下に半ば隠れるように光る黒い瞳。それはあるひとつの感情をあらわに映し出している。それは、氷冬が胸の奥底に秘めたものと同じだった。


至道(しどう)……」


 青褐色の瞳を伏せ、氷冬は仲間の名を呼んだ。彼のいる方へと歩み寄る。


「気持ちはわかるが、任務が優先だ」


 その言葉に、至道は大きな両拳を硬く握り締めた。同時に腕の筋肉がふくれあがる。横を通り過ぎざま、氷冬はその手をのせて至道の腕と怒りを抑えた。


「任務に当たっていれば、いずれ奴とも戦うことになる。必ずな」


 氷冬の瞳にひらめく、まさしく氷のような冷たい光。一瞬だけ浮かび上がった秘めたる怒りは、すぐに瞳の奥深く、冬海の色に呑みこまれた。






 あおい――蒼く、ひんやりとしたその感覚。

 どこが上で下で、右で左なのか。そもそもそんな区分があるのかどうかすら怪しいほどに、全てを占める透明な蒼。

 眼を閉じているはずなのに、その蒼は直接心に広がっていく。


 以前にも感じた、この空間。

 初めて見たのは――そう、暁城(あかつきのしろ)で最初に目覚める直前のことだった。


――聞こえる……?

「うん。聞こえる……けど」


 口に出したその声は不思議に反響し、自分の声ではないように聞こえた。

 語りかけてきた声は、鈴が鳴るような音色で蒼い空間に響き渡る。


――良かった……あなたに声が届くときは限られているから


 この声――。そうだ。覚えがある。


「守護石のとき……の?」

――あのときは、ごめんなさい。あんな罠が用意されているとは……少し軽率でした。


 そう響いた鈴の音には、わずかばかり悔しさが滲む。しかし、すぐにそれは柔らかな旋律に変化した。


――でも、あなたならきっと大丈夫。自分を信じて。その身体に宿る力を恐れないで……


 突然、声が遠のいていく。

 音はかろうじて聞こえているが、言葉はもう判別することはできない。

 声は蒼の中にかき消えていく。そして蒼い世界は、どこからともなく現れた白い光にその色を失いつつあった。


「待って。誰なの……!」


 その問いかけは、声の主に届くことはなかった。

 徐々に輝きを強くする光に、すべての蒼は白へ塗り替えられた。


 そして。

 はるかは眼を覚ました。

 最初に見たものは、秋良の家の石天井ではなく。暁城の瀟洒(しょうしゃ)な天井でもなく。梁のある板張りの簡素な天井だった。


 眠りから覚めたばかりの眼が光を受け付けず、まぶたが重い。

 再び眼を閉じた。顔に当たる陽光の暖かさ。窓が開けられているのだろう。にぎわう人の喧騒が聞こえてくる。そして、ほのかな潮の香り――


 少しの間を置いて、ようやくはるかは思い出す。

 ここは緑繁国――拓帆(たくほ)の港町。もう、陽昇国ではないのだ。


 巡礼の儀のために訪れた、最初の土地。緑繁国。

 栞菫(かすみ)にとっては、かつて父である呉羽が聖として行った巡礼の儀に同行した地であり――魔竜の乱で呉羽がその命を落とした地でもある。


 呉羽が――栞菫の父親であるその人が死んだという事実。

 かつては悲しかったであろうことなのに。今でも、悲しいと思って然るべきことのはずなのに。

 実感の無い自分が悲しく、また悔しかった。


 はるかがかつて白昼夢の中に見た、その光景。記憶を取り戻す手がかりがこの地にあるかもしれない。

 栞菫の記憶を、核を取り戻すための旅は、すでに始まっているのだ。



【十尺・十五尺】一尺は約三十センチ。十尺は約三メートル、十五尺は約4メートル半。至道の身長は二メートル十センチくらい。


【風翔国】斎一民が治めていた国。魔竜の乱で守護石を破壊され、民は国を失い各地に散って暮らしている。


【緑繁国】島国である陽昇国から大陸に渡る一番近い港町・拓帆は緑繁国内にある。


【白昼夢】はるかが栞菫の記憶と共通するものを目にした時、突如として訪れる現象。過去の記憶が脳内で再現されている間、はるかの意識は遮断されている。

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