拾・心と心 前
はるかは、目の前のお茶菓子に手をつけないほど意気消沈している。
そんな主の姿に、李は袂からなにかを取り出した。両手に包み込んだそれを胸元に抱きしめ、はるかを見上げる。
「栞菫様は、秋良様と離れたくないのですね。なら、そのお気持ちを秋良様に伝えてさしあげましょう? 言わないと伝わらないことって、たくさんありますから。きっと、わかってもらえますよ!」
「李ちゃん……」
「なんて、李にはそんな偉そうなこと言えないんですけどねぇ」
小さく照れ笑いを浮かべ、李は両手に包んだものを開いて見せた。手のひらに載せられたそれは、小さな薄桃色のお守り袋だった。
「これはぁ、李が翠様にお作りしたんです……侍女服で袋を縫って。危険な旅になるとお聞きしたので」
「そうかぁ。あ、今渡そうとしてたのに、私が邪魔しちゃった?」
「とんでもない! 渡そうとして、結局できなかったんです。李と翠様では、いろいろと違いすぎて……想いを伝えるなんてとても」
李のいつもと変わらぬほんわかとした笑顔は、少しだけ哀しげだった。
「実はこのお守り、環姫様の護符だけじゃなくて、李の髪が一束入っているんですぅ。せめてその危険な旅に、同行することができなくても、これだけでもお側に置いていただけたら。そう思って」
お守りをもう一度抱きしめて、李は再び顔を上げた。そこには確かな決意が秘められている。
「よしっ! 李は勇気を出して、これから翠様にお守りを渡してきます! だから、栞菫様も勇気を出して秋良様とお話なさってください!」
李は両の拳を胸の前できゅっと握って見せた。小柄なはるかよりもさらに小さな李だが、今はとても頼もしく見えた。
はるかも両手を拳の形に握り締める。口元をきゅっと結び、李にうなずき返す。
「わかった。李ちゃんもがんばって!」
「はいぃ! あ、侍女服の一部を使ったこと、侍従長様にはくれぐれもご内密に」
どちらからともなく笑いあい、二人はその場を離れた。
李は曲がり角の向こうへ。
はるかは、二階へ続く廊下の方へ。
泡雲が言っていた言葉――異なる心を持つもの同志がそれぞれ思いを伝え、折り合いをつける――
自分はまだ、そこにもたどりつけていない。
先が見えなくて怖いからといって、歩みを止めていてはなにも変わりはしない。
秋良がどう思っているのか。どう考えているのか。
不安をずっと抱えているくらいなら、答えを知ってしまった方がいい。
結果が良くても、悪くても。
そんなのは結果を聞いてから、自分がどうするか、また考えればいい。
二階の奥にある客室。秋良のためにあてがわれた部屋の扉の前に、はるかは立った。
緊張に高鳴る鼓動を聞きながら、胸元の瑠璃色の石をぎゅっと握り締める。石から伝わる暖かい波動が、不思議と不安をやわらげていく。
はるかはゆっくりと片手を挙げ、秋良の部屋の扉を叩いた。
気づけば、秋良は用意された客室へと戻ってきていた。
もやがかかったようで晴れないまま、胸の内は重い。
はるかに同行しても良いのでは。
そう心の片隅で思わなくもない。
けど――。
おそれている――のか?
馬鹿な、俺が、何を?
だからだれも、しんじない。
さいしょからそうしていれば、
うらぎられることだって――。
秋良は頭を思い切り振って、その考えを追い出した。
「いい加減に――」
その先の言葉を秋良は飲み込む。忘れることも、思いを振り切ることもできない。
あの日――誰も動かなくなった村にひとり、残された自分。
冷たい眼をした、あの男。
それが唯一、今の自分を動かしている原動力となっている。そのことを、自分でも嫌というほど自覚していた。
おかしい。
そもそもこんなに感情が振れることなんてなかったはずだ。以前は……そう、はるかを砂漠で拾う前までは。
感情を、己を殺し。
心も肉体も、ただ『それ』を完遂するためだけに。
すべてを疑え。
信じられるものは自身の武器と技量のみ。
決して短くはない年月に培われたそれは、ひとりで生きていくためにも必要なものだった。
自分の身を、心を、守れるのは自分だけだ。
誰も、踏み込ませない。誰にも触らせない。
人との係わり合いなんて、ただ面倒が増えるだけなのに――。
なぜあの時、はるかを砂漠から連れ帰ったのか。
なぜ今まで、ともに過ごしてきた?
いつだって、離れることはできたのに。
秋良の思考を遮ったのは、遠慮がちに扉を叩く音だった。
鍵をかけたかどうか記憶にない。
返事をするのも立ち上がるのもおっくうなのでそのまま放置する。
小さな音を立てて扉が開かれた。
隙間から大きな紫水晶の瞳がのぞく。はるかのそれが、室内の秋良の姿を見つけた。
扉と対面の壁際に置いた椅子に腰かけ、窓枠に肘を置き頬杖をついている。
夕刻が迫りつつある北向きの部屋は薄暗い。
「秋良ちゃん?」
呼びかけるが返事も反応もない。開けた扉に身体を滑り込ませて、そっと扉を閉めた。
足音を立てないように、そっと窓際に歩み寄る。
いつもの秋良であれば些細な物音にも反応するはずなのだが……秋良まであと半間。
「なにか用か」
「わっ!」
突然の秋良の声に、油断していたはるかは思わず声を上げた。
どきりと跳ねた心臓と、その上にある瑠璃石を同時に押さえて、はるかが言う。
「起きてたんだ! 返事がないから寝てるのかと思っちゃった」
慌てて取りつくろったその言葉にも沈黙のみが返ってくる。
これまでにも何度かあった。
人を寄せ付けない空気を秋良がまとっているとき。
秋良がこんな状態の時は、そっとしておくことでやり過ごしていた。
でも、それじゃあ今までと変わらない。
はるかは右手に感じている瑠璃石の固さと暖かさを感じる。
砂漠で倒れていた時に握っていたというこの石がどういうものなのか。思い出すことはできていない。
わかっているのは、とても大切な物だということ。こうしているだけで前へ進もうとする勇気がわいてくるということ。これまで何度も力をくれた。
はるかは息を吸い込み、こちらを見ないままの秋良に向けて言った。
「秋良ちゃん。きいてほしいことと、ききたいことがあるんだけどね」
少し待ったが反応はない。はるかは拒絶に負けじと言葉を紡ぐ。
「先に、ききたいことから。秋良ちゃんは沙里を離れるのは嫌?」
言い始めてから、はるかは心臓の鼓動が早まってきているのを感じていた。
「さっきは白銀があんな風に言ってたけど、それは抜きにして。本当はどうなのかなぁって」
はるかは紫水晶の瞳で真摯に秋良を見つめる。自分が緊張しているのがわかる。答えをきくのが怖いからだ。
秋良は小さなため息の後に気だるげな声で答えた。
「俺は陽昇国を離れる」
「えっ」
秋良はそのことを誰にも、はるかにも話してはいなかった。
運び屋の仕事は金を得るための手段であり、この地に腰を落ち着けるためのものではない。陽昇国を訪れたのも秋良の『目的』を果たすためだ。
十分な蓄えもでき、旅立つ頃合いを見計らっていたところだった。
「勘違いするな。俺は俺の目的のために行く。一緒に行くわけじゃない」
秋良は窓の向こうに視線を向けたまま、そう言葉を重ねた。
【李のお守り】翠が諜報隊長に就いた頃には怖くて近づくこともできなかった李。栞菫失踪中、大きな籠を運搬中の李を転倒から救ったのが通りすがりの翠だった。それ以降ずっと片思い中。妄想だけで満足と思っていたが、彼女自身命の危険を感じる事件を経て心境に変化があったようだ。
【瑠璃石】はるかが砂漠で発見された際に身に着けていた銀の腕輪がある。本来はそれに填められていた石。秋良が発見した際には破損しており、今は石を囲む二対のらせん飾りを残すのみ。その銀細工に革紐を通して肌身離さず大切にしている。大切な理由は本人も覚えていない。
【半間】一間は約二メートル。半間はおよそ一メートル。




