捌・守護石を廻り 前
視界の端に『虹月』が放つ玻光閃の光がかすめる。
周囲を包むのは耳をつんざく怒号。
敵味方入り乱れた兵たちの足音が地鳴りのように鳴り響く。
それらが震わせる大地は赤黒く焼け焦げ、さらに上から茜色の染料をひっくり返したように塗られている。傷付き、失われていった者たちの血で。
――ああ……この、光景は。
覚えがあった。秋良と共に炎狗に襲われたとき。月影の間で白銀から話を聞いたとき。
白昼夢の中で見る、栞菫の記憶。
自ら見聞きし触れている感触すらある。それは栞菫としてこの肉体に残された感覚。
はるかは、硝子の向こうで物語が進行していくのをただ見ているしかない。
栞菫は地面に座り込んだ膝に抱える人物を見る。
父であり、珠織人を統べる『聖』であった呉羽。乱れた青褐色の髪がふりかかる白い肌は無数の傷と血に汚れ、瑠璃色の瞳は閉じられたまま開かれることはない。
胸に深々と刺さった一振りの槍は、その命を奪ってなお紫電をくすぶらせている。
栞菫が手を伸ばすより早く、槍は意志を持つかのように呉羽の身体を離れた。弧を描いて宙を舞った槍は主の手元へと戻る。
それを追って栞菫の視界が動き、片手に槍を掴んだ青年を捉えた。
栞菫は涙を流していなかった。ただ強く、まっすぐに。父の命を奪った黒髪の青年を遠目に見据える。
その姿には、はるかにも覚えがあった。
あれが白銀から聞いた、魔竜士団の『雷神』と恐れられている将なのだ。
主の敵を討つべく向かう近衛兵たちのことごとくが、雷神の槍になすすべもなく討ち田倒されていく。
視界に玻光閃の光が再び映る。同時に聞き覚えのある声。
白銀だ。
大声で部下たちを下がらせ、抜き身の『虹月』を雷神へ向けて一閃する。虹色のきらめきを持つ光の刃が空を滑って――。
弾かれたような衝撃が頭の中に起こる。はるかの意識は急激に今へと戻された。
「栞菫様!?」
李の声に気を取られたほんのわずかな白銀の隙を緋焔は見逃さなかった。
数発放った爆発が地面をえぐり黒煙と砂塵に包まれる。その中で緋焔が右手の人差し指から灼熱の光線を放ったのを、はるかは見た。
声を上げる間もない。爆煙で白銀からは見えないはずだ。緋焔は勝利を確信した。
「――!」
突然、緋焔が右足を引き上体をひねった。身体があった位置を光線が過ぎ去る。
戦うふたりを真横から見る位置にいた秋良たちには見えていた。
緋焔の放った光線が爆煙をくぐった直後、白銀は『虹月』の刀身で光線を跳ね返したのだ。
「くっ、ははっ。いい刀だぜ、そいつ」
緋焔は愉快そうに笑う。
「でもよぉ、この緋焔様が一度見られている技をそのまんま使うわけねぇだろうがよ」
「……っ」
爆煙が晴れていく中、白銀は崩れるように膝をついた。
白い胸当ての左胸に描かれた陽昇国の紋章。その中央に黒く焦げた痕がある。同じ位置の背中側にも同様の痕があるだろう。緋焔の光線は背中から胸へと抜けたのだから。
「もう一本が、向きを変えたというのか……」
白銀は緋焔が光線を二本放っていたのは察していた。しかし一本が心臓を狙っていたのに対しもう一本は大きく逸れていた。光が反射もなく向きを変えるとは。
「甘く見たな。ただの光線じゃあない。それだって俺が操る炎なんだぜ」
――白銀!
呼びかけたつもりが、はるかの口はその形に動いただけだった。
頭の芯が麻痺してしまったのだろうか。音が遠くなる。声も出ない。
「し、白銀様!?」
涙混じりの声を上げて立ち上がりかけた李の肩を秋良が押さえる。
「お前が行ってもどうにもならないだろ」
李が振り仰ぐと、秋良は真剣な表情で『戦い』を見つめていた。
膝をつき、白銀は砂混じりの岩地に左手をついた。
左胸の傷は、核を砕いてはいない。砕かれていないまでも核は傷を負ったに違いなかった。呼吸は荒く、数回咳こんだ口元に血が伝う。
「あいつはまだ勝負を捨ててねぇ」
秋良の言う通り、白銀の青銀色の瞳は光を失ってはいなかった。
倒すべき敵を正面に見据え、手にはしっかりと『虹月』を握り締めている。
緋焔はそれを見て口の端を歪める。
「まぁ、核への直撃を避けたのはたいした悪あがきだ。今楽にしてやる」
はるかにはすべての音が壁越しに聞こえるように感じていた。時の流れも急に遅くなったように、その眼に映る。
――護石……度……のです――
声が響いた気がして、はるかは近くにいるふたりを見た。
違う。秋良でも李でもない。
「守……護石……?」
口をついて出た自らの言葉に、はるかは確信を持った。
「守護石だ。あの中、緋焔て人と同じ力を感じる」
はるかの声は近くにいてもかろうじて聞き取れるか否かの小さなものだった。
秋良と李が振り返る前で、はるかはゆっくりと立ち上がった。
「え……栞菫様?」
「お、おい、はる――!」
その様子を訝しんだふたりが声をかけた時には、はるかの姿は消えていた。
慌てて周囲を見回した李がその姿を見つけたのは守護石の足元だった。
半分から上が砕かれているものの、その位置までの高さは十尺はある。見上げる高さの守護石を仰ぎ、はるかは石肌に触れた。
力を失いつつある守護石。しかし彩玻動流を導く力はまだ完全には失われていない。
彩玻動流を通して伝わってくる、暖かい力。
――さぁ、私の言葉に続いて
先刻よりも明瞭に響く声。
はるかは両手をぴったりと守護石に沿わせる。
「天地守護環姫の御元に仕えしこの名をもって――」
静かに、詠うような声が洞内に響く。
驚いた緋焔が、背にしていた守護石を振り向く。守護石はうっすらと光を帯び始めている。その下に立つのは、あの女――。
寸分たがわぬその姿は、同じ仕草で、三千年前に緋焔を封じたその時と同じように、詠う。
「封印の契約を天地と結ばん――」
白銀は残された力を奮って地に着いた膝を起こす。
このときの白銀に余裕があったならば、いつもの彼であれば不自然さに気付いていただろう。
自らの力が封じられんとしているにもかかわらず妨害もせず。むしろ期待を込めた眼差しを送る緋焔の姿に。
「我が名は栞菫!」
はるかの詠唱が終わると同時に守護石をほのかに包んでいた光がはじける。
「彩波動が!」
李は思わず声を上げて自分の両手を見た。暖かい力が全身を包み、巡る。
白銀の身体にも力が湧き上がる。この機を逃すことはできない! 残された気力を振り絞り緋焔へと駆ける。
「うおおぉぉっ!」
気迫の込められた声が背後に迫っても、緋焔は動くことすらできない。力が急速に吸い取られる感覚。全身が重く立っている身体をなんとか支えている。
振り向いた緋焔の金色の瞳に、輝きを増した彩玻光を帯びた『虹月』が振り下ろされるのが見えた。
「ぐ……あああぁぁあぁっ!」
緋焔の苦しげな悲鳴が上がる。
白銀の渾身の一撃は、緋焔の右肩から胸へかけてを見事に切り裂いていた。
緋焔に致命的一刀を浴びせた白銀は、力尽き膝をついた。
その彼の前にうつぶせに倒れた緋焔は、ざっくりと斬り込まれた肩口から血をあふれさせ。なおも顔を上げ守護石を見つめ続けている。
はるかの両手から広がる白い光に包まれた守護石は、さらに光を増してゆく。
直視できないほど光が強まったその時――光は守護石の足元に吸い込まれはじめた。
かわりに浮かび上がる、守護石を中心とした法術陣。法術陣を描く黒――周囲の光をすべて取り込んでしまいそうな黒い闇。
それは一瞬。光は闇に塗り替えられた。
【魔竜の乱】百二十年程前に竜人族で構成された『魔竜士団』による守護石破壊と、それを阻止せんとする各国連合軍の戦。栞菫もこの戦により自身の記憶を含め多くを失った。
【天地守護環姫】双月界にある六つの種族の祖を生み出したとされる創世の女神。珠織人は特に環姫への信仰厚く、現身である『稀石姫』が生まれることなど強い関わりがある。




