漆・妖魔六将 前
くらい……暗い、ひとりきりの世界。
時も流れず、動けず――死ねず。
かろうじて意識は残されており、自らが置かれた状況を把握させられている。
まったくもって絶望的な独房。
未来永劫続くと思うと気が触れそうな長い年月の間。
こんなところに閉じ込めた相手を恨み、呪い。
いつかその命をこの手で奪ってやると己が拳に誓う。
それだけを支えに、静かなる地獄を耐え忍ぶ。
解放の時は前触れもなく唐突に訪れた。
失った時間は三千年と少し。
真っ先に殺してやろうと思っていた環姫は、もう存在していなかった――。
白銀の逆袈裟の斬り上げを後方に一歩、二歩と跳んでかわした緋焔は、長年自分を縛りつけていた巨石の上に軽々と跳び乗った。
上半分が砕けた守護石。未だ力の半分は、この忌々しい石の中にある。それでも離れた暁城にいるのとではずいぶん違う。石の中から力が流れ込んでくるのを、緋焔は確かに感じていた。
緋焔は十間離れた壁際を見た。洞窟の縁まで下がって侍女に寄り添うように身をかがめている、その姿。環姫とは別人であると、頭では理解しているつもりでも。その姿に対し沸き起こる怒りを抑えることはできない。
「じじいの計画なんざ知るか。今ここで仕留めてやる!」
緋焔は守護石を蹴りそちらへ跳びだした。刹那、左に迫る影。身体をひねった右肩を白刃がかすめる。
ほんのわずかな手ごたえしか得られなかった白銀は、緋焔と同じく一度距離を取る。
ふたりは三間ほどの間合いで対峙した。
白銀は手に提げた長刀の柄を握りなおし、切っ先を地に向けたまま構える。その青銀色の瞳は油断なく緋焔を捉えていた。
「貴様の相手は俺だ。殺された者たちの無念、晴らさせてもらう」
「殺された者?」
白銀の言葉に記憶を探るようにしていた緋焔は、思い出したと言わんばかりに両手を打った。
「ああ、あれね! 道塞いでやがるから、ちょっとひねってやっただけだったんだぜ? 悪いのはあいつらだろ、弱すぎたんだよ」
笑みの形に口端を歪める緋焔とは対照的に、白銀は奥歯を噛みしめる。瞳の青が冷えていく様子を知りながら緋焔は続けた。
「こっちは守護石に封じられてて弱ってるってのに、核を壊してやれば一発だ。三千年経っても変わんねぇんだなあ、珠織人ってのはよ」
緋焔のその言葉。
白銀の中に燃える怒りを押しのけて、あるひとつの可能性とそれに対する疑念と驚愕とが同時に去来する。
「まさか……妖魔六将のひとり、なのか」
半信半疑で口にした白銀に、緋焔はつまらなそうに。それまでの表情を消して唾を吐く。
「双月界の奴らがつけた呼び名なんか知らねぇよ。俺の名は緋焔だ!」
言い終わらぬうち、砂に覆われた岩の地面に乗せた緋焔の両脚に力がこもった。
それを白銀が認識した時には間合いが一気に詰められている。
――しまった!
襲った衝撃は白銀を左に飛ばす。二間ほどのところで転倒はまぬかれ踏みとどまった。
緋焔の拳は白銀の脇腹――胸当ての下を狙って繰り出された。打たれた箇所がじんと熱を持ち始めている。
「痛って……なかなかやるな」
その台詞を吐いたのは緋焔だった。拳を繰り出した左下腕の中程をさすっている。
緋焔の拳が当たった瞬間。白銀は重心をずらして直撃を避ける。同時に刀の柄で緋焔の腕を打ち軌道を逸らしていたのだ。白銀が打ち飛ばされたように見えたのは均衡を崩した状態で跳んだためだった。
しかし、直撃ではないにもかかわらずのこの打撃。緋焔の拳をまともに食らっていれば骨を数本折られていただろう。
緋焔の言う通り、肩書などは関係ない。眼前にいるのはひとりの敵。
余計なことは考えず戦いに集中するのだ。
そして――。
「斃す」
短く告げた白銀のまとう空気が変わる。
その気配に、緋焔は表情を変えた。笑う。実に楽しそうに。
「そうこなくちゃあな! こちとら長年閉じ込められてたんだ。憂さ晴らしにちょっと本気で遊んでやるぜ」
緋焔の声が洞内に大きく響く。
身体の正面で自らの左手に右拳を打ちつけた。両手の間に炎が発し、拳を引いてなお紅蓮の炎は緋焔の右手に宿り続けている。
白銀は長刀を構え、間合いを保ったまま。ゆらりと右手へ数歩。
焔の妖術使い――体術に関しても相当の使い手。
暁城で見た限りでは妖術による中距離、もしくは遠距離まで攻撃可能。
ならば――。
――妖術を使われる前に仕掛ける!
予備動作なく正面から跳び込む白銀に向けて緋焔は炎の拳を振るう。斜めに炎の弧を描いて振り下ろされたそれは空を切った。
緋焔の間合いに入った瞬間に右に踏み切った白銀。回り込み身体をひるがえす勢いそのままに刀を横薙ぎに一閃する。
それは緋焔の一撃と同じく空を斬った。上に跳んで刃を避けた緋焔が繰り出す回し蹴りを白銀は見切る。かわしつつ緋焔めがけ刀を返し斬り上げた。
「ちっ――!」
緋焔の舌打ち。同時に両者の間に小さな爆発が起こる。白銀は刀の軌道を逸らされ、視界は爆発の黒煙に遮られた。
「――!」
黒煙の中に赤い閃き――!
直前まで白銀がいた空間を炎の塊が上から下へ一瞬にして通り過ぎる。炎を宿した緋焔の右拳は地面を穿った。砂と砕けた岩が周囲に舞い上がる。
砂塵の向こうに、数歩跳び退がって距離を取る白銀の姿があった。
緋焔は巻き上がった砂が降り落ちる中、地面から拳を離し立ち上がる。炎のない左手で頬を拭う。手の甲には頬から赤い色がこすれてうつっていた。
「おもしれぇ。戦い甲斐あるぜ、お前」
にやりと笑う左頬に一筋の刀傷。右腕、左足にも傷を受けているが深くはない。白銀の斬撃はあと一歩及ばず捉えることができずにいた。
「そっちこそ、思った以上にやるみたいだな」
白銀も口元に笑みを浮かべた。
ただでさえ威力を持つ緋焔の拳は、炎をまとうことで威力だけでなく射程範囲までも増している。
白銀は自身の鎧や衣服の数か所から登る焦げ付いた臭いを感じていた。それは等しく火傷を負った位置でもある。
思った以上にやる、だなどと。
白銀は胸中で己を嘲る。
緋焔の力は暁城で対峙した時以上に強く感じられる。この男が妖魔六将なのであれば、今戦っているのは伝説上の存在とも言える相手。
だとしても、退くわけにはいかない。
この男は、環姫に並ならぬ憎しみを抱き、同じ姿を持つ栞菫へ敵意を向けているのだから。
この身を賭しても、守ってみせる。
白銀は近衛隊長として共に戦ってきた愛刀『薄宵虹月』を握る手に力を込めた。
【十間・三間】一間はおよそ二メートル。緋焔とはるかたちの距離は約二十メートル。緋焔と白銀の間合いは六メートル。
【核を壊す】珠織人の心臓の中心には核と呼ばれる石がある。誕生の儀式である『珠織の儀』に用いられた結晶石がそのまま体内に宿ったもの。自己回復力を持ち生命力の高い珠織人だが、核を破壊されると即死する。
【妖魔六将】創世記に登場する魔界の将。強い力を持つ人型の妖魔で、環姫が双月界を護るため討伐し守護石へ封じた。双月界のほとんどの国で伝承上の存在と思われている。
【薄宵虹月】暁城近衛隊長に代々受け継がれる名刀。彩玻動を多く含む鋼を用いて鍛えられたもので、珠織人が用いるのに適した特性を持つ。詳細は次話で。




