壱・定期便と…… 後
窓の向こう、木々の上に見える空は夜の色に染まりつつあった。室内に吹き込む風も肌寒く感じられる。
窓を閉めようと歩み寄ったはるかは、扉を叩く音に手を止めて振り返った。
「だれ?」
「李ですぅ。失礼します~」
そっと開けられた扉から、小柄な侍女が姿を現す。
李は嬉しくて顔がほころぶのを止められない様子で側までやってくる。心なしか足取りも軽い。
手にしていた火種用の小さな蝋燭を使って、暗くなってきた室内に数か所置かれた燭台を灯して回りながら言う。
「そろそろお夕食ですよ~。今日は潮から商人さんが来てますから、きっとおいしいものがた~くさん食べられますよぉ」
「ほんとう? 楽しみだね」
はるかの返事に、李は首をかしげた。
「栞菫様。お加減はいかかですか? 具合、よろしくないです?」
「ううん。どうして?」
「えっと、最近の栞菫様はちょっと沈んでいらっしゃることが多いですぅ。お披露目があったすぐあとくらいは、とってもお元気でしたのに……」
どうして、気づいたのだろう。
気づかれないようにしていたつもりだったのに――。
無言のはるかに、李は心配そうに眉根を寄せた。
はるかは微笑みを返したつもりだったが、それも李の眼には寂しげに映る。
「あれからひと月も経つのに私、まだ記憶が戻らないから」
「……大丈夫ですよ。環姫様のご加護をいちばん授かられている『稀石姫』様ですもの。きっと元に戻りますから」
李の気遣いはとても嬉しく思う。
だがそれ以上に、はるかの心を不安が占めていた。
「みんなは私のこと……いなくなる前の栞菫のことを知っているのに、私はひと月前に出会ってからのみんなのことしかわからないんだもの」
返答に困る李に、はるかは苦しげに言葉を重ねる。
「思い出そうとしても、どうしてもできないの。李ちゃんだってずっとお世話していてくれているはずなのに、前の李ちゃんのことはなにも――」
しまった、とはるかが思った時には遅かった。
李の薄桃色の瞳から大粒の涙がこぼれ出す。
「ごめんなさい! 私……お辛いのは栞菫様のほうなのに」
「李ちゃん……」
「えへへ、顔洗ってきますねっ」
袖で涙を拭いながら李は駆け出し、扉が閉まる音の後にはるかが呟く。
「違うよ、李ちゃん」
気持ちが急いて、つい気を許している李に胸の内をそのままこぼしてしまった。
辛いのは自分だけじゃない。みんなも同じだ。李だって、近くに付き従っていた分思うところもあるだろう。
それなのに『何も思い出せない』なんて――
李を追おうと顔を上げたはるかの後頭部を、突如として鈍い打撃が襲った。
「いっ――」
悲鳴はそれ以上続けられなかった。
口を後ろからふさがれたからだ。同時に両腕は後ろ手に、手首のあたりを纏めて固めあげられている。
「静かにしろ」
振りほどこうと力を込める直前、聞こえて来たささやき声。
はるかが力を抜くと、口も両腕も解放された。同時に勢いよく振り返る。
窓の近くの飾棚に置かれた燭台の灯りに浮かび上がるその姿。はるかの笑顔が全開になる。
「秋良ちゃ――」
「大声出すなっつってんだろうが!」
抑えた声で制しながら秋良が前頭部にげんこつを落とす。
「いたい」
はるかは殴られた位置を両手で抑えるが、なお満面の笑みを浮かべている。
もしかしたら会うことはできないのではないかと、少し諦めかけていた矢先の再会だった。
浅く日焼けした肌も、少し冷たい印象を受ける釣り眼がちな眼も、口の悪さも。
記憶の中にある秋良のままであることが、はるかには嬉しかった。
秋良は部屋の中をぐるりと見まわして言った。
「ずいぶんいいご身分だな、『栞菫様』」
「あ、秋良ちゃん、私……」
会いに行こうと思ったけど行けなかったこと。
珠織人たちの大変な事情とか。
会えない間どうしていたのか。
あの大切な瑠璃色の石はどうしたのか。
本当に、はるかを金と交換したのか。
言いたいことがたくさんありすぎた。
言葉に詰まりうつむいてしまったはるかに、秋良は鋭い視線を向ける。
「これだけいい暮らししてたら、そりゃあ沙里なんぞには戻りたくなくなるよな」
「そんな……ここのみんなが、私を必要としてくれてるから――」
「お前を必要としてるだって?」
秋良は口の端を嘲笑の形にゆがめた。
「ここの奴らが必要としているのは『栞菫様』だろう?」
「みんなが、私が栞菫だって……ずっと待っててくれたって、だから!」
「みんなみんなってなぁ」
呆れたふうで首を横に振って、秋良は鳶色の瞳をまっすぐにはるかに向けた。
「周りの奴らは関係ないんだよ。お前は、自分が栞菫だって胸張って言えないんだろ?」
先ほどの李との会話を、秋良は聞いていたのだろう。
はるかはすぐに否定したかった。するべきなのだろう、と思う。
だが、できなかった。
自分のことを栞菫だと信じる――ことにしたはずだった。しかし記憶のない自分にとって、その信念を裏付けてくれるものが少なすぎる。
気持ちが、揺らぐ。
無言のままのはるかを秋良は鼻で笑った。
「珠織人がまつりあげてる栞菫様は、自分で自分が誰だかわからない。とんだ茶番だな」
はるかはうつむいたまま唇をかんだ。
とてもくやしい、のに。言い返せない。
「俺が取りに来いって言ったものもほったらかしで――」
――侵入者だ――!
窓の外、遠くから叫ぶ声が聞こえ秋良は舌打ちをした。
「せいぜい楽しく主従ごっこしてな」
懐から取り出したものを寝台の上に放ると身を翻し、秋良は音もなく窓枠に跳び乗る。いつかはるかがそうしたように、窓から見える枝へと移る。
「待って、秋良ちゃん!」
はるかが駆け寄り、窓から身を乗りだす。
兵たちの声が方々から響きはじめている。
見下ろして夜闇に眼を凝らしたが、秋良の姿を見つけることはできなかった。
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