漆・稀石姫 後
白い薄手の長衣を身に着けたはるかは、三階の広間に近い控えの間にいた。
足元には汚れないよう布が敷かれた上に、色とりどりの衣服や帯、装飾品がはるかを中心に所狭しと並べられている。
さらにその外側には人が入れそうなほど大きな衣装箱。蓋の空いた状態で五つも置かれている。
それらの間をせわしなく行き来しているのは李である。
「やっぱり葉菊のお着物のほうがいいですかねぇ~。それとも、栞菫様のおめめの色に合わせて萩かなぁ。それを言ったら菊重も捨てがたいですし~」
呟きながら、手に取った着物をはるかに当てては取り替えている。
重ねる色合わせがあるとのことだが、はるかには着物の良し悪しはわからない。李のひとりごとにさせてしまっているのが申し訳なかったが、さすがに立ったまま時間ばかりが過ぎて退屈になり始めた頃。
部屋にひとつだけある扉を叩く音。そして、扉越しに初老の女性の声がする。
「栞菫様、お召し替えは済みましたでしょうか」
「はわゎ、侍従長様!? も、もうすぐですぅ!」
はるかの代わりに李の慌てふためいた声が返事をする。
扉の向こうから帰ってきたのは一瞬の沈黙。
「まったく進んでいないのでしょう。李、皆様がお待ちです。早くなさい」
「はいぃっ!」
冷静で抑揚を抑えた侍従長の声は常々迫力があり、李は一も二もなく葉菊に決めた。
決めてしまった後は、てきぱきと着物を着せつけていく。
普段のおっとりとした李の様子からは想像できないほど鮮やかな手際である。
時折やらかしたりはするものの、侍女には向いているのかもしれない、とはるかは思う。
「あの……昨日は、ごめんね」
朝から準備に追われて言いそびれていたひとことを、はるかは告げる。李は結い上げられた髪を飾り付ける手を休めずに笑顔を返す。
「いいえぇ、栞菫様がご無事ならいいんです。お気になさらず~」
屈託のない微笑みに、心のつかえがひとつ取り除かれたはるかにも自ずと笑みが浮かぶ。
はるかは、栞菫として暁城へ残ることを決めた。
あのような話を聞かされてしまっては、珠織人を見捨てて城を出ることなどできるはずがなかった。
元より城を出た後は戻るつもりであったとしても――。
――今、沙里に行かれたなら……栞菫様はここへは戻られますまい。
沙里に戻った先に、何が待っているのか。秋良と? それとも、あの老人が?
予言のような泡雲の言葉を押し切ってまで、沙里へ向かうことはできなかった。
――他人の言葉に左右されるな。信じられるのは自分だけだ。
秋良に出逢ったばかりの頃、よく言われていた言葉を思い出す。
改めて、秋良は心の強い人なのだと実感する。
「さ。できましたよ~」
李に後ろから押し出され、考えに沈んでいたはるかは少しよろけて前に出る。
眼前に置かれた姿見の鏡に映された人物を見、思わず李を振り返る。不思議そうなはるかの表情に、李も不思議そうに首をかしげる。
「どうなさいました?」
「ここに写ってるの、本当に私?」
「あたりまえですよぉ。なに言ってるんですかぁ、栞菫様」
冗談を言っていると思ったのか、李はころころと笑っている。
はるかはもう一度、鏡の中にいる自分をまじまじと見つめた。
重ねた白色の薄衣の下から、群青のしっかりとした重みのある長衣の色が透けている。
腰には瞳の色に合わせた菫色の帯を花が咲くような形に結んでおり、結び目には先に小さな鈴のついた帯飾りがあしらわれていた。
いくつもの珠を通した紐で高く結い上げて流した髪。結元は髪を緩く巻き付けてあり、揺れる飾りが下がった紫水晶の簪で飾られている。
沙里にいた頃は髪はいつも洗いざらしで下したまま。着物はもちろん、このように聞かざることなど一度もなかった。まるで別人としか思えない。
「栞菫様、お時間がありませんから急ぎましょう!」
李に鏡から引きはがされて、はるかは部屋の外に出る。手を引かれ小走りに近い早歩きで広間の前にたどり着く。
「走ってはいません、侍従長様!」
いつも慌てて城内を駆けまわっては怒られている李が先手を打って申告する。
そんな李に気を留める間も惜しんで、侍従長ははるかの姿を上から下まで一目に確かめた。李の仕事ぶりに納得したのか小さくうなずく。
「栞菫様、李ともうひとり、この子がお供いたします」
脇に控えていた碧色の髪を持つ侍女が楚々と一礼した。
侍従長は少し柔らかな声色ではるかに告げる。
「扉が開きましたら、見晴台までゆっくり、まっすぐ歩くだけでございます。大丈夫ですね?」
「ゆっくり、まっすぐ。……はい」
はるかの返事を受けて、侍従長は脇に控えながら番兵に眼で合図した。
広間の大きな扉がゆっくりと開かれていく。
奥に見える見晴台から扉までの間、十間近く。赤い敷物で設けられた道の両脇には、城内の重鎮と近衛兵たちを筆頭に城勤めの者たちが整然と並んでいる。
予定の時間を過ぎており少しざわめき始めていた場は水を打ったように静かになった。
開かれた扉から、ゆっくりと歩み出す少女。一歩遅れて、ふたりの侍女が付き従う。
ゆったりとした袖のぞく細い指は、床に着きそうな長さの裾を軽く持ち上げている。背中で揺れる金茶の毛先の下、衣に描かれた陽昇国の紋章が見え隠れする。
まっすぐに前方を見据える紫水晶の瞳。凛としたその表情。
この暁城に、稀石姫が戻ってきたのである。
列の間から、栞菫の無事を祝う声、そのことを感謝する声やすすり泣きが小さく聞こえ始める。
しかし、当のはるかにはまったく届いていなかった。
広間に集った人数を目の当たりにしたとたん頭が真っ白になったのだ。それでも、緊張に固まった表情で一応前には進みつつ、
「まっすぐ……ゆっくり……まっすぐ……」
呪文のようにふたつの言葉を繰り返していた。
やがて見晴らし台の手前で三長老が待ち受けており、はるかは足を止めた。後ろで、侍女のふたりは膝をついてその場に控える。
三長老のいる位置の少し手前、列の中に翠と白銀の姿があるのにはるかは気づいた。見知った顔ぶれに少しだけ緊張がやわらいだはるかに、三長老は深々と頭を下げた。
「栞菫様、よくぞお戻りになられました」
「われら珠織人、国をあげてお待ち申しておりました」
「さぁ、民にもお姿を」
三長老は脇に控え道を譲る。見晴台の奥に、良く晴れた空が見えた。
はるかは恐る恐る歩を進めていく。
円形にせりだした見晴台を縁取る白い石造りの柵。その向こうに、先日抜け出した時に歩いた道が見えた。
歩を進めるにつれてより近い位置が見えてくる。城門を出てすぐそこにある朱塗りの門柱が見えたとき。
予期していなかった足元からの歓声に、はるかの心臓が跳ね上がった。
柵に両手を置いて見下ろすと、城門から門柱までの白い石畳を埋め尽くすほどの珠織人が集まっていた。
皆口々に言葉を発し、泣き、互いに抱き合っている者たちもいる。
言葉の詳細までは聞き取れなくとも、その想いはひとつの大きなうねりとなってはるかの身体の中へ流れ込くるのを感じた。
これが彩玻動なのだろう。
とても暖かく、やさしいそれは、稀石姫を敬い慕う珠織人の想い。
「栞菫様?」
三長老のひとり、朧が気づかわしげに声をかける。
はるかはいつしか閉じていた瞳を開いた。滴がひとつ、頬を伝う。
私は、ひとりじゃないんだ――。
後ろを振り向くと、広間に並ぶ者たちからも同じ玻動が流れ込んでくる。
もう一度前を向き柵を掴む両手に力を込めると、大きく息を吸い込む。
「私は――以前の記憶がありません」
栞菫の声が響き、歓声がしんと治まる。直後、戸惑いを含んだざわめきが起こった。
「でも、必ず思い出します。みんなのために!」
再び歓声が巻き起こる。
このとき、はるかの胸に迷いはなかった。
自分を、栞菫であると信じることに決めたのだ。自らを信じてくれる者たちのために。
【重ねる色合わせ】着物を合わせる時の色の組み合わせ。葉菊は紺青の上に白。萩は白の上に紫。菊重は紫の上に白。




