漆・稀石姫 前
はるかは泡雲に連れられるまま正門から城内へと戻っていた。
門を抜けてすぐ、両脇に備わった大きな階段の中央に位置する扉を抜け、廊下を進む。
泡雲も、その背中を追うはるかも無言だった。
本当は泡雲に尋ねたかった。どこに向かっているのか、どのような用事なのか。
しかし勝手に抜け出したことをとがめられるのではないかという不安が、言葉にするのをためらわせていた。
いくつめかの角を曲がったところで泡雲は足を止めた。
来た方向以外の三方を壁に囲まれ、窓ひとつない袋小路。床の両隅に置かれた青白い明かりに照らされ、突き当りの壁に陽昇国の紋章が浮き彫りになっているのが見える。
その紋章に、泡雲が触れた。
紋章を抱く壁の四辺に光が走り、壁は音もなく昇り天井へ吸い込まれていく。
驚くはるかと同じく、目の前には下りの階段がぽっかりと口を開けている。
廊下と同じ幅で続く先は暗い。城内の磨かれた白石と対照的な、硬く黒い岩を削りだした壁。中へ踏み入ると冷たく湿った空気も相まって洞窟のように感じられた。
はるかは泡雲を追ってごつごつとした岩肌の上を進む。と、背後から差していた光が消えていく。
振り返ると天井から壁がゆっくりと降りていくのが見えた。
廊下からの光は閉ざされたが、洞窟の中は完全な闇ではない。青白く光る小さな石が等間隔に埋め込まれ、黒岩の階段を浮かび上がらせている。
はるかは身をかがめ、光る石におそるおそる指を近づける。
熱くない。
炎のように熱を持っているかと思ったのだが、石そのものの冷たさを指先に感じていた。
「それは蛍石と呼ばれております」
泡雲の声は、聞くと心がさわめく不思議な声色だ。洞窟内の反響がそれをより強く感じさせる。
「闇夜にあると蛍のように見えますので、そのように名付けられたとか。創世の頃よりあるとされている石ですが、今では採れる量も減り、城内の灯りも蝋燭に頼っております」
はるかは石をそっとなでてみる。青白い光は柔らかくほのかでありながら確かに闇を退けていた。蒼月の光に似ている、とはるかは思う。
「どうして光っているの?」
「その石がそうあるように、定められてこの世に生まれ出でたためです」
「さだめ?」
はるかが泡雲を振り仰ぐと、すぐ後ろから声が聞こえていたはずなのに姿がない。
「さあ、階段を抜ければすぐですぞ」
いつの間にか数歩先に歩き出していた泡雲が背中越しに言う。
はるかは慌てて立ち上がり、小走りに追いついた。
どのくらい長く下りただろう。
階段の向こうに開けたのは、呉羽の肖像が飾られている月影の間より二回りも大きいその空間。ずっと高い位置にある天井から黒い岩肌が曲線を描いて壁まで続いている。
その様子に、はるかは見覚えがあった。
「ここって……」
「はい。栞菫様を最初にお連れしたのがここでございます」
ふたりの声は洞窟の中へ響き広がる。
なによりはるかが驚いたのは天井が星空のように瞬いていることだった。
あの時は意識がはっきりしておらず気づかなかった。
光を吸い込む黒い色をした岩肌の夜闇。そこにちりばめられた青白い光の明滅は、蛍石によるものだった。
その輝きに呼応するように、いや、蛍石の方が呼応しているのだろう。そう思わせるほどの存在感。
洞窟の一番奥にあるそれが放つ白い光は緩やかに明滅し、洞窟内を照らしている。
吸い寄せられるように、はるかは光の元へ歩み寄っていく。
光を放っているのは少女の像だった。
城と同じ白い艶のある石で、はるかの倍くらいの大きさに作られている。
見上げると彼女の背中には、自らの身体を護るように広げられた二対の大きな翼があった。
大地に両膝をつき、こちらへ両手を差し出している。
それを慈愛の眼で見つめる少女の顔は――。
「わ、私?」
背中まで流した髪、大きな瞳や柔和な笑みを浮かべる口元。
印象は異なるものの、その顔立ちはまさしくはるか、いや栞菫そのものだった。
「天地守護・環姫様のお姿です」
はるかに追いついた泡雲が環姫の像にうやうやしく礼をする。
「環姫様のお手元にある石は『結晶石』。我ら珠織人の命の源でございます」
「命の?」
ちょうどはるかの目線の位置にある手のひらに置かれているのは、無数の原石だった。
親指の先ほどの大きさで様々な形をしている。
「結晶石はその名のとおり、彩玻動が結晶化したもの。年に一度、この環姫様のお手の中で結晶となる。我々は聖のみに受け継がれる『珠織の儀』により、結晶石を核としてこの世に生を授かるのです」
「石から、人が……?」
振り向いたはるかに、泡雲は静かにうなずいて見せた。そこにほんのわずか、寂しげな色が宿るのをはるかは見逃さなかった。
「ごめんなさい。みんなにとっては当然のことなのに」
「どうかお気に召されますな。今の栞菫様にはすべてが新鮮に聞こえるでしょう」
元気づけるように笑顔を見せた泡雲は、ゆっくりと環姫の像へ歩み寄る。
「他の種族と違い、我らの寿命は定められております。誕生からちょうど三百年で天寿を全うするのです。珠織の儀は年に一度行われるゆえ、本来ならば珠織人の数は増えも減りもいたしません」
それが太平の世であれば。
かつての魔竜の乱で、兵として赴いた珠織人はその半数以上が戦いに散った。
それから後、今日までに天命の日を迎えた者たちもまた然り。
「あの時から、珠織の儀は途絶えたままでございます」
一年に一度の儀式。三百年後の、誕生した日に絶える命。
この手に抱かれている、命の素である無数の結晶石。
はるかは、はっと息をのむ。
聖を受け継いだ栞菫が行方知れずになっている百二十年の間、生み出されるはずの命は環姫の手の中でその時を待ち続けていたのだ。
それは同時にあるひとつのことをも示している。
はるかの考えを肯定するように、見えぬ双眸を閉じた泡雲の顔に影が差す。
「我らの数は今や減る一方。珠織の儀をおこなえるのは双月界にただひとり。栞菫様を失っては我ら珠織人はやがて絶えてしまうでしょう」
はるかにその言葉の重みが苦しいほどにのしかかる。
泡雲はただただ穏やかに告げる。
「今、沙里に行かれたなら……栞菫様はここへは戻られますまい」
「そんなこと……!」
勝手に城を抜け出そうとはしたが、秋良に会って話したら、戻るつもりだった。
しかし泡雲は笑みを浮かべて首を横に振った。
「眼が見えぬぶん、不思議と違うものを見ることができるのです。この泡雲には、沙里への道の先に栞菫様が戻らぬということだけはわかりまする」
「先のことがわかるの?」
「さぁ、今のことか先のことか、はたまた過去のことか。わしにも明確にはわかりませぬ。この見えぬ眼にそれが映るときは、いつもあいまいな光景のみ。そこから思い当たることをお伝えしているまででございます」
泡雲は環姫に生き写しの少女を、その見えぬ眼で自らのまぶた越しに見つめた。
「千年に一度、ここに『稀石』と呼ばれる結晶石が生み出されます。稀石から生まれいずるは環姫様の現身。そう、栞菫様がまさしく『稀石姫』。我らの希望にございます」
「きせきのひめ……」
「我らはみな、栞菫様を大切に思っております。翠が少々無茶をしたのも、我々珠織人を思えばこそ」
「栞菫様ぁー!!」
耳をつんざく甲高い声が、洞窟に増幅されて泡雲の声を遮った。
足音を立てて階段を駆け下りてきたのは李である。全速力ではるかの前まで走ってきた。
「これ李、なんと騒々しい」
たしなめる泡雲の声も聞こえていないのか、李は両ひざに手を当てて苦しそうに呼吸を繰り返しながらこう返した。
「白銀様に……ここじゃ、ないか……って、お聞き、して……もおっ、心配したんですからぁ!」
最後に一言叫んで李はへたり込んだ。
ずっと走って探し回ってくれていたのだろうか。はるかは今更ながらに騙してしまった後悔の念で胸が痛んだ。
「ごめんね、李ちゃん。私」
「わしが連れ出しておったのだ。迷惑をかけたな」
はるかの言葉を泡雲が遮った。振り返るはるかに、泡雲は申し訳なさそうに微笑む。
「わしも翠のことを責められぬ。このように話してしまえば、栞菫様が辛い思いをされるとわかっていながら」
「ううん」
きっぱりと、しかし明るい声で。今度ははるかが泡雲の言葉を遮った。
「珠織人にとってたいせつなことだもの。話してくれてありがとう」
環姫の像から発せられる白光に明るむ紫水晶の瞳が、積まれた結晶石を見つめる。
自らの不安を握りつぶすように、小さな両手を拳に固める。はるかの瞳にもまた、固められた決意が映されていた。
【環姫の像】暁城の地下、国内で最も彩玻動の強い洞窟内にある。城の歴史書には、建城よりも前にこの洞窟と像が造られたとある。
【結晶石】彩玻動の結晶。貴石の原石に似た形状をしている。髪、瞳の色に影響するが、老化と共に退色していく傾向にある。
【珠織の儀】珠織人の長『聖』に受継がれる秘儀。生まれた赤子は、託宣により選ばれた夫婦に託される。
【おまけ】珠織人の結晶石はそれぞれイメージがあって書いてます。『栞菫=アメトリン』『李=ローズクォーツ』『白銀=プラチナルチル』などです。




