碌・はるかの作戦 前
翌朝。目覚めて非常に体調の良いはるかの様子に、朝食を用意し終えた李はすぐに部屋を出ていった。
はるかが食事を終える頃、李は戻ってきた。見覚えある三人の老人に付き従うようにして。
『三長老』と紹介された彼らは、白を基調とした陽昇国の儀服を纏っている。足元までの長さがあるそれは、各々異なる色の意匠で装飾されていた。
長い白髪を頭の上で丸くまとめ、藍鼠色の装飾をまとった者が時雨。
顎鬚を長く伸ばした、梔子色の者が朧。
灰色の髪を後ろで束ね眼を閉じている、柳色の者が泡雲。
はるかは、薄黄のゆったりとした長衣に若草色の帯を合わせた姿で寝台に腰かけて彼らを迎えていた。
彼らが体調について質問したり身体に手をかざしたりするのに対し、はるかは言われるままに従う。
やがて朧が長い髭をなでながら難しい顔で呟いた。
「ううむ、やはり今ひとつ彩玻動が弱いのう」
「あの得体の知れぬ光にお姿を隠されてから百二十余年じゃ。無理もなかろう。お身体はとてもお元気そうじゃ」
朧をなだめたのは時雨だった。言いながら時雨が向けた視線を朧が追い大きくうなずく。
「なるほど、確かにの」
ふたりの視線の先を追って、はるかは少しだけ後悔した。
部屋の中央に置かれた丸い木製の卓で、李がはるかの平らげた朝食の食器を片付けている。釜で炊いたという米のおいしさに箸が止まらず、釜はすっかり空になっていた。
しかし後悔は本当に少しだけ。美味い米をたらふく食べたことには、この上なく満足している。
「今日あたり、良いのではないか?」
「そうじゃな。後は栞菫様次第じゃ」
朧と時雨の会話を不思議そうに見上げるはるかに、朧は髭の下に笑みを作った。
「皆の前にお出ましくださらんか。栞菫様の元気なお姿を心待ちにしておる」
「皆、というと……」
「城内、城下の者、我々珠織人すべてでございます」
「えっ、そ、そんな」
はるかは動揺を隠せず、眼前の朧と時雨を交互に見た。
自身が栞菫であると信じきれない。この状態で大勢の前に立つなどと。
「むっ無理です私! 絶対無理!」
千切れそうなほど首を横に振るはるかに、朧と時雨の方が慌ててしまう。
それまで下がった位置で黙していた泡雲が、閉じたまま見えぬ眼をはるかに向けて言った。
「気負うことはありません。お姿を見せていただくだけで良いのです。百年以上もの間、皆不安に過ごしてまいりました。どうかそれを取り除いていただけますよう」
両膝をついて礼をする泡雲に、朧と時雨も示し合わせることなく同時に膝をつく。
そこを言われると何とかしてあげたい気持ちに駆られる。
思わず胸元に手をやったが、瑠璃色の石はない。連鎖的に秋良の顔が浮かんでしまう。
はるかは衣服の胸元をきゅっと掴んだ。
「わ、わかりました。でも! 一日だけ、待ってもらえますか?」
「おお! ありがたい」
三長老は深々と頭を垂れると、退出の意を示し立ち上がる。
「今日はごゆるりとお過ごしくだされ」
「早速皆に触れを出さねば」
「忙しくなるのぉ」
長老たちを見送った李が扉を閉めると、広い室内はしんと静まり返った。
意気消沈している様子のはるかに李が歩み寄る。
「栞菫様、どうなさいました? やっぱり、食べ過ぎました?」
李の言葉に追い打ちをかけられた気分だったが、はるかは黙って首を横に振った。
自分は本当に栞菫なのかという疑問もあるが、もうひとつ。
胸が痛むから極力考えないようにしていた、ずっと心にわだかまっている思い。秋良と、大切な石のことである。
――栞菫様の身柄と引き換えに、五十金とその石を渡しています
あのとき聞かされた翠の言葉。
――その石も売っちまえって
瑠璃色の石を欲しがっていた秋良。
――はるか……とにかく逃げろ
炎狗に深手を負わされながら助けようとしてくれた秋良。
いったいどれが真実なのか。
確かなのは、大切なあの石が手元にないことだけだった。
「――様、かすみさまぁ!」
「わぁっ!?」
いきなり耳元で聞こえた大声に驚き振り向くと、李がすぐ近くにいた。
「え? な、なに?」
「もぉ~、李はさっきから呼んでましたのに。おなかいっぱいでおねむなんですかぁ?」
呆れたような怒ったような口調だが、その表情は考えに沈んでいた主から返事があったことへの安堵が見てとれた。
そんな李に、思いついてしまった『それ』を口に出すのがためらわれる。
息を吸い込んで意を決する。
はるかは、傍らに立つ李に告げた。
「李ちゃん。お願いがあるんだけど、いいかな」
「わぁい、李とおそろいですねぇ~」
李は胸の前で両手を合わせて満面の笑みを浮かべた。
薄桃色と白の重ね。ゆったりとした袖のたもとには昇陽と二対の翼を模った赤い紋章が刺繍されていた。紅色袴の足元には革と紐で作られた質素な履物。
背中まである髪は後頭部にまとめ上げられている。
寝台の横に置かれた姿見の鏡には、暁城の侍女服をまとったはるかが映っている。
仕上げにと、李ははるかの左耳の上に赤い紐を梅結びにした髪飾りを挿した。
「とってもお似合いですぅ。李もこの侍女服に憧れて侍女になったんですよ~。あっ、でもでも。一番の理由は栞菫様への憧れですからね!」
李は嬉しくて仕方ないらしく、終始頬を緩ませっぱなしである。
侍女服を着たい、と言った時に理由を聞かれてとっさに「かわいいと思って」と言ったはるかだったが、李は激しく同意してすぐに支度をしてくれたのだ。
はるかは窓際まで歩いた。裾もたもとも長い栞菫の服よりも動きやすい。
「いいね、この服」
言いながら、着替えのために閉められていた鎧戸と共に窓を開け放つ。室内に明るい光と、草木の香りを運ぶ風が入り込む。
窓の先には立派に枝を張り出した大樹がある。やや低い位置にある太い枝までの距離は一間半。さらにその下、周囲に人はいない。
はるかは李を振り返らず――いや、振り返ることができぬまま言った。
「私、喉が渇いちゃった」
「じゃあ、お茶をお持ちしますね。ちょうどおやつの時間ですし、お菓子もご一緒に」
李の軽快な足音が遠ざかる。背後で、扉の閉まる音。
はるかは寝台にとびつき枕を取ると、巻いてある白い布を剥がし懐に入れる。寝台越しに見える両開きの扉に向かって小さくつぶやく。
「ごめんね、李ちゃん」
はるかは窓枠に両手を、次いで右足をかけて身体を持ち上げる。枝めがけて踏み切った身体は軽やかに宙を舞う。
降り立った枝から無人の室内を振り返ると、二階と同じ高さにあるその枝から地面へと跳び下りた。
【三長老】珠織人の長である聖の補佐を務める役職。代々、城内の役職を引退する者の中から特に優れた者が選ばれている。
【一間半】はるかが窓から枝に跳び移った距離。一間は約2メートルなのでおよそ3メートル。
【侍女服】暁城に勤める侍女が着ている衣服。薄桃色の着物の色が、上に重ねた白薄衣に透けている。袖に紐が通されており、絞ることでたすきが無くても簡単に袖を上げられる仕様。ちなみに侍従服は青藤色に白重ね、紺袴。




