肆・面影 後
顔を上げた白銀と眼が合い、はるかは慌てて言う。
「ありがとう。支えてくれていなかったら、そのまま倒れてた……ところ、でした」
以前見た光景が脳裏に浮かび始めたとたん、視界がそれとすり替わってしまっていた。
現実の自分がいつ重心を崩していたのかすら全く気付けていなかったのだ。
「臣下として当然のことをしたまでです、姫」
「え、あ、えっと……」
白銀に『姫』と言われてしまうと『それらしく応えねば』と思ってしまう。
しかし見合った返答がまったく思いつかず、はるかは頭の中が真っ白になっていた。
「く……あはははっ」
突然可笑しそうに笑い声をあげる白銀に、はるかは大きな瞳をさらに大きくして彼を見つめた。
「そういうお前も新鮮だな。いや、困らせるつもりじゃなかったんだ」
言って白銀は凛々しい近衛隊長の顔を崩し立ち上がる。少年の無邪気さを感じさせる笑顔に、はるかも表情を和らげた。
「それにしても……」
白銀は改めてはるかの姿を上から下まで見て言った。
「病み上がりの身体でこんな夜中に、しかも裸足で……ひとりで出歩くのは感心しないな」
苦笑交じりに言われて、はるかも初めて気が付いた。
暁城に連れられてから、部屋の外には出たことがなかった。それなのになぜ、この場所に迷わず来ることができたのか。
来る、ことができた。
もしかしたら、初めからここに来ることが目的で部屋を抜け出したのかもしれない。
はるかは背後を振り返った。
大きな金縁の額に、腰から上を描いた肖像画。精緻に描かれた人物は、青年のようにも壮年のようにも、柔和にも厳格にも感じられた。
はるかの中に記憶が眠っているのだとしたら、彼を知る栞菫の想いがそう感じさせているのだろうか。
「きっと、この人に会いに……」
「この御方は呉羽様だ。先代の聖だった――栞菫の父君だよ」
背後から白銀の声が静かに告げた。
聖――珠織人の長だった、父。
そんな大切な人のことすら覚えていないということに、はるかは胸が締め付けられる。
同時に脳裏をよぎる赤い光景。
思わず夜着の胸のあたりを両手で強く掴み、おそるおそる白銀を振り返り尋ねる。
「今、は?」
答えを聞く前に、わかってしまった。
はるかの視線をまっすぐに受け止めた青銀色の瞳には、隠しきれない辛苦の色が浮かんでいた。
「百二十前の戦乱中に、敵将の槍で――」
やはり、あの幻の中で見たものは過去の記憶なのか。
「栞菫が行方知れずになったのも、あの『魔竜の乱』の時だった」
「そう……」
そうだったんだ、と言いかけて、はるかははたと気づき伏せかけていた視線を白銀に戻した。
「わ、私いくつなの?」
「今年で百七十二歳だ」
「ひゃく!?」
「我々珠織人は寿命が三百年だからな。聖を継いだ者は五百年を生きる」
はるかは口を開けたまま眼を白黒させる。
出会った頃の秋良が、はるかの年齢について十代後半ではないかと言っていた。沙里に住む周りの人たちと見比べて、そうなのだろうとばかり思っていた。
珠織人は十五歳を迎えるまでは順当に年を重ねていく。そこから身体の変化が緩やかになり最盛期の状態で二百五十年を経て、残りの五十年はまた順当に老いていくのだという。
白銀から聞かされたそれも、栞菫であれば当然の知識として心得ていたことなのだろう。
何も知らず思い出せもしない自分がもどかしかった。
開いていた口をきゅっと結び、はるかは紫水晶の瞳でまっすぐ白銀を見つめて言う。
「お願い、その『魔竜の乱』の時のこと。呉羽、様と栞菫のこと、私に聞かせて?」
なにか少しでも思い出すことができれば……いや、思い出すために、行動しなくては。
白銀は、はるかの姿を見つめ返していた。
話すことにためらいを感じているように、はるかには見て取れた。先ほどの様子から察するに白銀にとっても良い記憶とは言えないのだろう。
それでも栞菫の記憶を取り戻す足がかりになるのであれば――。
すがる思いで、はるかは白銀を見つめた。
わずかだけ眼を閉じた白銀が再びはるかを見つめ返した時、彼は小さく笑みを浮かべた。
「わかった。少し長くなってしまうだろうから、そこに座って」
「えっ、でも……」
「いいから。もともとお前の座るべき場所なんだ」
白銀は玉座へ座るよう促す。
はるかはためらいながらも段をふたつ上がり、肖像画の前に置かれた玉座に浅く腰かけ両手を膝の上に乗せた。
それを見届けてから、白銀は腰の刀を外し床の上に腰を下ろすと右側へ刀を置く。
「そうだな、『魔竜の乱』か」
白銀は額に降りかかった髪を押さえ上げるように、額に手を当てた。
話して良いものか、心配なのは今の栞菫の体調だ。
かつて大切な人を失って受けた悲しみを、改めて与えることになりはしないか。
失っている記憶を無理に取り戻そうとすることは、彼女の心に負荷を与えることになるのではないか。
白銀は視線を上げて高座にいる少女を見上げた。
栞菫と初めて会ったのは、まだ子供の頃のことだった。
近衛隊長を務めていた父に連れられて、初めて城内を訪れた時。部下に呼ばれた父が場を離れ、ひとりになった白銀は城の裏庭で栞菫と出会った。
十四歳になろうとしていた白銀よりも栞菫は小さく、まだ十歳に満たない子供だった。
纏った衣服が汚れるのもいとわず草の上に座り込み、遊んでいるのかと思い声をかけた。
その時、彼女は庭の花や巣をつくる蟻を見て言ったのだ。
『かつて環姫様が封じたとされる魔界の瘴気は、こうした植物や生き物さえも妖魔に変えてしまうと聞きました。私たち珠織人は、環姫様の意志を継いで双月界を正しい姿に保つためにあるのだと』
そうしてこちらを見上げた栞菫は、幼いながらも輝石姫としての崇高な決意に満ちていた。
『あなたは白銀でしょう? お父様から聞いています。近衛隊長を継ぐであろうあなたに恥じない珠織人に、私もならなくては』
彼女の姿だけではなく、小さな身体に秘められたその意志と信念を、白銀は美しいと思った。
その時まで白銀の中で漠然としていた将来も、彼女の言葉に確固たるものとなったのだ。
『だから白銀、私とお友達になってもらえますか?』
いつでも支え合い、お互いを高め合う友人にと。
そう言って、花のつぼみが開くように笑った栞菫は年相応のあどけなさを白銀に見せた。
父がその日城へ連れ出したのも、同年代の子供と城内で接することが少ない栞菫を心配した呉羽の配慮によるものだったと、白銀は後で知った。
十五歳になると白銀は兵として城勤めをするようになった。栞菫と約束した通り近衛隊長となった後も、白銀は任務を離れた場所では友人として接してきたのだ。
無私無欲な栞菫の姿は『魔竜の乱』の最中、珠織人のみならず各国の民から『癒しの姫』と多くの信頼と期待を集めていた。
元より『稀石姫』は珠織人にとって希望の象徴である。
生まれながらにその宿命を負った栞菫は、いついかなる時も皆の望む姿であるよう己を律していた。
白銀が初めて出会ったあの時から、ずっと。
そうして彼女を近くで見守ってきたからこそ。ひとつの可能性として、白銀は思う。
記憶を失っているのは、彼女が抱えていたものがあまりにも大きすぎたからではないのか。
かつて座していたのと同じ玉座に座る彼女は、当時の強さは感じられない。
荒野にただひとつ咲く花の、強風に煽られれば折れてしまいそうな儚さがあった。
心細そうに、じっと白銀が話すのを待っている。
「『魔竜の乱』が起こったのは、今から百二十年前のことだ」
白銀は記憶の糸をたどりながらゆっくりと話し始めた。
【聖】『栞菫・前』でさらっと触れていましたが、珠織人を束ねる国王に当たる位。聖とは位であると同時に長として必要な能力を継承した証でもある。
珠織人の歴史の中ではこれまで世襲となることが多かったが、基本的には総合能力で秀でた者が継承する。
詳細についてはまた先の物語で。
【瘴気】魔界に満ちているもの。双月界の生物には害となり、暁城内の蔵書には、強く影響されたものは妖魔と化したと記されている。




