肆・面影 前
眼が覚めたはるかは、寝台から上体を起こした。
室内は暗い。大きな窓から差し込む月明かりが部屋の中を蒼く染めている。
今日は蒼月が出ているのだろう。紺色の濃淡だけで描かれたような空と木々が窓越しに見えた。
ここへ連れられてから、幾日経ったのだろう。
眠りと覚醒を繰り返している上に、長い時は一日眠ったままの時もあると李から聞いた。
それすらも何日前のことだったか定かではない。
はるかは寝台から降りる。裸足のまま白い石床に立つと、足の裏にひんやりと硬い感触が感じられた。
前に目覚めた時とは違う薄浅黄色の夜着を着せられていることに気がつく。寝ている間に李が着せ替えてくれているのだろう。
恐る恐る、一歩を踏み出す。足首まである長い裾が動きに合わせて揺れる。
たくさん寝たからだろうか。あれほど重かった身体が、以前と変わらず動かせるまで回復していた。
部屋の入口にある両開きの大きな扉を少しだけ開け、隙間から廊下へ滑り出る。
左は行き止まり。右へ向けて歩き出す。
石造りの廊下は四人並んで歩けるほど広く、天井付近の壁に備えられている燭台に灯りは灯されていなかった。
廊下に等間隔に設けられた格子窓から、白い石造りの廊下に斜めに差し込む青い光。その月明かりだけが行く手を照らしている。
美しい月明かりのためにあえて灯りを消しているのではないかとさえ思えた。
途中横に伸びる廊下があったが、そちらへ行く気にはならずまっすぐ通り抜けていく。
廊下の先に屋根のない開けた空間が見え、はるかは思わず足を速めた。
空間を囲う石柵に手をかけて身を乗り出す。
「すごい……こんなに立派な庭」
白い玉砂利が小路を描くその庭は、空から注ぐ月光を浴びて蒼く輝いて見えた。
時折吹き込む優しい風が枝葉をくすぐり心地良い音を立てる。
ふと思い当たり、はるかは背面にある廊下の格子窓の向こうを振り返った。
部屋で見た窓越しの景色同様、立派な枝ぶりの木々の葉が窓と同じ高さに揺れている。間違いなくここは二階だ。
この庭は、わざわざ外から土と植物を運んで造られたのだ。
「秋良ちゃんにも見せてあげたいな」
秋良は気のないようなそぶりを見せていたが、植物が好きなのだろう。
沙里の家には裏路地の高い塀に囲まれた小さな裏庭があった。
この城の中庭は美しく感銘を受けた。だが手入れの行き届いた秋良の庭が持つ素朴な雰囲気が、はるかは好きだった。
胸が小さく痛む感覚を覚え、はるかは振り切るように歩き出す。
迷うことなく進んだ廊下の先に現れたのは、広い空間と大きな両開きの扉だった。
自身がいた部屋の扉ですら大きく感じていたのに、ここの磨いた白い石で作られた扉は高さも幅も倍はある。
対の扉一面に大きな紋章が彫り込まれていた。菱形に模られた鉱石の上に昇る太陽を、二対となる四枚の羽が抱える陽昇国の紋章だ。
そう、これは陽昇国の紋章なのだ。
今まで眼にしていた時には気づけなかったが、今のはるかにはそれが理解できた。
紋章を見上げながら、無意識に手が扉の合わせ目に触れる。
「――!」
指先が触れたその場所にほのかな白い光が生まれた。
光は一瞬にして上下に伸びる。天井と床に達したそれは左右に分かれ、扉との隙間を走った。
光が行き渡ると同時に重厚な石の扉は奥へ開き始めた。
はるかは扉が開き切るのを待たず隙間から中へ滑り込む。
奥の部屋は扉から想像していた通りの広い空間だった。扉と同じく艶やかに磨かれた白い石の天井と床。扉から奥へと誘導するように整然と二列に並ぶ柱。
柱列に挟まれた空間だけが青白い光に照らされ、一筋の道をつくりだしていた。
「わぁ……」
思わず発した声は広い空間に反響する。
光の元を追って天井を振り仰ぐ。柱列の天井部分に沿って配された天窓の向こうに、青褐色の空に浮かぶ蒼月が見えた。
降り注ぐ月光の道を、はるかは進む。
行き着く先は月長石を彫り込んで作られた玉座だ。流線形の模様が彫り込まれ、輝かしい宝石が無数にあしらわれたその美しさよりも、はるかの眼を奪ったものがあった。
玉座の奥に、一人の青年がたたずんでいる。
白い肌をより引き立たせる髪の色は、今日の夜空のごとき青褐色。長い髪は後ろに高く束ねて背に流されている。
夜空が星明かりで和らいだような瑠璃色の瞳。そこに確固たる意志と、未来を見据える希望が込められているのを、はるかは知っていた。
慈愛に満ちた眼差しに引き寄せられるように、あと数歩のところまで歩み寄り。
彼が壁に掛けられた絵の中にいるのだということにようやく気がつく。
「この、人……」
はるかが『知っている』のではない。知っているのは、きっと栞菫だ。
はるかが見たのは、あの炎狗との戦いで見た光景の中での彼の姿だった。
あの時、傷を負った秋良が炎狗の前に立ちふさがった時。
秋良の身体から流れ出す血の赤を見た時――
赤――赤い血溜まり。
その中に、自分と――その人
その人の胸には、深々と――槍が――
「危ない!」
不意に、側で聞こえた男の声。
いつしか視界を塞いでいた赤は空気に溶けだして消えた。
代わりに眼の前に現れたのは青銀色の瞳の青年だった。
「あ……あれ?」
彼の驚いた表情がさかさまに見えるのが不思議で、思わず声が出た。
しかしそれは背中側に倒れ込んだはるかを、彼が後ろから受け止めてくれていたからだった。
「大丈夫か?」
「平気……です」
はるかは助け起こされながら答えた。
そう言ったものの、自分の状態が平気と言ってしまっていいものなのかどうか。
そんなはるかの不安が表情に現れてはいたが、顔の血色は身体が後方に傾いだ直後よりは回復している。
青年は安堵から小さな息をつくと、片膝を床に落としうやうやしく礼をする。
「この白銀、栞菫様へのお目通りが叶い光栄に存じます」
名を聞いて、はるかは白銀の姿をまじまじと見つめた。
銀色の髪と瞳。髪よりも青味を帯びた瞳は、蒼月の光を受けてよりその深みを増して見えた。
赤い国章を左胸に掲げた白い革製の胸当てと、腰には立派な装飾の鞘に収められた刀を佩いている。
彼が暁城の近衛隊長であり、栞菫の親友なのだ。
【月長石】ムーンストーンと呼ばれる鉱石。現在出回っている宝石やパワーストーンはホワイトラブラドライト、またはペリステライトと呼ばれるものでキラッとした輝きがあるが、本来のムーンストーンは乳白色の中に柔らかなほんわりとした光が浮かぶ。
まだ語れますが自重します。
【佩く(は-く)】刀の装備方法。『差す』のではなく、鞘に結んだ紐を使って腰(帯など)に提げること。




