参・旧友
翠は二階にある栞菫の部屋を後にし、中庭に面した廊下を歩いていた。
廊下と中庭の境には腰ほどの高さで石造りの柵が設けられ、手入れされた樹花と玉砂利で造られた広い庭を一望できる造りとなっていた。
天心から傾く陽の光が照らす中庭の広さに合わせ、廊下は右へ折れる。
行く先に、待ち受ける人物の影があった。
等間隔に設けられた円柱に背中を預ける長身の男は、翠が数歩の距離まで近づいたところで腕組みを解いて身体を起こす。
一歩進み出たその姿が吹き抜けの中庭から差し込む陽光に照らされた。
無造作に後ろに撫で付けた髪はまばゆい銀髪。線が細めではあるが精悍な顔つきをした彼は、歳は翠と同じに見えるが幾分背が高い。
暁城特有の白を基調とした衣服。しかしそれは長衣ではなく、動きやすく上下に分けられている。白く塗られた革の城内警備用の胸当ての左胸に、赤い陽昇国の紋章。
左腰に提げられた長刀は、代々近衛隊長のみが帯刀を許されてきた名刀である。
笑みの形に細められた青みを帯びた銀色の瞳が、目の前で歩みを止めた翠を捉えた。
「来たな、敏腕諜報隊長殿」
「白銀。ここで何をしている?」
「何って、つれないな。面会謝絶の姫君の様子を聞くため、姫を救った君子様を待ってたんじゃあないか」
白銀が茶化すも、翠は静かな表情を変えることはしない。
だが白銀は翠の表情が平時のそれと違うことに気がついた。
「栞菫の具合はそんなに悪いのか」
周囲に誰もいないことを確認した上で、白銀は声を潜めて言った。
翠は小さく首を横に振る。
「いや。あと二、三日も静養すれば動けるようになると、長老方の見立て通りだろう」
「ならば、その浮かない顔の理由は?」
白銀の問いに翠は黙したまま視線を中庭へと移した。
相手が白銀でも、いや白銀だからこそ。言葉にして良いものか躊躇われた。
逡巡し、翠は心を決めた。この胸の内を明かせるのもまた、白銀以外にはいない。
「あれは……本当に、栞菫なのだろうか」
「どういうことだ? 栞菫を見つけ、連れ戻したのは諜報隊だろう」
白銀は思わず翠の肩を掴んだ。その顔から笑みは消えている。
瞳をまっすぐに見返し、翠が答える。
「彼女は間違いなく珠織人であり、栞菫であるということは間違いない」
彩玻光を暴走させた珠織人がわずか数日で意識を取り戻すことはかつてなかった。
珠織人の中でも群を抜いた彩玻光との親和性が回復術の効力を高め、生来の高い回復力と相まって見せた奇跡。栞菫が『稀石姫』だからこそだ。
互いの彩玻光を感じ取ることができる珠織人であれば、間違いなく栞菫であると認識できるのだろう。
翠は白銀に向けていた視線をゆっくりと伏せた。
「うまく説明することはできないが、何かが、違う気がするのだ」
その静かな面に苦悩の陰を垣間見た白銀は翠の肩を解放した。
思いつきでこのようなことを口走る男ではないと、白銀も承知している。だからこそ『ただの気のせい』として片づけることができなかった。
「記憶の消失が影響しているのかもしれないが、何にせよ憶測の域を出ないな。『あの』後に生きて帰ってきたこと自体が奇跡なんだ」
自らの言葉に沈黙を返す翠に、白銀は表情を崩し少年の面影を残した笑みを見せた。
「栞菫が元気になったら、俺もお前の言う違和感とやらを確かめてみるさ」
言って、白銀はすれ違いざまに翠の肩を軽く叩き歩いていく。
廊下に響く足音が遠ざかっていくのを背中で聞きながら、翠は白銀の言葉を噛みしめるように繰り返す。
「生きて帰ってきたことが、奇跡……」
まさしく白銀の言う通りだ。
『魔竜の乱』を事実上終結に導いたあの熾烈な戦い。
その後珠織人は希望を捨てないまでも、常に栞菫を永遠に失う恐怖と戦い続けて来たのだ。
当時の死闘が栞菫当人にもたらしたであろう影響も計り知れない。
栞菫が戻って間もない今。判断するのは早計ということか――。
翠は知らず気持ちが急いていた自分を戒めた。
【近衛隊】陽昇国内組織のひとつ。白銀が隊長を務める精鋭部隊。珠織人の長である聖の護衛が主な任務。大規模な戦の後、陽昇国の軍も半数以上が失われた。そのため現在は白銀が兵部そのものの統括も兼ねている。




