捌・暁城の使者 前
風に巻き上がる砂煙に、地平に近づき大きく膨らんだ橙色の夕日が霞んで見える。
秋良は夕日を右手に沙流砂漠を歩いている。仕事を終えて沙里へと戻るところだ。
砂漠を渡るこの仕事を始めてから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
狙った通り妖魔がうろつく砂漠の運搬業はそこそこ順調。
数か月前から沙里の情報屋の口添えで琥珀の商人組合からも依頼が来るようになった。
それからは運搬だけでも安定した収入が得られている。
しかし秋良の狙いはもうひとつあった。
荷物を狙って襲ってくる野盗がいれば返り討ちにし金目の物を奪う。相手が賞金首であればさらなる報酬が見込める。
金はいくらあっても困ることはないだろう。
とにかく一金でも一銀でも多く稼がなくては。
砂風の向こうに沙里の町が見え隠れしはじめる頃、秋良は行く手に眼を凝らした。
地に波打つ砂丘の合間に、光るものが見えた気がしたのだ。
昨夜はひどい砂嵐で、秋良も琥珀に一泊せざるを得ないほどだった。
南西から吹く風は治まりつつあるものの、未だ強く砂を叩きつけてくる。外套の頭巾が風に跳ね上げられないよう、上からさらに布を巻き付けて固定していた。
砂漠に点在する岩々の西側はことごとく、その砂嵐が生み出した吹き溜まりに包まれている。
それらのうちのひとつ、砂溜まりと岩の境目に、地平に向かう速度を速めている陽光にきらめく何か。
見間違いではない。確かにある。
光を反射させているものの正体が何であるかを確かめたい好奇心が、秋良の歩調を速めた。
もちろん、何かの罠である可能性も考慮し警戒は怠らない。
岩の東側から近づき、少しでも風を避けるため北側を回り込んで近づく。
石だ。
透き通った深い瑠璃色の丸い石。
よく見ると完全な球体ではなく、天然ままの形を磨いたように表面には滑らかな凹凸が見られた。
透き通った深い瑠璃色をしており、石の周囲を細い帯が二本、対の螺旋を描く形で包み込んでいる。
秋良は吹き溜まりの前に慎重に片膝を落とす。
瑠璃色の石に降りかかっていく白い砂を、左手でそっと払い除けた。右手はもちろん腰の小曲刀の柄を握っている。
石を包んでいる銀細工の帯は、同じく銀でつくられた腕輪の装飾の一部のようだ。
さらに砂をどけて、秋良はその手を止めた。
腕輪の中にあるのは砂ではない。
触れて、反応がないのを確かめる。
腕輪のすぐ下のあたりを掴み、立ち上がりながら一気に引き上げた。
手のすぐ上で腕輪が砕けるのを見、秋良は思わず手を放す。
砂の上に、ばらばらになった腕輪と、砂だまりから引きずり出されたものが放り出され、砂が重い音を立てた。
うつぶせに投げ出されたそれを秋良は仰向けになるように足で転がす。
自分と同じか、ひとつふたつ年下の少女。
夕陽を受けて金色に輝く長い髪からして、大陸の者だろうか。
白い肌は生気がなく、その瞳も閉じられたままだ。
着ている物はかなり傷んでおり、いたるところに擦り切れや破れが見られる。ところどころにまだ新しい血痕もあった。
腹部にひとつ、何かに引き裂かれたような大きい傷。これが致命傷だろう。
昨夜の砂嵐の中、ひとりで砂漠を越えようとして妖魔に襲われたか。もしくは野盗に……。
それ以上考えるのは無意味だ。どちらにせよ自分には関係ない。
秋良は散った腕輪の破片の中から瑠璃色の石を拾い上げた。石を抱え込んだ銀の帯はそのまま残っている。
まとわりつく砂を払い、石を夕陽に透かしてみる。
晴れた夜のような深い瑠璃色。
到底光など通りそうもない濃い色をしているのに、取り入れた茜色の光を宵闇色の光に変えて閉じ込めている。封じられたその光は、石の内部で漣のように揺らめいて見えた。
今まで目にした貴石のどれよりも勝る美しさに、秋良は息を呑んだ。
これならかなりの高額で売却できるだろう。
石をそれぞれが逆巻きに包む銀細工の帯に視線を移し、秋良はふと眼を近づけた。
片方の帯の端から端までに至る影が、文字のように見えたのだ。ただの傷かとも思ったが、やはり文字が刻まれている。
ひどく傷んでおりほとんど読み取ることができないが、帯の中心部分にかろうじて判別できる部分がある。
「なんだ? 『はるか』……」
「う……」
足元からかすかなうめき声が聞こえ、秋良は反射的に後方へ跳んでいた。
しかし、倒れている少女以外、目視でも気配でも認識できない。
それもそのはず、声の主は紛れもなく少女から発せられたものだった。これだけの傷を負い、砂嵐に呑まれてなお生きているとは、普通ではありえない。
秋良は動くこともできず、ただ少女を驚きの眼で見つめていた。
「それ……を……」
少女はかすれた声を絞り出す。
うっすらと開かれた双眸からのぞいた菫色の瞳は、まっすぐ秋良の手元に向けられている。砂に投げ出されていた白い腕が、弱々しくも持ち上がる。
「あのひと、に……渡さ、ないと……」
石を見つめる瞳はどこかうつろで、しかし伸ばされた手は秋良が持つ瑠璃色の石に向けられていた。
小さなつぶやきを残して少女は再び意識を手放し、その腕も再び砂上に投げ出される。
「そんな、この傷でまだ……?」
秋良は自覚無くつぶやくと、少女の腹部を探る。
つい先刻まで外皮も臓腑も判別できないほどの傷だったはずが、今や刀傷ほどにまでふさがっていた。
見間違いはありえない。だとしたら……。
秋良は我に返り、勢いよく立ち上がる。
ほんのわずか、少女の顔を一瞥し。振り切るように身を翻すと足早に沙里へと歩を進める。
何者にせよ、普通ではない。人の姿をした妖魔もいると聞いたことがある。
係り合いにならないと決めた秋良の脳裏に不意によぎる。
兄様――と、少女がこぼした最後の呟き。
兄、という言葉が、秋良の中に七年前の悪夢を呼び起こさせる。
思わず立ち止まり、手の中の石を固く握った。
「くっそ、助ける気かよ。らしくねぇ!」
忌々しそうに自分に吐き捨てると、足元の砂を蹴りつける。
立ち止まる秋良の視界を、西から広がる落日の光が奪う。光はさらに力を増し、あまりのまぶしさに眼を開けていられないほどだ。
いや、今は夕刻のはず。
光量は落ちこそすれ、強まるわけが――ああ、そういうことか。
腑に落ちた秋良は眼を開けた。
いや、開けようとしたものの飛び込んでくる光に顔をしかめ、寝台の上で身体をよじって日陰に逃れる。
そう、夕陽ではなく、東側の壁にある明かり取りの窓から差し込む朝陽だったのだ。
解説する用語が見当たらなかったので、今更ですが……。
【妖魔】魔界と双月界の境目をくぐって現れると言われている生物。創世の頃から存在が確認されており、今や双月界で繁殖している種も多い。実在する生物によく似たものから異形のものまで、その姿は様々である。




