壱・薫風焦がれ 中
村に一番近い小川は、秋良も子供の頃によく通っていた。
川幅一間半ほど。深さも子供の膝下までという小さな小川で、子供達の遊び場のひとつである。岸にそって木いちごが茂り、川の中には小さな水生生物がいる。
競うように裾をまくって靴を脱ぎ、川の中に入る男児たち。
女児たちは自分の手巾を広げて、木いちごを摘み始める。
秋良は女児たちと木いちご摘みをし、全員の手巾がいっぱいになると、女児たちにせがまれて花冠の編み方を教えた。
と、川で遊んでいたはずの拓が足音を忍ばせてこちらへやってきた。
「みんな、こっち来てみろよ。川の向こうに、見たことない鳥がいるんだ」
小声で囁くと、女児たちは顔を輝かせてたずねる。
「どんなの?」
「大きい?」
「音立てないようについてこいよ」
拓の後について川へ向かう。秋良もそれに続いた。
女児たちと一緒に裸足になり、脛まである裾を持ち上げ、膝の横で結ぶ。
対岸では、茂みに隠れて梢の鳥を窺う男児達が早く来いと手招きをしている。
極力音を立てないように小川に足を入れた。少し冷やりとする程度の水温が心地良い。
川床の石を踏む足裏の感覚に、秋良は小声で伝える。
「苔で滑らないよう気をつけて」
と、拓の後ろを歩いていた四歳の咲が足を滑らせた。
前方につるりと足を持っていかれた咲は、派手に飛沫と水音を上げ尻から川面に身体を落下させる。
ほぼ同時に、対岸から「あぁーっ!」と、男児たちの大合唱が届いた。水音に驚いて、鳥が逃げてしまったのだろう。
自分の起こした飛沫を頭からかぶり、全身びしょぬれになった咲は呆然と座ったままだ。
その様子に、誰からともなく笑い始めた。自分が笑われているとも分からないまま、咲もつられて笑い出す。
秋良は咲に手を貸して彼女を立ち上がらせながら、笑いの余韻を残した声で言った。
「気をつけてって言ったそばから。なにやってんの、はるか」
咲はきょとんと秋良の顔を見た。皆の表情にも疑問符が浮かんだ。秋良ひとりが、気づいていない。
戸惑う秋良に、拓が笑いながら言った。
「名前、間違えてるよ。はるかって誰?」
「えっ……あたし、そんな風に言った?」
驚いて確認する秋良に、全員が頷いて見せた。
言ったつもりもなければ、その名前に思い当たる人物すら浮かばない。秋良は笑顔で取り繕う。
「ごめん、咲。大丈夫?」
「うん」
咲はこっくりとうなずいた。
念のため確認したが、怪我などもないようだ。
「咲が風邪ひくといけないから、もう戻ろうか。魚は採れたの?」
秋良が言うと、男児たちは得意気に手桶で泳ぐ小魚を秋良に見せた。
村に戻って咲の家に寄り、呆れ顔の咲の母に事情を説明し着替えさせてもらった。それから皆で拓の家に向かう。
家では予想通りふくれっ面の青葉が皆を迎える。お見舞いに木いちごと小魚を渡せば、自分も行きたかったとへそを曲げた。
母親はそんな息子にげんこつを食らわせ、無理やり礼を言わせる。
風邪が治ったら一緒に小魚を川に戻しに行く約束をすると、青葉はようやく機嫌を直したようだった。
陽が傾き始めた頃、秋良は子供達と別れて家に戻ってきた。
家に入る前に裏手へ回り、井戸から水を汲み上げる。その水をじょうろに入れると、小さな庭に雨を降らせた。
家の角に接してつくられた二間四方しかない小さな庭園には、秋良が植えた様々な植物が葉を茂らせている。
花を楽しむための植物や、葉を乾燥させると薬味や茶になる草もある。二、三本生えた蔦科の植物は、家の壁を競うようによじ登っていた。
降り注ぐ雫に葉を揺らし西日を反射させる様子をじっと見つめながら、秋良は他のことを考える。
最近、様子がおかしい。
もちろん他の誰でもない、自分自身のことだ。
さっきのように、咲の名前を知りもしない人物と呼び違ったり。
誰かに呼ばれているような気がして、夜中に何度も眼を覚ましたり。
これまでは、そんなこと一度だってなかったのに。
背後に気配を感じ、秋良は素早く身をひるがえす。
「あ……」
秋良は思わず声を漏らした。
そこには驚き立ちすくむ春時がいた。春時はすぐに笑みを浮かべて、秋良が落として転がったじょうろを拾い上げる。
「ごめん、驚かせたな」
「ううん、こっちこそ……」
秋良は首を横に振った。じょうろを手放した右手を、ゆっくりと胸の前に持ってきて左手で包む。
その右手はありもしない何かを求めて、右腰の辺りで空を掴んでいたのだ。
「秋良……少し、顔色が悪い」
春時が言うが、秋良は心ここにあらずといった様子で立ち尽くしている。
「秋良?」
春時が肩に触れると、秋良はようやく呼ばれたことに気づいたらしく春時を見た。
「えっ?」
そんな様子の妹に、春時は溜息をひとつ。
「お前、少し根を詰めすぎなんじゃないのか?」
「そんなことないよ。骨細工は、半分以上趣味だから」
「好きなのは一目瞭然だけどな。なにしてるときよりも、一番楽しそうだ」
「そうかな」
「ああ、たまに鼻歌とか歌ってるし」
「うそっ!?」
全く自覚がなかった秋良は、驚きの声を上げた。そんな秋良に、春時は意地悪く口端を上げてみせる。
「嘘だよ」
「――っ、もうっ!」
秋良に背中を叩かれながら春時は笑って、
「顔色が良くないのは本当だよ。今日くらいゆっくりしたらどう? 晩飯は俺が作るから」
「それくらい、当然。嘘ついた罰だよ」
「はいはい」
そんなやり取りをしながら、兄と共に家の横にある裏口から中に入る。
幼い頃に両親を亡くしたふたりにとって、村の者全員が父であり母であり、家族だった。
暖かいたくさんの家族に守られながら、兄とふたりで支えあって生きてきた。
きっとこれからも、そうして過ごして行くのだろう。
いつか兄は結婚して、子供が出来て。多分自分も、いつかはそういう日が来て。
村のみんなのように暖かい家庭を作って村を守っていくのだと。
秋良は心の中で、そう自分に言い聞かせていた。
【間】長さの単位。一間は約2m。




