玖・冴空と翠 後
ふたつ三つ枝を渡り、冴空は宙へ身を舞わせた。
二十尺ほどの高さに張り出している枝から、草の生えた地面へ。わずかの音も立てずに着地する。
「あ、あのっ翠はん……待ってくりゃっす!」
翠は声に振り向き足を止めた。
追いついた冴空が見上げると、翠の黒緑玉の瞳と視線がぶつかる。
「あの、あのその……」
とっさに冴空は視線を外した。
落ち着きなく視線をさまよわせ、しどろもどろの言葉を発する。いざ当人を前にすると、肝心の言葉が上手く出てこない。
翠は夜の水面を思わせる静かな色を湛えた瞳で、冴空の言葉を待っている。
「あ、兄貴はっ」
最初の言葉をしぼり出すことに成功したら、続きはするりと流れ出てきた。
「もし兄貴が目覚めなかったら、やっぱりその、置いていっちまうだすか?」
自分同様、はるかと翠も。秋良の目覚めを待つつもりなのだとばかり思っていた。
皆がそろって旅立つという選択をしてくれることを願いながら、冴空は翠を見上げる。
翠は冴空の言葉を無言で首肯した。
「そ、そう……っすか」
ふたりは巡礼の儀という大切な役目の途中だ。
長きに渡る聖の不在で放置されていた守護石の結界は、すでに効力を失いかけている。
守護石の破壊を急ぐ妖魔六将に先を越される訳にもいかない。残る守護石を失っては、双月界はどうなるか知れないのだ。
秋良が目覚めるのをいつまでも待っていられないのも仕方のないことなのだろう。
冴空は炎天下に長時間さらされた草の如くしおれた。
心のどこかでは、その答えが来るとわかっていた。わかっていても実際聞いてしまうと胸が痛い。
皆が旅立った後に秋良が目覚めたら、どう思うだろう。
うなだれたその頭上から、静かな声が降りてきた。
「できることなら、あと数日は待とうと思っている」
勢いよく冴空は顔を上げる。
翠は雀蓮の家があるほうへ歩き始めていた。冴空は急いで翠の隣に並んで歩く。そのまま数歩進んだところで、翠が再び口を開いた。
「秋良には、救われた恩がある」
「え?」
「行方知れずになっていた栞菫……はるかを発見し保護してくれていた。それに、緑繁国では迷いを払ってくれた」
「あ、あのときの……」
竜人族の至道との戦いで、翠は危機に瀕していた。
そのとき秋良とはるかの言葉によって、過去へのこだわりを捨て竜神の力を解放することができたのだ。
あれがなければ翠はおろか、冴空やはるかもここに存在しなかったかもしれない。
その戦いの恐怖までもが蘇り、冴空は思わず身震いした。
翠はそれには気づかず先を続ける。
「だから秋良が目覚めないならば、今はそれでいいとも思う」
「そんな!」
「もちろん、いずれは目覚めてもらわなくては困る。恩を返すことができない」
「じゃあ、どげんしてそったらこと……」
「今目覚めないのであれば、必然的に戦線から外れることになる」
「あ……」
「秋良は斎一民だ。その中ではかなり腕が立つとしても、種族としての能力差は埋めることができない。妖魔六将を相手にするのは死地に飛び込むようなものだ」
翠の言葉に、冴空は沈黙を返した。
気持ちとしては秋良の実力を擁護したい。だが、実際に妖魔六将の力を眼にしたことのある冴空には、翠の言葉を否定することができなかった。
それだけではない。冴空は、秋良を目覚めさせることが秋良を救うことだと信じて疑わなかった。だが今、翠の言葉に気持ちが大きく揺らいでいる。
目覚めさせないことが、秋良のためになるという考え方もあるのだ。
数日待って秋良が目覚めなかったそのときは、はるかと翠はここを発つ。雀蓮ならば、戦いが終わるまで秋良を今のままの状態にしておくことも、きっと可能だろう。
そのとき、自分はどうするべきなのか。
秋良について、戦いが終わるのを待つのか。それとも――。
「冴空は……」
突然の呼びかけに、冴空は小さく身を震わせた。
足を止め振り仰ぐと、隣を行く翠も冴空を振り向く。冴空は慌てて、うつむくように視線を逸らした。
「なぜ木霊森を出てここへ?」
「あ、あっしは、そのう」
「草人は森を出ることを部族で禁じているのだろう。長老の許しを得てきたのか?」
「え、あや、そそそれは」
傍目にもわかるほど狼狽する冴空に、翠は自らの言葉を補足した。
「責めているのではない。禁を破ってまで出てきたのならば、それなりの理由があるのだろうと」
静かに問う翠に安堵し、冴空は言葉を選びながら答える。
「あっしも……あっしにも何かできるっちう、そういう証が欲しかっただす」
一番の理由は、木霊森にいたくなかったからだ。
森にいれば、自然と風凛のいた場所に足が向いてしまう。そこで自分の無力さを嘆き、なにもできなかった自分を責めるだけの毎日を送っていた。
風凛の言葉は、ひとつ漏らさず胸に刻まれている。
彼女は言った。
『なにもできないなんてことはない』と。
風凛が信じてくれた自分の力を、自分自身信じることができるように。
そうなった自分を風凛に誇れるように。
「そのために、あっし、皆の後ば追っかけてきたんさ。風凛様は、双月界のことを姫さんに託したっす。姫さんを助けることは、風凛様の遺志を受け継ぐことにもなるっち。だから……」
眠る秋良のそばで待ち続けるのは。それでは、風凛を失う前となにも変わらない。
「だからもし、兄貴が時間までに目覚めんかった時は、あっしも姫さんたちについていくっす」
その言葉が自らに課す重みは、ともすれば膝をつきそうになるほどだった。
はるかたちに同行するということは、すなわち妖魔六将と戦うということでもある。
不安は茨の蔓のように幾重にも張り巡らされ。いくら払いのけようとも冴空の行く手を遮り続ける。
以前の自分ならば、すぐにあきらめてしまっただろう。
だが今は――胸に痛む輝きがある限り、前に進むことができる。
二度と大切なものを失いたくない。この想いがあれば、うつむくことなく歩いていけると――。
いつしか冴空は、その陽透葉色の瞳で翠をまっすぐに見返していた。
翠の周囲の空気がわずかやわらぐのを、冴空は草人の力で感じ取った。
「そうか……よろしく頼む」
「!」
冴空は驚き耳を疑った。
てっきり、足手まといと断られるものだとばかり思っていたからだ。断られても食い下がるつもりで構えていたのだが、それは要らぬ心配だった。
翠ほどの力の持ち主が、冴空の力をほんのわずかにでも頼みにしてくれている。
そう思うと、心の底から力が湧き上がってくるように思えた。
冴空は先を行く翠の背中を、今までよりも軽い足取りで追いかけた。
【巡礼の儀】十年に一度行われる珠織人の儀式。種族の長である聖の位にある者が、各地の守護石を彩玻光を注ぎ、環姫の施した結界を維持する。それにより守護石自体の封印の力も守られる。結界が解ければ封印も解け、守護石は自壊してしまう。
【草人の掟】かつては他種族とも交流があった。が、魔竜の乱で木霊森が戦地となり、草人も多くの民が犠牲となった。種族を守るため、長老は森の中だけで暮らすことを決断せざるを得なかった。




