捌・はるかと里夢 前
はるかは寝台から身体を起こす。
すぐ右側に見える窓から琥珀色の暁光が差し込み、眼に見える光景を朝色に彩っていた。
二間四方ほどの室内は、最低限の物しか置かれていない。窓のある壁から数歩離れたところに置かれた寝台と、その脇にある卓兼用の低い戸棚だけだ。
療養のための宿泊が必要な患者にあてがうための部屋なのだと、雀蓮から聞いた。
今は使用される予定もなく、はるかと翠が一部屋ずつ使わせてもらっている。
寝台から下り、窓の外を見る。
早朝の森は白い薄絹に包まれ、そこに差し込む琥珀色の光が幻想的な光景を作り出していた。
窓越しに見ているだけではもったいない。
はるかは簡単に身支度を済ませると、そっと部屋の扉を開けた。
同じつくりの部屋が二階に六つ。廊下を挟んで左右対面に配置されている。
一番奥の部屋をはるかが、その隣を翠が使用している。一番階段側の二部屋が雀蓮と里夢の部屋だ。
冴空は森の中のほうが良いと言って外にいる。近くの木を宿代わりにしているのだろう。
物音を立てないよう静かに廊下を渡り、階段を下りる。
下りた先、突き当りの壁左手は台所へ続いている。はるかは右に折れ、昨夜夕食をいただいた応接間に出た。
しんと静まり返ったその部屋を横切り、扉を開ける。同時に、ひんやりとした空気が全身を包んだ。
すがすがしい朝の空気を大きく吸い込み、後ろ手に扉を閉めて歩き出す。
改めて外側から見る雀蓮の住まいは、隠れ家という名がふさわしいたたずまいをしていた。
丸太で組み上げられた壁にまんべんなく絡みつく蔦の鮮やかな緑と、屋根を覆いつくした苔の深みのある緑が、人工の建造物である家と周囲の風景とを見事に調和させている。
陽昇国は沙里も暁城も、ほとんどの建造物が石造りのものだった。それも今は懐かしく思える。
だが、もしかしたら。自分にはこのような緑に包まれた家というのが、性に合っているのかもしれない。見ているだけで心が静かに落ち着いていくような気がする。
はるかは少し距離を取って家を眺めながら、ゆっくりと歩を進めていく。
向かって左側に回りこむと、石造りの煙突が壁に沿って屋根の上までそびえている。
煙突の脇に小さな物置が作りつけられていて、その中には薪が積まれていた。すぐ近くに薪割り場が、家の裏手に近いところには井戸があった。
井戸を上からのぞき込むと、筒型の闇の向こうに涼しげな水の波動が感じ取れた。つるべから下がる縄を引き、水で満たされた桶を井戸底から引き上げる。
その水で顔を洗うと、はるかは大きく深呼吸した。
こんなに体調が良いのは、ずいぶん久しぶりだ。
昨日と変わらないはずの景色も、空も風も。同じものとは思えないほど鮮明に輝いて見える。
眼を閉じてみた。周囲を巡る彩玻動の流れが、これまで以上に鮮明に感じられる。
発作が頻繁に起きるようになってからは特に、靄がかかったようにおぼろげでしかなかった。
今は、世界を構成している彩玻動をより近く、より確かに感じる。周囲を流れる彩玻動が、自分の身体の中にも巡ってくるのがわかる。
体内を巡る彩玻動の中心は、心臓の部分に据えられたものだった。
昨晩、夕食後に改めて雀蓮の診察を受けた。はるかの発作はやはり彩玻動の不足が原因だった。
はるか――栞菫の身体は、珠織人の心臓に備わっているはずの核が失われた状態にある。
珠織人は彩玻動を核の働きによって体内に取り込み、生命活動の源としている。核を失うことは珠織人にとって死を意味するのだ。
核を失った栞菫の命を繋ぎとめているのは、双月界を巡る彩玻動に他ならない。
双月界のどこかにある核と栞菫の身体は、彩玻動によって繋がっている。
守護石の破壊で弱まった彩玻動が、その結びつきをも弱まらせ、身体の不調として現れてしまっていたのだ。
「彩玻動の不足により起こるものならば、彩玻動を補ってやればいい」
事も無げに雀蓮は言った。
そして椅子から立ち上がると机の左脇にある棚の硝子戸を開いた。様々な粉や液体が入った瓶が並ぶ中から、ひとつを選び取った。
奥の壁に取り付けられた蛍石の淡い光が、瓶の中にあるものを煌かせる。眼の前に差し出された瓶を、はるかはまじまじと見つめた。
瓶の中は透明な液体で満たされ、その中心には浮くでもなく沈むでもなく不思議に揺らぐものがある。
多角体のそれ自身は透明でありながら、光を受ける角度によって様々な色を浮かび上がらせていた。
「彩玻水の結晶だよ」
はるかが問いかけようとしていたのを見計らったように、雀蓮は言う。
瓶の中から雀蓮に目線を動かす。彼は再び椅子に腰掛け、はるかに微笑みかけた。
「彩玻水は彩玻動を多分に含んだ液体だ。それが凝縮されたこの結晶は、この小ささからは想像できないほどの彩玻動が詰まっているんだ」
言いながら、雀蓮は頑丈な封を解き広口の瓶の蓋を開けた。中に浮かぶ結晶を右手でつまみ出して瓶を机の上に置くと、
「ちょっと失礼」
空いた左手ではるかの胸元をわずかにはだけさせ、結晶を胸の中心――心臓の上に押し当てた。
濡れた結晶の冷たい感触。それが、身体の中にまで伝わってくる。
しかし、その感覚は間違いだった。
「あっ」
はるかは驚き声を上げた。
伝わっているのではない。実際に身体の中に入ってきている。
はるかの眼の前で、結晶は何の抵抗もなく肌に食い込んでいた。結晶だけでなく、それを掴んだ雀蓮の指までもが、はるかの体内に差し込まれていく。
それなのに痛みもまるで感じず、血の一滴すら流れることもない。
雀蓮が指を引き抜くまでの、ほんの一瞬の出来事だった。
はるかは、昨夜雀蓮に結晶を埋め込まれた胸元をもう一度見た。
そこには傷や痕のようなものは一切残っていない。まるで昨日のあれが夢の中でのことだったのではないかと思わせるほどに。
あれ以来、はるかの体調は一変した。それまでの不調が嘘のように身体が軽い。
核の代わりに埋め込まれた結晶が、彩玻動を身体の中に導き入れてくれているのだ。
【間】双月界で距離を表す単位。一間はおよそ2m。
【雀蓮の診療所】元々森にあった無人の小屋を改装したもの。外側と一階はほぼ手付かずで、診察室を建て増しし、二階を部屋割りしている。
【雀蓮の治療】重篤な患者に限り、病変を直接取り除くなどすることができる不思議な力。