漆・希う 前
「ぎゃ~、せんせ~!」
突然の少女の悲鳴は、扉の向こうから聞こえてきた。
驚き涙も止まったはるかに対し、雀蓮は動じない。
「里夢が帰ってしまったようだね。また怒られるかな……」
言いながら扉へと向かい、外へ出た。涙をぬぐって、はるかも後に続く。
居間へ戻ると、家の出入口が全開に開け放たれていた。そこに小柄な少女が仁王立ちになっている。
「先生! お客様に実験瓶でお茶出すのやめてくださいって、いっつも言ってるのに。だいたい……」
早口で一気にまくし立て続ける里夢に割り込むこともできず、はるかは小柄な少女を見つめた。
はるかよりも小さい身体は、四尺強ほど。
種族によって外見と年齢が必ずしも一致するわけではないが、姿は十代前半に見える。
襟を詰めた白い上衣は、縁に菖蒲色をあしらい、左右は裾から腰まで切り込まれている。中に着た薄桃色の着物は、裾だけが腿の中ほどまでと短い。
さらさらと細い髪は、銀の輝きを放つ白。肩まであるそれを軽く持ち上げるように、頭部に菖蒲色の帯を巻いている。
猫に似た丸顔に据えられた双眸は、雀蓮のそれと同じ深い紅を宿していた。
はつらつとした印象に違わず、小さな身体に有り余っている元気を、そのまま声に発散しているようだ。
「……せめて湯呑の場所だけでも覚えてほしいって、あれほど」
矢継ぎ早に繰り出されていた言葉の雨が、突然止んだ。里夢の視線は雀蓮の白羽織の一部に注視する。
「も~、また白衣にこぼしてー! 放っとくと染みになるんですから、早く脱いで脱いで」
言うが早いか、素早く雀蓮に跳びついて白衣を引き剥がした。丸めたそれを両手に抱えて、里夢は右奥の通路へ駆けていく。
「採ってきた薬草は卓の上ですよー」
声だけが居間に帰って来たのが最後だった。
台風一過。そんな言葉がふさわしい静寂が室内を包んだ。
はるかたち三人はあっけにとられて、彼女が消えた通路を見つめた。雀蓮だけが何もなかったように、冴空の対になる席に腰掛ける。
「紹介が遅れたけど、彼女は里夢。助手、のようなもの、かな」
最後は若干歯切れ悪く終わった。助手と言い切れないのは、今のように身の回りの世話もしてもらっているからなのだろう。
「さ、君も座って」
雀蓮に促されるまま、はるかは元の席――翠の隣に腰掛けた。
なんとなく視線を感じ、はるかは隣を振り向く。翠と眼が合ったのは一瞬のこと。彼は視線を雀蓮に転じた。
「診療は、もう終わったのだろうか」
翠独特の感情のこもらない声と表情に、はるかはわずかな怒気を感じ取った。心なしか、視線もいつもより鋭く感じられる。
はるかは、はっとしてうつむいた。きっと泣いていたことを翠に気づかれたのだ。
そっと雀蓮の様子をうかがったが、気に留めた様子なく答える。
「いや。彼女は秋良のことが気になって、それどころではないようだったからね。先に皆にも説明しておこうと思って」
それを聞くや否や、はるかはすぐに顔を上げた。
雑然としていた感情も思考も全て沈み、ただ雀蓮の紡ぐであろう言葉に集中する。
「皆が眼にした通り、秋良は右眼と右腕を失いはしたが、一命は取り留めている」
「あ、右腕っちゅうんは、その……」
思わず口を挟んだ冴空だったが、全員の視線が集中した途端、声が先すぼみに小さくなっていく。
自ずとうつむいてしまった顔を上げると同時に、自らを奮い立たせて冴空は膝の上に抱えていた包みを卓の上にそっと乗せた。
「落とされちった右腕はここにあるっすが、そのぅ、あの腕はいったいどげして……あの腕が、そこいらの水気とあん人を繋げとるふうに、あっしには見えたっす」
引っ込み思案な冴空が、このところ思うところを口にしている。
無理をしているのが、はるかにはわかる。そうまでしているのは、それだけ秋良のことを真剣に案じてくれているからに他ならない。
そんな冴空に、雀蓮は柔らかな笑みを返した。
「さすが、草人は彩玻動の動きに聡いね」
「え、いや、あっしはそんな……」
予想していなかった称賛に、冴空は慌てふためく。雀蓮は椅子の背に身体をもたせ掛けて、答えた。
「あれは義手と義眼だよ。義手に施された術紋で彩玻動を取り込み、義眼と義手を秋良の身体に定着させている」
「なるほど」
雀蓮の言葉に翠が相槌を打つ。
「それゆえ、逆に秋良から周囲の彩玻動に干渉することも可能、ということか」
「そう。力及ばすことのできるものも限られてはいるけれどね」
「あん人は水の気を帯びたお人じゃすけん、木気と土気を味方ばつけなすってただすな」
冴空まで、得心いったという表情で言葉を返している。
はるかひとり、三人を交互に見回すばかりだ。
参加できない、というよりも、何の話をしているのかも理解できない。
暁城にいた頃に、朧から受けた『双月界の世界構成』や『生物や人種について』の勉強で聞いたことがないような気がしないでもない。
しかし、いくら記憶をたどろうとも、その名称以外のことは何ひとつ思い出せなかった。あまり無理に思い出そうとすると、熱が出そうな気がする。
「あ、あの……それって、どういう?」
たまりかねて、はるかはついに説明を求めた。
せっかく話が潤滑に流れているところに水を差すのも気が引けたのだが、秋良のことを説明されているのに、理解できないままなにしてはおけなかった。
すると、雀蓮は壁際の棚から板状のものを取り出してきた。それは暁城で三長老たちも使っていた黒板の小さいもののようだ。
そこに雀蓮は簡単に人の形を描いた。欠けた右腕のところに切り離された腕を描くと、その腕の上に簡単な紋様をつけた。
「今、秋良は、失った右眼と右腕の代わりに、僕が作った眼と腕をつけている。腕の紋様が、外から彩玻動を取り込むための術紋なんだ」
それから腕と肩口を、両端に鏃のある矢印で結んだ。
「取り込んだ彩玻動が、秋良の中に巡る彩玻動と結びつく。そうすることで、自分の腕や眼のように動かせる仕組みになっているんだ。ここまではいいかな?」
はるかがうなずき返すのを確認してから、雀蓮は黒板を裏返した。裏側も黒板になっていて、何も書かれていない綺麗な面が現れた。
「じゃあ、次は彩玻動についてだね。双月界を構成する彩玻動は、性質の異なる八つの気に分けることができる」
雀蓮は白墨で五芒星を描き、星の一番上の角に『木』と書いた。そこから時計回りに『火』『土』『金』『水』と、角の先に記していく。
「この五つが本源とされる力だ。全ての命は、いずれかの気を身の内に宿して生を受ける」
さらに雀蓮は、星の頂点が全て線上に収まるように逆三角形で星を囲うと、逆三角形の左上に『無』、右上に『光』、残る下部に『闇』と書いた。
「この三つは特殊なもので、『無』と『闇』は、双月界では妖魔に多く見られる。『光』は、珠織人などがそうだね」
雀蓮と眼が合い、はるかは少し驚いた。
珠織人は瞳のつくりに特徴があるだけで、外見的にはそれとはわかりにくい。雀蓮は、はるかが珠織人であるということに気づいているのか。
【希う(こいねがう)】強く願う、切望すること
【四尺強】里夢の身長。120cmと少し。はるかより頭ひとつ小さい。
【菖蒲色】菖蒲の花の青紫に赤みを加えた鮮やかな紫色。アイリス色。
【朧】珠織人。暁城三長老のひとりで軍務を担当している。お世辞にも覚えが良いとは言えないはるかに根気よく教えていたのだが、報われない結果となってしまっていた。