伍・眼を覚ませ 前
「でも……秋良ちゃん、でしょう?」
はるかは翠の手を振り切って、秋良の姿をした者に取りすがる。
しかし彼女は依然微動だにせず、その瞳には何も映していないようだった。
「どうして、どうして何も言ってくれないの? 私だよ、はるかだよ!」
はるかの名を聞いた瞬間、彼女の瞳がわずかに揺らいだ。直後、苦悶の声を上げながら膝をついて苦しみ始める。
「秋良ちゃん!?」
はるかが、その傍らにしゃがみ込もうとしたのを、翠が強引に引き戻す。
同時に、はるかの身体があった空間に鋭い光が閃いた。逃げ遅れた金茶色の髪が数本宙に散る。
秋良の右手には、抜き放たれた小曲刀が逆手に握られていた。折り返し振るわれるそれを受け止めたのは、翠の刀だ。
眼前でせめぎあう翠の刀と秋良の小曲刀。
はるかは信じがたい思いでそれを見つめた。
翠もまた。はるかとは似て非なる視線を、刀越しに秋良へ向ける。
竜人族である翠の力を、斎一民である秋良が押しとどめることなどできるはずがないのだ。
だが、双方の刃は拮抗したまま微動だにしない。
翠は軸足に体重を乗せて、秋良の小曲刀を押し上げる形で刀を振り切った。
小曲刀を振り払われた秋良は、身体の均衡を崩す。――はずだった。
その前に秋良は自ら後方に跳び、空中で一転した後に着地。同時に、もう一歩後方へ跳び退り距離をとる。
その身をぐっとかがめた次の瞬間、秋良は翠の眼前に迫っていた。離れた間合いを助走に使い、勢いのままに強撃が放たれる。
打ち込まれた小曲刀を、翠は身をひるがえしかわす。空を横に薙いだ小曲刀の勢いを殺さず、秋良はその場で身体を一回転させた。
――来る。もう一閃!
攻撃を受け止めるべく構えていた翠を襲ったのは、想定以上の一撃。
眼前に薄青い光が閃き、同時に翠の身体は散る水滴と共に後方へと弾き飛ばされた。
秋良が身体を回転させていたとき、翠からは死角になる位置で右の腕に薄青い光を宿らせた。
光は手から小曲刀の切先までを瞬時に濡らし、翠の刃に触れた衝撃で爆ぜた。瞬時に滝下で受ける衝撃と同等の水流が生み出されていた。
距離を置いていたはるかには、その様子が克明に見て取れた。それを翠に知らせる間もないほど一瞬のできごとだった。
秋良の右腕には、流線模様が描かれている。手の甲から肩のすぐ下まで、彼女が失ったはずの腕に、まるで藍で描いたかのような。
腕に蒼光が宿ったように見えたのは、この流線模様が仄かに光っていたのだ。
はるかの奥で、黒いものが軋む。
あの悪夢を塗りつぶす、血の真紅――
侵食する黒い根に内側からえぐられるような痛みに耐えながら、はるかはその名を繰り返す。
「秋良ちゃん」
声に力がこもらないことで、はるかは気づいた。
眼の前にある存在をその名で呼ぶことに、ためらいを抱き始めている。
反応したのはその名にか、それとも発せられた音に対してか。
彼女は振り向いた。
爆風の余波に舞い上がる黒褐色の髪。その下に隠されていた右の眼に射抜かれ、はるかは呼吸を忘れた。
悪夢――伸ばした手も願いも届かず、水面に沈んでいく秋良の姿。
秋良を奪ったのは、血の色よりも深く、濃く、真なる赤を湛えた深緋の泉だった。
血の泉そのものの真紅を宿した、彼女の右眼。
はるかは動けない。
彼女が、こちらに向けて小曲刀を構えなおしても。
視線も、身体の自由も、全て秋良の右眼に宿る紅に縛られてしまったかのように。
「待て」
届いたのは翠の声だ。
振り向く秋良ごしに見える翠は、さほど痛手を受けている様子はなかった。
「はるかに剣を向けるのなら、俺が相手になる」
動けないはるかの視線の先で、翠は秋良へ刀の切っ先を向けた。
秋良は人形の表情を保ったまま、その身を沈め。跳び込むように、逆手に握られた小曲刀を斬りつける。
来るとわかっていながら、秋良の刃は想定を上回る速さで翠を襲う。
かわした翠の袖がわずかに裂け、腕に薄い傷が残った。
地面で一回転し、そのまま地を蹴ってぶつかってくる秋良の小曲刀。
翠は、秋良の腕にある紋様が光るのを見逃さなかった。後ろに大きく跳んで避けるべく足を退いた。
「――っ!」
予測していた衝撃は起こらなかった。代わりに翠の足を乗せた地面がぬかるみ沈む。
ほんの三寸ほどだったが、翠の体勢を崩すには十分すぎた。
眼前に迫っていた小曲刀は刀で受け止めたが、体重を載せた秋良の一撃を受けた翠の身体は背中から地面へ倒れこむ。
翠は押さえこまれる前に秋良の身体に膝を当て、押し上げる刀の力と合わせて秋良の身体を投げ飛ばす。
軽い秋良の身体はたやすく宙へ舞った。小曲刀を口にくわえ、大きく張り出した枝のひとつに右手を伸ばす。
枝に掴まった右腕は、再び光を宿していた。
地面に倒れている翠に、風が降り注ぐ。
とっさに横転して横に逃れた。体勢を立て直した翠が見たものは、無数の木の葉が地面に突き立っている光景だった。
あの腕の紋様が持つ力はなんなのか。水の技を打つかと思えば、地や草木にも干渉している。
防戦に回っていて、到底勝てる状況ではない。ならば――。
休む間もなく、樹上から降る小曲刀の斬撃を横に踏み込んでかわし、翠は刀を下から斬り上げた。
迷いを捨てた一撃は、秋良の左腕に傷を残していた。
――自分に最も優先されるのは、はるかを――栞菫を護ること。
だが、もしこの秋良が本物だったなら?
その捨てきることのできない迷いが、翠の太刀筋をわずかに鈍らせていた。
秋良は一歩、二歩と後方に跳び、翠と間合いを取る。それもほんの数瞬。再び秋良が攻撃を仕掛けた。
はるかは、ふたりの攻防を見つめていた。
紫水晶の瞳に映るその光景は、どこか遠いできごとのようにさえ感じられる。
見えない壁を隔て、自分は動くことも声を発することもできず。ただ眼前で繰り広げられる光景を見つめるだけ。
まるで、栞菫の記憶が白昼夢として再現されるあの時のようだ。
痛みも、疲れも感じないのか、翠とあれだけ剣を交わしながら、秋良の表情は感情のひとかけらも浮かべることはない。
繰り出される息もつかせぬ連撃。しなやかな獣を思わせる動き。
それを見る限りでは、秋良そのものなのに。
変わってしまった容姿と、人並みはずれた能力。
ひとかけらの感情も宿すことなく、自分や翠に刃を向けている。
「あれは――本当に秋良ちゃんなの……」
意識せずこぼれたつぶやきに、いつの間にか近くに来ていた冴空が答えた。
「きっと、兄貴に間違いねっす」
「本当! どうしてわかるの?」
「え!? なしてとか聞かれちゅう、人の言葉だば、うまいこと説明できねぇだらが……」
冴空はどう答えたものか困惑し、語尾が近づくにつれ声が小さく聞き取りにくくなる。
「なんちゅうか、そんの、兄貴の外側っちゅうか、身体は間違いねぐ兄貴と同じ感じがするっす」




