碌・老人と狗 後
炎狗を呼び出したのも扉を封じたのも、おそらくはこの老人の仕業なのだろう。憶測にすぎないが、この場を切り抜ける鍵は老人にある可能性は高い。
障害となる炎狗は炎を吐いた後に必ず呼吸を溜めている。
これまで炎を溜めている間は動こうとしなかった。息を吸っているうちに攻撃をしてくることはないと予測される。
さらにはるかを追い詰めるべく前進しただけ炎狗と老人との距離も開いている。
動くなら、次の炎を待ってからだ。
息を詰めて見守る秋良の頭上から炎を纏った木片がいくつか落ちてきた。炎が天井に燃え移り始めている。
横に跳んだはるかは勢い余って地面を転がる。
立ち上がると同時に左の腕や脚に灼けるような痛みが走る。炎の余波を受けてしまったらしい。
吐ききった炎は小さくなり、炎狗の口の中で揺らいで消えた。
――今だ!
秋良は小曲刀を両手に地を蹴った。
炎狗が主を振り返る姿を秋良が視界の端に捉えたが、もう遅い。
秋良の狙いは老人の頸動脈。
手にした双刀は揃って一点を狙い横に薙ぎ払われた。
「――」
老人の口元が短くつぶやいたそれが古代語の呪文であると、はるかは理解した。
刃が皮膚に届く瞬間。
老人によって呼び起こされる力――無数の真空の刃が秋良を襲う。
「秋良ちゃん!」
「うあぁっ!」
はるかと秋良の悲鳴が重なった。
四肢を切り裂かれ、風圧で秋良は後方へ飛び倒れる。
わずか遅れて、空を切る風の轟音がはるかの横を後ろへと突き抜けた。秋良が肩から掛けていた革帯は千切れ、後方へと飛んで落ちる。
「秋良ちゃん!」
駆け寄り助け起こそうとすると、秋良は痛みに小さくうめいた。
はるかは慌てて秋良の身体を地面にそっと横たえた。
「くそっ……!」
秋良は起き上がろうとするが、傷の中にはかなり深いものがあるらしい。手足の感覚が次第に薄れていく。
老人は小曲刀の刃に裂かれた頭巾の首元に手をやる。ほんの皮膚一枚だが、刃が自身に到達している。
「斎一民にしてこの身に傷を負わせるとは、素晴らしい。だが力及ばず残念じゃったな」
世辞ではない称賛を秋良に送り、老人ははるかへ視線を転じた。
「連れが巻き添えを食うておるぞ。さぁ、どうする?」
はるかは秋良の隣に座り込んだまま声すら出せずにいた。
全身が震える。視界は涙でぼやけ、ひどい耳鳴りに木が焦がされる音も聞こえなくなった。
地面についた両手が温かく濡れる。秋良の身体から流れ出した血が、地面に広がっているのだ。
巻き添え……秋良は、自分のせいで傷ついたのか。
どうしてこんな目に合うのか。どうして――。
混乱する思考の中、罪の意識と火傷の痛みだけがやけにはっきりと感じられる。
老人はしばらく様子をうかがっていたが、やがて興ざめした様子で肩を落とした。
「どうやら見込み違いだったようじゃな。本物であるなら、命尽きる前に力を示してみるがいい」
感情もなく言い捨てると炎狗へ視線を送る。
答えるように唸りを上げた炎狗は二人へ向き直った。
老人は身を翻し、背にしていた壁に向かって歩く。壁にぶつかると思われたその瞬間、身体は壁をすり抜けて消えた。
今や無事な状態で残っているのはその一面のみ。
その前には炎狗が陣取っており、他の三方はすでに炎に包まれている。
「はるか……とにかく逃げろ」
かすれる声で言い、秋良は失血のために白くなった顔を戸口のあった壁に向ける。
最初に炎狗が体当たりで穴を開けた壁……炎が壁のほとんどを焼き落とし、夕闇に包まれた丘が炎熱の奥に揺らいで見える。
「炎狗が開けた穴からなら、何とか出られるだろ」
言いながら、心の中で自分を嘲る。
自分らしくもない。人を、助けようなんて考えている。
「でも秋良ちゃん……」
「いいか、あいつが狙ってんのはお前だ。お前が逃げれば、あいつはお前を追っていく。そうすれば、俺は助かるって訳だ」
はるかは涙を拭い、秋良の頭から足元までを見た。
衣服は赤く濡れている。特に両脚は傷がひどい。たとえはるかを炎狗が追ったとしても――。
「だってこの脚じゃ……」
秋良が燃え落ちる小屋から脱出するのは無理だ。
炎狗が呼気を溜めているのを察し、秋良は声を荒げる。
「いいから、早く行けって!」
「やだっっ!!」
はるかは大声で言い返した。
秋良は驚きはるかを見上げる。
これまではるかが秋良に反対するのは、秋良が人を傷つけようとするときだけだった。
これだけ強く反発するのは初めてだ。
「だって、だって……」
ぬぐったばかりの涙が、はるかの菫色の瞳に再び膨れ上がる。
どこから来たのか、どこへ行こうとしていたのか。果ては自分の事すらも覚えておらず。
そんな自分を、秋良は見捨てずにいてくれた。
絹代たちは良くしてくれるが、彼女たちに迷惑はかけられない。容姿が異なり素性の知れぬ自分への警戒は、絹代達へも影響するに違いない。
安心して身を置ける居場所は今の自分にとってひとつしかないのだ。
「秋良ちゃんがいなくなったら、私はひとりぼっちだもん」
はるかの言葉が、秋良には遠く聞こえていた。
失血で意識がもうろうとする脳裏によみがえってくる、古い記憶――。
ひとり……誰もいなくなった――いや、動かなくなった、村の中で。
たったひとり、取り残された自分。
「……」
「秋良ちゃんを置いてなんて行けないよぉ」
はるかの閉じた瞳から滴が零れ落ちた。
数滴が、秋良の血にまみれた腕に落ちる。
「……誰が、動けないって?」
やや苦しげではあるが、はっきりとした秋良の声。
はるかが眼を開けると秋良は上体を起こして立ち上がろうとしていた。
腕や脚に力が込められるたびに傷口から血があふれ出す。
「秋良ちゃん……」
「お前に情けをかけられて黙ってられるかよ」
炎狗は確実なとどめを刺すために、口に炎を蓄えたままゆっくりとした動きで距離を詰めてくる。
その前に、秋良が立ちふさがった。
うまく力が入らず、膝がまっすぐ立たない。
両の腕も力なく下がったまま。
腕も脚も感覚がない。
しかし両の手には逆手に握られた小曲刀がある。
これがある限り、まだ戦える。
その考えを、自身の中で否定する声が響く。
たとえ刃が通じない相手だとしても?
ここでむざむざ命尽きてしまうつもりか?
その問いかけに、秋良の脳裏に浮かんで消えた。
村で最後に見た『あの男』の冷たい眼――。
そうだ、あいつに会うまでは死ぬわけにはいかないのだ。それに――。
「地面に突っ伏したままってのは、性に合わないんでね」
秋良は自分にしか聞こえない呟きを、誰にでもない自分に言い聞かせる。
そして、炎狗をにらみつけた。
炎狗が唸る音に合わせて、口の端から漏れた炎が揺らめく。
その光景を、はるかは座り込んだまま見つめていた。
奥でこちらを狙う炎狗との間、すぐ目の前にある秋良の後姿。
彼女の腕と脚からはとめどなく滴り落ちる血。
滴を眼で追うと、秋良の足元――先刻まで彼女が倒れていた場所には赤い水溜りができている。
気づけば、その水溜りに浸った自身の両手。
「はるか、早くそこから外へ」
言いかけて、秋良は思わず顔をしかめる。声を出すだけで傷に響く。
動く気配が感じられず、秋良は炎狗に留意しながらはるかをうかがう。
はるかは微動だにせず、秋良が作った血だまりとそれに染まった両手を見つめている。
いや、その瞳は何も捉えておらず、ただうつろに開かれていた。
「はるか? おい!」
声をかけても反応はない。
いつもであれば外に蹴り出しているところだが、あいにく脚が上がらない。
小屋の方も焼け落ちる寸前、炎狗もいつ炎を吐いてもおかしくない状態なのに。
「聞こえねぇのか!? はるか!」
はるかは、耳鳴りの奥で秋良の声を聴いた気がした。
しかしそれもすぐに途絶える。
炎の幻を見た時と同じく視界を白が占めていく。耳鳴りが大勢の怒号にとって代わる。
視界が回り上下左右が定まらない。
両手の、血の赤だけがその中心ではっきりと見て取れる。
赤く染まった両腕に、重い感触。
倒れ込んできた、人……男だ。甲冑を纏った胸には突き立てられた槍。
胸の刺創から溢れる血は、両腕を伝い腰から下を、足元を、見る間に深紅に染め上げる。
その、男の顔は――。
「い……やああぁぁ!!」
突然の悲鳴に秋良は振り返る。
同時に炎狗から襲い掛かる轟音を伴う熱気。
振り返った秋良の視界一面に広がる灼熱の炎。
もはや秋良には、はるかに気を取られて隙を与えてしまったことを後悔する暇もなかった。
【斎一民】創世の頃、環姫が生み出した種族のひとつ。突出した能力は持たないが、どの種族よりも伸びしろは高い。




