拾・暗曇
はるかは駆ける。
いつもより重く感じる身体を、意志の力で奮い立たせながら。
胸元にある瑠璃色の石を、服の上から強く握り締めて祈る。
どうか、どうか無事でいてほしい。
先を行く冴空は、行く手を遮る低木や茂み、いびつに地面を這う木の根に足をとられることもない。
まるで見渡す限りの平地を駆けていくように、ぐんぐんと先へ進んでいく。
時折足を止め、頭上に枝を張る木々や足元に伸びる草花に、何事かをささやきかける。
その間に、はるかは離された距離を必死に詰める。
冴空は草木の言葉にしきりにうなずき、ぶつぶつとつぶやいていた。
「ここでいっぺん振り返って……ははあ、狐男が――」
振り向いた冴空の前で、はるかは何度も大きく息を吸い込む。しんがりの翠は呼吸ひとつ乱していない。
冴空はふたりを仰ぎ見て言う。
「兄貴はここから狐男に追われたみたいすね。あっちそ方向に向かって逃げたみたいっす……大丈夫ぎゃすか?」
最後に添えられた言葉に、はるかは両手を自らの膝に当ててうつむいていた顔を上げた。冴空の、陽透葉色の瞳が気遣わしげに見つめている。
それに対し、はるかは笑顔を返す。いつもの彼女であれば。
だが今は笑みの片鱗すら見られない。
ただ、無言でうなずき返す。
しかし紫水晶の瞳だけは、輝きを失わずに見つめている。冴空の背後、目指すべき地――捜し求めるその人がいるであろう場所を。
冴空はそれ以上なにも言わず。一刻も早く秋良に追いつくべく駆け出した。
その背中を、はるかは再び追いかける。
やがて見え始めた川岸で、冴空はまた足を止めた。
草人の言葉で話していた様子だったが、突如黙り込んでしまう。
「どうした?」
翠が声をかけると、冴空はゆっくりと振り向いた。
緑味を帯びた白い草人特有の肌が、さらに白く見える。不安に揺れる大きな瞳が、はるかと翠を交互に見つめた。
「あ、あの、その、兄貴が……斬られて、川に」
冴空の言葉を聴いて、はるかは息を呑んだ。
眼下に流れる川の水量の多さと流れの速さに圧倒される。
冴空同様、はるかも血の気が引くのを感じた。この川に、負傷した秋良が落ちたのか。
「川下へ向かおう」
そう言ったのは翠だった。
「追っ手を撒くために急流を利用することもあるだろう」
秋良が無月を相手にしたのであれば、危機を脱するためにその道を選んだ可能性もある。
ただ、深手を負った状態で急流に呑まれずに川下にたどり着けたかどうか――。
その危惧を翠が口にすることはない。秋良が無事でいる可能性を示す。それで十分なのだ。
はるかと冴空の瞳に力が戻る。翠は小さくうなずいた。
「行こう」
すでに陽が傾き始めていた。
川の上に広がる空は茜色に染まり始め、夜を待てずに昇り始めた白月が木々の陰からこちらをうかがっている。
はるかは、川下を目指して走り続けていた。
秋良が、自分の代わりに追っ手を引き受けたのなら。
傷を受けるのも、激流に呑まれるのも、すべて自分が受けるべきもののはずなのだ。
自分が傷つくのはかまわない。
だが、自分のために誰かが傷つくことだけは――。
どれだけの距離をすすんだのか。
それすら意識する余裕はなくなっていた。
ただ、草を分け。両足を交互に踏み出す。前へ。前へ。
「ここっす!! ここで兄貴が川からあがったっち!」
声の方を見ると、背の高い草の上から跳ねる冴空が見え隠れしていた。
そこは川が描く大きな弧の外側だった。上流に比べ川幅が広く流れも緩やかになっている。川辺は湿った土。冴空が植物に尋ねていなければ見逃していただろう。
「ひ、姫さん……」
追いついたはるかに、冴空は言葉を失う。
はるかの体力も限界が近いように見えた。切れた息の合間をぬって、血の気がない唇から言葉を紡ぐ。
「あ、秋良ちゃんは……?」
「そっちに言ったらしいすが……その、あ!」
冴空の言葉を最後まで待たず、はるかは草むらへとびこんだ。
隙間なく背の高い草が踏み分けられたあとが、はるかにもわかったからだ。
足をとられ、手を地面について転倒をまぬがれながら。半ば這うようにして、秋良の通った跡を追いかけた。
はるかがたどり着いた、草が開けた先に待っていたもの。
「……そ……うそ……」
はるかが駆けると、地面を濡らす赤が跳ねた。
血だまりの中、中心に近づくにつれ足が重くなる。汚れるのを厭わず両膝をつき、はるかは震える手を伸ばす。
白い手が泥にまみれた秋良の右手に触れ、そっと持ち上げる。
浅黒く日焼けし、無数の古傷が見えるその腕。肩から先、あるべき秋良の姿はなかった。
少し短めの拾話ですが、これにて漆章終話です。
次章もぜひおつきあいくださいませ。




