捌・躱避 後
五尺ほどの高さで大きく二又に分かれた大木がある。幼女は、幹が分かれた元に腰掛けてこちらを見下ろしていた。
いつからそこにいたのか、秋良からわずか二間しか離れていないにもかかわらず、気配を探し当てることができなかった。
「せっかく稀石姫を釣るための仕掛けだったのに。針にかかったのは小魚だなんて、がっかりだわ」
頭の両側で二つに結わえられた銀色の髪は緩やかに波打ち、その身を包む薄布と共に緩やかな風を受けて揺れる。
肌に密着する黒い衣服が薄布に透け、意匠として施された大胆な切れ込みから白い肌を覗かせていた。
十歳前後の幼い姿には不釣合いな装い。しかし碧い双眸に湛えられた妖艶な光が、それ以外にないと思わせるほどの調和を感じさせた。
ただの子供ではない。
事実、声が明瞭に聞こえた瞬間から、得体の知れない圧力を全身に感じている。
腹の底に鉛が詰まっているような感覚に、秋良は奥歯を噛みしめた。
幼女は花びらの形をした唇を笑みの形にしならせた。
「はじめまして、小魚さん。せっかくだから、名前くらい教えてあげましょうか。あたしは薫路」
子供特有の澄んだ瞳に、純粋な残忍さがにじむ。
「知っておきたいでしょう? 自分を殺す相手の名前」
とっさに、秋良は跳んだ。そうせしめたのは直感のみ。
ほぼ同時に足元から黒いものがせりあがる。
粘着質の液体を思わせる濃い闇は、そこにあるものを呑み込むように周囲を取り囲む。
獲物を逃さぬよう半球体に閉じた闇は秋良の足先を掠め、再び大地に吸い込まれていく。消えた先に残ったものは、大地に落ちた木の影だった。
木の枝につかまり難を逃れた秋良の背筋に、冷たいものが走る。
闇の正体は影そのものか。あの中にとらわれたら、いったいどうなってしまうのだろう。
秋良は反動をつけて地面へ飛び降り、着地と同時に地を蹴った。薫路のいる木の横を回りこむようにして走る。
懐に入れていた銀色の鈴――薫路の罠だったそれを捨て、そのまま狐面のいた場所から遠ざかる方向へと向かう。
体力にはそれなりに自信のある秋良だが、さすがに道なき山間を駆け続けて息が上がり始めている。
自らが地を蹴り草葉を分ける音に混じり、どこからともなく薫路の声が響く。
「あたしの計画を邪魔してくれちゃって……たぁっぷりお礼をしてあげる」
遠く近く響く声は、薫路までの距離はおろか方向すらつかめない。茨のように絡みつく焦りを無理やりねじ伏せた。
「そうねぇ……どんな惨たらしい殺し方がいいかしら?」
右後方から迫る影を、ほんのわずか視界に捕らえる。
「くっ!」
通りかかった大木の幹に移っていた枝の影が秋良へ伸びたのを、前方へ転がるようにかわした。間を置かずに立ち上がり、すぐさま右前方へ跳ぶ。
秋良の脚があった位置を、左から伸びた影が大きくさらっていく。
相手は影だけに、薫路同様気配を感じさせない。自らの眼と勘だけを頼りに襲いくる影をかわしながら走る。
場所が林なのも分が悪い。木々の陰がこれだけ落ちているのだ。
「んもう! ちょこまかとすばしっこいわね」
薫路の声に苛立ちの色が混ざり始める。直後、影の攻勢が増した。
唯一救いなのは、薫路が秋良の影を使わないということだった。
いや、使えないのか。手っ取り早く捕まえるつもりならば常に足元についてくるこの影を使っているだろう。
左右から時間差で伸びてくる影を身をよじってかわした。
「っつ――!」
頭部が後方に強く引き戻される。ひとつに束ねた後ろ髪を影につかまれたのだ。
「つーかまえた! 待ってらっしゃい、今そこまで行ってあげるわ」
薫路の声は楽しげに響いた。きっと『惨たらしい殺し方』とやらを考え選んでいるに違いない。
小曲刀で影を絶つが、手ごたえすらなく。もちろん秋良の髪をつかむ力が緩むこともない。
「そっちだけ触れるなんざ、反則だろうが」
忌々しげにつぶやき、秋良は小曲刀の刃をひるがえした。黒褐色の髪が宙に散る。
その場にとどめる力から解放され、秋良は走り出す。背中の中ほどまであった髪は、それを束ねていた根元からばっさりと切り落とされていた。
「まだ逃げるの? 往生際が悪いわねーっ!」
薫路はきぃきぃとわめいていたが、すぐに気を取り直したようだった。
「もういいわ、つまんない。無月が追いついてきたから任せちゃう。あたしは稀石姫と遊んでくるわ」
無月――?
秋良はただならぬ殺気に背後を確認した。
それまで秋良を追い回していた影は消え、静寂を取り戻した林の薄闇にたたずむ白い狐面の男――。
体力は限界に近い。
迎え撃って勝てる可能性は限りなく無いに等しい。
かといって逃げ切れる可能性は、それにほんのわずか上乗せした程度。
それでも、秋良は走る。
わずかしかない可能性でも、それを捨てた時点で命運は尽きてしまう。
背後から押し寄せる殺気は着実に距離を縮めてきている。
前方に見えてきた川に、秋良は舌打ちした。川幅がある上に、増水のため流れは勢いを増している。
待てよ、この川――。
秋良が機を見出しかけた瞬間。
背後の殺気は、秋良のすぐそばにまで追いついていた。
振り向いた秋良の鳶色の瞳に、その一瞬が克明に映る。
梢の落ち影の光陰に浮かぶ白い狐の面。
左眼に突き立てたはずの飛苦内は、抜き捨てたのだろう。刃に欠けた細く弧を描く空洞には闇が広がるばかり。
兄の形見は手元に残ったが、折られた小曲刀。あれも業物なだけに惜しいことをした。
と、場違いな感情が浮かんだ。
逃れられないとわかっていたからだろうか。
無月と、名を知った男の弧月刀が秋良の脇腹を捕らえた。
痛みより先に突き抜ける衝撃。
半ば無意識に放っていた小曲刀の一閃は、相手の首筋を狙った軌道を逸れた。
硬い手応えと、乾いた音。おそらく刃は狐の面を打ったのだろう。
それを視認することはかなわない。秋良の視界は赤いものにふさがれた。
遅れて腹部に痛みが湧き上がる頃には、もはや意識は霞みつつあった。落下していく身体の感覚に同調するように、ひどくゆっくりと感覚が閉じていく。
秋良の姿は、川面を叩く水音と飛沫に消えた。
【尺】長さの単位。1尺およそ30cm。五尺は150cmで、はるかの身長よりわずか低いくらい。
【間】距離の単位。1間はおよそ2m。




