捌・躱避 中
冴空が偽りを述べることはないだろう。
鈴の話を聞いてから思い起こせば、はるかが現れた時。鈴の音をめがけて狐面が向かって行った――と考えて辻褄は合う。あの時、秋良を捉える直前だったのにもかかわらず狐面は標的を変えたのだ。
ともかく長考している猶予はない。秋良は鈍銀色の鈴をはるかの腰帯から外し、冴空を振り返った。
「おい、お前」
「へ? あ、あっしっすか!?」
「ほかに誰がいる。お前、翠のいる場所を特定できるか?」
草人は双月界との感応能力に優れている。木霊森の木々と会話をし、道を開き、情報を得ていた。
たとえ森が違っていても、同様に翠のいる場所も探り当てることができるのではないか。
そう考えた秋良の問いかけに、冴空の答えはしどろもどろだ。
「え~まぁ、木霊森でのようにってわけには、なんともいかないっすが……」
「できるのかできないのか、はっきりしろ!」
「あや、や、やれるっす!」
「よし。じゃあお前は、こいつを連れてそこまで行け。わかったな」
言うが早いか、秋良は踵を返した。
慌てて冴空が呼び止める。
「ちょ、兄貴はどこに!?」
「いいか、はるかのことはお前に任せたぞ!」
それだけ言い残して、秋良の姿はすぐに低木の奥に消えて見えなくなった。
「任せた……あっしに?」
ひとり取り残された冴空は、心細そうに視線を落とした。
地面に横たわったまま、はるかは気が付く様子もない。もし守るものがいなかったとしたら、たやすく敵の手にかかってしまうことだろう。
冴空の脳裏に、あの光景が映し出される。
すべてを一色に塗り替えていく金色の暁光。
白くはためく衣服に輝く鳴子状の装身具が涼やかな音色を奏でる中。
舞いを舞っているようにさえ見える美しさで散っていった、ひとりの女性。
まさに今、眼の前でそれが起きているとさえ思わせるほど鮮烈に焼きついた風凛の姿は、冴空の中から生涯消えることはないだろう。
儚く、崩れそうに細い風凛の身体。抱き上げた感触が残る両の手を、力強く握り締める。
そうすることで、冴空は自分の中に首をもたげ始める弱気を必死に押さえ込んだ。
こんなことでくじけていては、なんのために部落を出たのかわからないではないか。
「――っ!」
冴空は小さな拳を握り締めて、草人の声で気合を入れた。
刹那、気配を感じた冴空は背後の茂みを振り返った。
茂みを割って現れたのは白い狐の面を被った痩身の男だった。
どのようにして短い間にあの崖から降りてきたのか。抜き身の直刀と弧月刀を両手に提げたまま、静かに動きを止めた。
微動だにせず、何かを探るように――動くものの気配か、あるいは例の鈴の波長とやらか。
息を詰めて。
冴空は走り去る狐面の姿を樹上から見下ろしていた。
とっさに、樹に絡まる蔓を使って自分とはるかを樹上に引き上げさせたのだ。
狐面が茂みから現れたのは、ほんのわずか後のことだった。
森の中に気配を溶け込ませた草人を、他の種族が捜し当てるのは不可能に近い。
遠ざかっていく草を踏み渡る音も消え、冴空は細くゆっくりと息を吐き出した。
相手に聞こえてしまうのではないかというほど激しく脈打っていた心臓は、未だ動悸が治まらずにいる。
冴空が蔓に何事かささやく。草人本来の、人の耳には聞き取ることのできない言語だ。
すると、蔓は生き物のようにゆるりと動き始める。巻き取られたまま梢に隠れるように吊り下げていたはるかを、蔓は太い枝の上にそっと降ろした。
蔓はわずかばかり束縛を緩め、はるかの身体が枝の上に安定するように支えている。
ともかく、危機は乗り越えることができた。あとは一刻も早くはるかを翠の元へ送り届けなくては。
冴空は狐面の男が走り去った方向をもう一度振り返った。
それは紛れもなく、秋良が駆けていった方角だ。
秋良のことも気がかりではあるが、今は自分に課された任務を果たすべきだろう。そのために、秋良は自ら囮になることを選んだのだろうから。
今おかれている状況に差しさわりのないよう、抑えた声でつぶやく。
「兄貴がこんなあっしに、大事なお人を任せると言ってくれなすってん。なんとしても無事に送り届けんば……」
冴空は木々の枝や蔓を巧みに操りはるかの身体を運ばせながら、翠がいると思われる沢の上へと急いだ。
低木の枝が振れ、葉と葉が擦れ合う音が続く。下草の生えた森の土を休みなく蹴り続ける両の脚に、折れ散った細枝が絡む。
それを気にする間も惜しんで、秋良は駆ける。
少しでも遠くへ――
――わざわざ危険に身をさらすなんて、馬鹿げてる
心のどこかで響く、自身を嘲弄する声。
わかっている。しかし今はそれにも気づかぬふりで。
緩やかに下り始めた斜面に立ち並ぶ木々の間を縫って走った。
奴をあの場所から引き離さなくては――
――こんなことをする必要があるのか? 何故だ?
なぜ――?
投げかけられたその問いは、秋良の中に波紋を起こす。波紋の広がりは水面に起きたそれと同じ速さで、無視できないほどに広がっていった。
知らず、走る速度が落ちていく。
――厄介ごとは放っておけばいい。今までそうして生き延びてきただろう?
「――!」
秋良はその場に踏みとどまった。同時に抜き放った一振りの小曲刀を油断なく身構える。
誰かの……女の、声が聞こえたようだった。
精神を集中し、五感を研ぎ澄ませていく。
かすかな物音、視界に映るわずかな違和感、空気の流れすら逃さぬよう。
獲物を探す豹のように呼吸をひそめ、鳶色の瞳が周囲を探る。
気のせいではなかった。
今度ははっきりと聞こえる。絶えることのない風に鳴る葉音に紛れた、忍び笑う女の声。
かすかに届く声は近く、遠く――木霊のように反響し、その元を探り当てることができない。
秋良の胸に焦燥が満ち始めたそのときだった。
「なぁんだ、違うじゃない」
興を削がれた落胆を残さず注ぎ込んだような声色は、右後方の樹上。
振り仰いだ秋良が見たのは、想像していなかったほど幼い少女の姿だった。
【草人】環姫より生み出された六種族のひとつ。魔竜の乱時には、その特性を活かして斥候、陽動隊として各地で活躍した。が、基本的に創世の時より木霊森から出ることは稀である。冴空のように自ら外界に出る者は、少なくとも草人の記録には残っていない。
【風凛】守護石と共に長く木霊森に座していた星見巫女。創世記には環姫を助けるために共に天界より遣わされたとある。その後も、巡礼の儀ごとに珠織人が星託を受けていた。が、何故か魔竜の乱を予見することはできなかった……。




