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明らかな双月の下、遥かなる地へ  作者: 蝦夷縞りす
漆・秘められた過去
113/141

漆・暗影 後



 同じ頃、別の場所で秋良も。腰に提げた二振りの小曲刀を両手に油断なく身構える。


 前方――木々の疎影を受けて、ひとり立つ男があった。

 骨ばった痩身をぴたりと包む紺青の衣は、袖や裾の口が妨げにならぬよう白く細い布で巻きとめている。

 黒髪を頭頂部で結わえた同様の白布が、長い毛先と共に風にたなびく。


 なにより秋良の眼を奪ったのは陶磁の顔だった。白く滑らかな表面に、血化粧のごとき流線模様を施した狐の面。

 細い曲線にくりぬかれた狐の眼――その奥から、男の視線が秋良を射抜く。


 この男が緑繁国(みどりもゆるくに)で、はるかたちの前に現れたことを秋良は知らない。

 その時は深手を負って意識を失っていた。竜気を開放した翠と互角に戦った男という事実も知らない。

 それでいながら、秋良の本能が告げていた。


――この男と戦ってはいけない。


 しかし、すでに逃げることもできなかった。下手に動けば、それが命取りになる。


 どちらも動かない。

 静寂の中、休まず流れる風が木々の枝を鳴らす音だけが響く。


「――っ」


 秋良が背後に向けて半身に身体を開いた。ほんのわずか葉鳴りに混じった異質な音を感じたのだ。刹那、頬に走る風。

 遅れて頬ににじむ血と痛みを感じながら、小曲刀を前方に振りかざす。


 鈍い金属音と共に、右の小曲刀に襲いくる衝撃。

 狐面の、背中に背負った直刀を抜き放つ勢いのまま振り下ろされる斬撃に合わせた。

 受け止めはしない。当てた一瞬のうちに身をずらし、直刀の軌道から逃れる。


 相手の力が流れるように逸らしたにもかかわらず、右腕には痺れが残っていた。

 あの細い身体のどこからこれだけの力を発揮しているというのか。


 息をつく間もなく左から迫る剣気。

 上体をひねる秋良の左腕をかすめていくのは、細い二日月を思わせる曲刀だった。

 回転しながら宙を舞う弧月刀を狐面が受け止める。秋良を背後から襲った初撃の一太刀も、この飛来する曲刀によるものだったのだ。


 弧月の刃と豪壮たる幅広の直刀。交差に放たれる上段からの斬撃を後方に跳んでかわした――はずが。

 胸元まで伸びる刃に、秋良は限界まで上体を反らす。その上を回転する弧月刀が抜けていく。

 片手をつき横転しながら体勢を立て直すも、すでに狐面は秋良の眼前に迫っている。

 矢継ぎ早に繰り出される直刀の攻撃。秋良は猫を思わせる敏捷さと巧みな小曲刀さばきでかわしていく。


「くそっ」


 秋良は小さく毒づいた。


 一撃一撃が重い。

 骨と皮のみにしか見えない細い腕から繰り出されたとは思えない。加えて反撃する余裕すらない速さ。

 このままでは体力を消耗する一方だ。そして、いずれ――。


「――!」


 熱い痛みが右腿をすり抜ける。背後から飛んできた弧月刀だ。直刀による攻撃は、秋良を弧月刀の軌道上に誘導するためのものでもあったのだ。

 何とか直撃は避けた。しかし、かすり傷というには余りある深さ。服の裂目にたちまち血が染む。


 回転する弧月刀は大きな弧を描き、計算されたように林立する木々の間を抜けていく。

 音さえなく滑空するそれは、狐面の手へ戻ると同時に宙へ放たれる。

 弧月刀は、痛みにわずか身体を沈めた秋良の上を抜けていった。


 運良く弧月刀を避けた秋良の右斜め後方で、思わぬ音が響く。

 なにかがどさりと落ちる音と鈴の音色。そして、


「ひあっ!?」


 聞き覚えのありすぎる間の抜けた悲鳴。

 足を滑らせてしりもちをついたことで、はるかも運良く弧月刀をやり過ごしていた。


 狐面が踏み込む音に、秋良は反射的に動いていた。


「させるかよ!」


 はるかのいる方へ駆ける狐面の正面に回りこむ。


 横へ一閃、なぎ払われる直刀。

 右から迫るそれを、反射的に右の小曲刀で迎え撃つ。

 この角度、受け流すには無理がある。即座に左の小曲刀を後ろから交差に重ねて補強する。


 金属の衝突音。同時に高く弾ける金属音が鳴る。

 狐面の強刃の衝撃を受け、後方に跳び退る形になった。

 秋良の眼に、根元から折れた右の小曲刀の剣先が舞う様が映る。勢い良く跳ね上がった剣先は狐面の右腕に突き立つ。


 その隙を見逃しはしない。

 使い物にならなくなった右手の小曲刀を捨て、空いた手で懐の飛苦内を四本まとめて放つ。細長い刀身を持つ刃が空を切る。

 払いのける狐面の腕を逃れたのは、あえて遅らせて放った一本。狙い違わず狐面の一点へ吸い込まれていった。


「うぐ……」


 しわがれた声。狐面が左眼を押さえて怯むその前に、すでに秋良は身をひるがえし走り出していた。

 通りすがりに、地面にしりもちをついたままでいるはるかの腕をつかむ。


「わっ」


 無理やり立ち上がらせられる形になり、はるかは思わず声をあげる。秋良はかまわず、そのまま引きずるように連れ去る。


「秋良ちゃん、脚に怪我――」

「黙って走れ!」


 傷が痛まないわけがない。腿の傷口からは絶えず血が流れているし、右足を踏み込むたびに傷が疼く。

 だが、それを気にする時間すら惜しい。

 今与えた傷だって、相手の動きをさほど縛るものではないだろう。それでも、片眼を奪ったことが少しはこちらに有利に働くはず――。


 秋良ははるかの頭に手をのせて押し下げた。

 ふたりの頭上を弧月刀がかすめ飛ぶ。


 走る速度はそのまま、一瞬振り返り後方を確認する。まだ距離は離れているが、すぐに追いつかれるだろう。


 弧月刀をかわすために向きを変えながら走り続け、秋良は足を止めた。

 急に立ち止まった秋良の背中に、はるかが衝突する。

 眼前には遥か見下ろす沢が横たわり、右手は高くそびえる断崖に塞がれていた。


 舌打ちし、秋良は左へ向きを変えて駆け出す。

 が、それはかなわなかった。


「お早いお着きだぜ、まったく」


 おどけた言葉とは裏腹に、秋良の声と表情には余裕のかけらもない。


 行く手をさえぎる狐面の男は、秋良に受けた傷をものともしていないかのようだ。

 右の眼に飛苦内が突き立ったままだというのに。

 その身は揺るぎもせず、呼吸ひとつ乱れていない。


――どうする?


 こちらはふたり。とはいえ、はるかは体調が万全ではない。ここまで走ってきただけで、もうかなり息が上がっている。到底戦うのは無理だ。

 加えて、自分は小曲刀の一振りを失っている。戦って勝てる見込みは、ない。


 ならば逃げるしかない。

 秋良は左手の小曲刀を利き手に持ち替えた。


「はるか、隙を見て来た方へ走れ」

「えっ」

「わかったな!」


 はるかを突き飛ばし、秋良は狐面へ向けて疾走する。

 同時に、狐面も動いた。秋良の攻撃をかわし、はるかへと向かう。


「くそっ」


――やっぱりこいつ、はるかを狙って――!


 両足で踏みとどまり、秋良は横をすり抜けた狐面へ小曲刀を振るう。曲線を描く刀身が、狐面の背中に突き立つ。

 刹那、衝撃が腹部を襲う。


「かはっ!」


 おそらくは直刀の柄による打撃。

 視認することができないほど素早く、かつ秋良の死角から放たれていた。


 世界から音が消える。

 ひどくゆっくりと、周囲の景色が前方へ流れていく。

 血の染みが黒くゆっくりと広がっていく狐面の紺青背が。こちらへ駆け寄ろうとするはるかの姿が。

 遠ざかり、下からせりあがってくる岩肌に遮断される。


「――っ!」


 痛みに遠のきかけていた意識を取り戻し、秋良は左手をめいっぱい上に伸ばす。

 左手が、崖の端に突出した岩にしがみつく。沢へ落下しようとしている全体重が左腕にかかった。先刻受けた狐面からの傷が悲鳴を上げる。

 が、先に音をあげたのは左腕ではなかった。


 つかんでいた岩が衝撃に耐えかねて崖を離れる。

 支えを失った身体は、重力に引かれ落下を始めていった。



【孤月刀】細く弧を描く、新月より二日目の月を思わせる細身刀。投擲により回転、旋回し手元に戻ってくる。


【飛苦内】秋良の使用する飛道具。日本の忍が使用するそれよりも細身で直線的な形状をしている。


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