漆・暗影 前
風裂を発って三日目。当初の予定にはなかった事態が歩みを遅らせていた。
はるかは木の根元に座り、幹に身体をもたせかけて苦しげに息をついている。ようやく深呼吸で息を整えるだけの余裕ができてきた。
野営地を出発してすぐに一度目。昼過ぎである現在が二度目。風裂のときと同じく、胸の苦しみを訴えて倒れたのだ。
栞菫の身体は、双月界のどこかにある核と彩玻動によって繋がっている。
六つの守護石のうち五つまでを失い、双月界の彩玻動流は非常に不安定な状態だ。必然的に核と本体との繋がりも希薄となり、身体に不調をきたしているのだと。
それが、諜報隊を介した翠の報告に対して三長老が出した回答だった。
一刻を争う旅路と、はるかの不調による日程の遅れ。
表には出していないものの、翠も少なからず焦りを感じているのだろう。
それを察してか、はるかは蒼白になった顔に無理に笑みを浮かべようとしている。
汗で額に貼りついた金茶色の前髪を指でよけ、翠が手渡した竹筒製の水筒を受け取った。
持ち上げるだけの動作も辛いのか、ゆるりと水筒をあおる。が、すぐに口から離された。水筒の中には、はるかの喉を一口分潤すだけしか残されていなかったのだ。
と、はるかの手から水筒が消えた。
「あ」
行方を追って見上げた先に、水筒を手にした秋良が立っている。
いつもと変わらぬ気だるげな表情の彼女は、水筒にくくられた紐を腰帯に引っ掛けた。
「そっちもよこせ」
秋良ははるかの横に置かれた背負袋から空の水筒を取り出すと、踵を返し歩き出した。
絶えず風が流れる風翔国では、常に草木の葉鳴りが辺りを満たしている。それに紛れて届く微かな水音に気付く者はそうはいない。
しかし秋良の研ぎ澄まされた聴覚と、かつてこの辺りを旅した土地勘が、行く先に水の流れる沢があると告げていた。
「待て」
呼び止める翠の声に、秋良の足が止まる。
「ひとりで行動するのは」
「ひとりで充分だ」
翠の言葉にかぶせて、秋良は振り向くことなく言い放った。
歩みを止めたのも一瞬のこと、秋良の身体は茂みの向こうへと分け入っていく。
その先に続く斜面を足早に下る。
行く手を遮る丈の長い草や横から迫り出す小枝を、いらだつ心にまかせて荒々しく払いのけながら。
――これ以上、我々に同行する必要はない。
風裂で告げられた翠の言葉が脳裏に蘇る。
――このままでは、命を落とす。
言われずともわかっていた。
翠の言うことは正しい。
はらわたが煮えくり返るほど悔しいが、的を射ている。
『運び屋の秋良』。
名を聞くだけで大抵の者は恐れおののく名うての賞金稼ぎ。
噂に恥じぬ実力と、幾多の危機をくぐりぬけてきた知恵と。何があろうとひとりで切り抜けていけるという自信。
それら全てが自らの驕りであったということを、竜人族や妖魔六将は完膚なきまでに叩きつけてくれた。
妖魔六将とまともにぶつかっては、勝つ負けるなどの次元ではない。一対一で戦ったとしても、生きていられる可能性すらないに等しい。
「くそっ」
横に立つ木に拳を打ちつけた。鈍い音と共にじんわりとした痛みが拳に広がっていく。
なぜ、離れることができないのだろう。
巡礼の儀に同行することを決めたのは、自分の目的に通じる利があったからだ。
双月界の各国を回る旅は、行方知れずとなった兄や『あの男』を探すのに都合が良かった。
だが今、はるかたちと共にあることで命の危機に晒されているのだ。
行動がもたらす利と、それに伴う害とを秤にかける。害が利を上回るのであれば、その行動は避けるべきだ。
これまでだって、そうして生き抜いてきたのだから。
今、自分をこの旅に縛り付けているものは何だ――?
ふと、微かな音が聞こえた気がした。
同時に全身に警鐘が鳴り響く。
ほぼ無意識のうちに、秋良は身を低くする。その頭上すれすれを旋廻する何かがかすめていった。
視認することはできなかったが、それが通った軌跡には分断された木々の枝が残されている。気付くのがあと一瞬でも遅かったら、秋良の首も同様の運命を辿っていただろう。
背筋が凍ったのは、それだけが理由ではない。
後方から忍び寄る凄まじいまでの殺気――。
秋良は振り向き様に、腰に提げた左右の小曲刀を抜き放った。
先程と変わらず木の幹に身体を預けながら、はるかは秋良の姿を飲み込んだ茂みを眺めていた。
翠の言うことには、秋良が向かった沢はさほど遠くはないという。
すぐに戻ってこれる距離ではあるし、秋良ならば大抵のことは一人で切り抜けられるだろう。
そう思っていても、つい口から呟きが洩れる。
「秋良ちゃん、大丈夫かなぁ」
その時。はるかの手元から小さな、よく通る音が聞こえた。
鈴の音――澄んだ音ではないが、どこか懐かしさを感じさせる響き。はるかは視線を落とした。
帯に提げていた鈴のお守りだ。
渋味の赤と紫で編まれた紐の先には燻した銀の小さな鈴。鈴の表面には細かな紋様が掘り込まれている。
風裂で出逢った占い師の老婆にもらったものだった。
今までどれだけ揺すっても音一つしなかったそれが、突然鳴り始めたのだ。全く力を加えていないにもかかわらず、激しく揺すられているが如き音色を響かせ続ける。
――危険が迫ると音が鳴る。
老婆の言葉を思い出し、はっと秋良の消えた方角を見やる。
――危険が……? ひとりでいたら、秋良ちゃんが――!
突如立ち上がり先程までの様子が嘘のように駆け出すはるかに、翠も一瞬気付くのが遅れた。
「はるか、どこへ――」
秋良同様茂みの奥へ消えたはるかの姿を追って飛び込んだ翠は、足を止めた。
静まり返った山林の風景。
天頂を過ぎた太陽が木々の陰を、草の繁る斜面に落としている。
その影が動いた。
翠の周囲を取り囲む位置にある九本の木の影を、まるでそのまま地面から引き剥がしたかのように。
影たちはするりと起き上がり翠の行く手を塞ぐ。
はるかの向かった道を遮った影の一つが、左右に切り裂かれた。
翠が腰に提げた刀を、抜刀のままの勢いで下から斬り上げたのだ。その隣に立つ影も返す刀で斜に斬り下ろす。
ひらりと舞い落ちる影の間を縫って駆け出す翠の行く手を、さらに別の影が遮る。
いや、遮ったのは同じ影。翠が断った影は再び立ち上がり、元の通りの形に繋がったのだ。
斬った手ごたえがまるでないのも道理、相手は影なのだから。
だが――。
翠はほんの僅か視線を左腕に送る。
そこには鋭い木の枝に突かれたようなかすり傷が血を滲ませていた。
相手はこちらに触れることができる。
はるかの姿は視認できないほど遠のいていた。
早く後を追わなくては――。
周囲を囲み次第に輪を狭めてくる木の影たちに、翠は怯むことなく刀を構え直した。
【巡礼の儀と守護石】六つの国にそれぞれ配された守護石は、双月界を構成する彩玻光の循環――彩玻動流を正常に保つための機能を果たしている。守護石を守る結界が弱まらぬよう再び力を与えるべく、珠織人の長である聖が十年に一度行なうのが巡礼の儀だ。
魔竜の乱が起きて以来巡礼の儀は途絶え、結界はその効力を失いつつある。
相次ぐ守護石の破壊により、彩玻動流が乱れている。拡散する彩玻動は各地で希薄になっている。
【栞菫の核】もし、どこかにある栞菫の核から届く彩玻動が途絶えてしまったなら。もしくは、何らかの形で核が破壊されるようなことがあれば。栞菫の命は失われてしまうだろう。
また敵の手中に落ちてしまったなら。栞菫の危険はもとより、並ならぬ彩玻動を内包する稀石姫の核は、敵に強大な力をもたらすことになる。




