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明らかな双月の下、遥かなる地へ  作者: 蝦夷縞りす
漆・秘められた過去
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碌・願い 後



 はるかはゆっくりと、膝からその場にへたりこんだ。

 目の前にある竜谷(りゅうこく)の入口が過去ではなく、はるか自身の眼で見ているものだと遅れて気がつく。過去の栞菫(かすみ)を通して見た洞穴は、今この時と同じく結界が解かれた状態だったからだ。


 気配を察し、歯車のゆがんだ仕掛人形のぎこちなさで後ろを振り向いた。数歩離れた位置に秋良と(みどり)が立っている。

 秋良は、はるかの様子に息を呑んだ。


「また、白昼夢か?」


 

 意図せず控えめの声になってしまったその問いかけに、はるかは首を横に振った。


「ううん、ちょっとめまいがしただけ」


 笑みを浮かべようとしたのだろうが、血の気の引いた白い頬はわずかにしか動かなかった。

 翠が歩み寄り、はるかの腕を取りそっと立ち上がらせる。


「休んだ方がいい。ここは今でも竜人族の出入りに使われることがある」


 はるかは、まだおぼつかない足取りで翠と秋良について歩く。


 白昼夢で知ってしまった事実。

 あまりにも衝撃的な真実に全身の感覚は麻痺し、未だ白昼夢の中にいる心地さえする。

 つい先刻まではあんなに輝いて見えた林の風景ですら、今のはるかには色褪せた模型のように映っていた。


 栞菫は、良夜(りょうや)を想うあまり竜谷を封じる結界のひとつを解いた。


 そこから十年後の巡礼の儀で、これまでと同じように良夜に会いに行ったのだろう。

 良夜が栞菫の手を引き、林の中を泉に向かって駆け出すあの光景。結界越しではなく、初めて同じ空間に立つことのできた喜び。

 白昼夢を通じて感じた栞菫の想いを、はるかは今も克明に思い出すことができる。


 初めて触れる手のぬくもりは、梢から洩れる陽射しのそれに似て。振り向き微笑みかける良夜の金色の瞳は、胸が痛くなるほどの優しさに満ちていた。

 それに触れた栞菫の心は、言いようのない喜びがあふれていたのだ。


 しかし二年後――竜人族により結成された『魔竜士団』が、地響国(ちなるくに)風翔国(かぜかけるくに)の守護石を破壊し『魔竜の乱』が始まる。


 栞菫は自らの行動を悔いた。

 自分の望む未来のために取った行動が、多くの命を奪う結果となってしまったのだ。

 その罪の意識と呵責が、彼女を戦いへと向かわせることとなる。


 栞菫の決意は誰のどんな言葉でも揺るがないほどに固いものだった。


 双月界(そうげつかい)の民のために必ずこの戦いを終わらせる。

 これからは稀石姫(きせきのひめ)としての責務を果たす。

 たとえ栞菫としての全てを失うことになったとしても――。


 野営地とした窪地にある木陰で、はるかは毛布にくるまり横になった。どのようにその場にたどり着いたか記憶が定かではない。

 あの時から今もなお、胸中は栞菫の想いと自身の感情の渦に巻かれている。


 結界を解き、自ら戦の引き金となってしまった栞菫の苦しみ。

 戦の中で散った呉羽(くれは)から(ひじり)を継ぎ戦うことを誓い。

 夜天を失った魔竜士団の新士団長に良夜が着任したと知りつつ、一対一の戦いをもって戦を終わらせようとした。


 栞菫の、誰にも明かす事のなかった想い。

 それは翠や白銀(しろがね)ですら知らなかった。ずっと、栞菫ひとりの胸の内に――。


「――眠れないのか?」


 小さな声に、はるかはわずかに身を起こした。

 声は見張りに立っている秋良のものだ。翠は諜報隊員と連絡を取るためにその場を離れている。


 秋良は、はるかの寝床からそう離れていない位置にいた。

 倒木の上に腰を下ろし、立てた片膝の上に頬杖をつくようにしてこちらを見下ろしている。

 背後には黒く連なる梢の影と、それに縁取られた宵藍色(よいあいいろ)の海に浮かぶ蒼月(あおのつき)。蒼い光を受ける秋良の姿は、共に幾度となく渡った沙流(さる)砂漠の宵の口を思い起こさせた。


 冷たく、鋭く、何者も寄せつけない研ぎ澄まされた刃。

 冴え渡る蒼銀の光を浴びる秋良は、彼女が舞わせる小曲刀さながらの美しさを思わせるのだ。


 その姿に見とれたはるかに気づかず、秋良は小ばかにしたように口の端を上げた。


「珍しいな。横になったらすぐに寝て、妖魔が襲ってきても起きないほど熟睡するお前が」

「うっ、まだ覚えてるの?」


 緑繁国(みどりもゆるくに)で初めて野宿をしたときのことだ。

 見張りに立っていたはずのはるかが熟睡してしまい、結局翠と秋良が妖魔を倒し終わっても眼が覚めなかった。

 それ以来、はるかは見張りから外されている。


「少しでも身体休めておけよ。また発作を起こされでもしたら迷惑だ」

「……うん」


 突き放すような言い方だが、はるかのことを心配して言っているのに違いない。

 もっとも秋良に確認したところで、足手まといになられると困るからだ、などと言うのだろう。


 出会ったばかりの頃は、秋良が本気でそう思っているものだと思ったものだった。

 いや。半分は本気。もう半分は彼女の思いやりであることを、今のはるかは知っている。


 本人は隠そうとしている。隠そうとするから、冷たい言い方になるのだ。

 それでも、言葉や表情の端々に僅かにそれがのぞくときがある。

 ここに来る途中の山道で風裂の街について語っていたときのように――。


――だからこそ、風裂から離れられないんだろうな。出てった奴等が帰る場所がなくなる。


「秋良ちゃんの帰る場所は、どこにあるの?」

「何だよ急に」

「だって、陽昇国(ひいづるくに)に来る前は違うところにいたんでしょう?」

「いいだろ、どこだって」

「良くない!」


 突然声を上げたはるかに、秋良は驚きをたたえた鳶色(とびいろ)の瞳を向けた。

 はるか自身も自分の声に驚いている。反射的に口に当てた手をゆっくりと降ろしながら、おずおずと秋良を上目で見つめ返す。


「良くないよ……だって、そこには秋良ちゃんを待っててくれる人だっているんじゃないの?」

「……」

「え?」


 秋良ははるかから視線をそらし、何事かを呟いた。

 小さな声を聞き逃したはるかが聞き返すと、秋良は小さな溜息をついて繰り返した。


「ねぇよ」

「ない……って?」

「もうないんだよ。存在しない」


 淡々と告げる秋良は、いつもと変わらず端正な顔で物憂げな表情を形作っている。

 そこからは悲しみも怒りも、わずかな感慨すらも見出す事はできなかった。


「……それって、お兄さんがいなくなったことと関係してるの?」


 秋良の横顔を見つめているうち、自然と口をついて出たはるかの言葉。

 返答はなかった。

 彼女の沈黙の中に込められた、強い拒絶。

 時折感じる痛々しいまでの強さを持つそれに、はるかは触れることができない。


 絶えず風にそよぐ眼の前の草を見るともなく見つめながら、はるかはぽつりと呟く。


「強く願えば、きっと叶う――」


 それは時折見る、透明な青の夢。

 姿なき女性の声が告げるその言葉に、何度支えられてきたことか。


「誰の言葉かもわからないんだけど、ずっと私の中にある言葉。優しくて暖かくて、いつも私を勇気付けてくれるの」

「そんな神頼みみたいなもの、あてになるかよ」

「違うよ」


 秋良の言葉を、はるかはやんわりと否定した。


「強く願うからこそ、願いをほんとうにするためにどうしたらいいか考えるの」

「……」

「辛くても、強く願うからあきらめずにいられる。だから……」


 秋良には、はるかの声だけが届いていた。

 視線を向けずともわかる。

 はるかはいつものあの笑顔でこちらを見ているのだろう。


「秋良ちゃんにも勇気の出る言葉をおすそ分け。強く願えば、きっとお兄さんに会えるよ……」


 なぜ、信じることができる?

 まったく根拠もない、そんな言葉を。


 何も考えずに踏み出した一歩が、崖を踏み外すことだってありえる。

 だからこそ、いつでも不測の事態に対する、心と思考の備えが必要だというのに。

 物事が成功するのはそれらに基づく行動があってこそ。

 それでも届かぬ場合だってある。


 きっと叶う――?


 そうそう事がうまく運ぶわけがないのだ。


 出会ったときから、はるかはいつもそうだった。

 疑うことを知らず、どんな状況にあろうとも楽観的に考える。


 だが、それが時に強い力を持つのだということを。

 はるかを通じて秋良は知ってしまった。


 秋良は胸の内に湧き上がる苛立ちを抑えられず、舌打ちと同時に前髪をくしゃりとかきあげた。

 息を吸い込みはるかを振り向く。


 その口から発せられるべき言葉は、深い溜息として吐き出された。


 辺りを再び静寂が包む。

 軽風に草木が触れ合う音に、はるかの小さな寝息が混じり始めていた。


【白昼夢】栞菫の過去にまつわる場所や光景などを引き金に起こる。はるかの意識は内に向かい、記憶の中の栞菫視点で過去を追体験する。


【聖】珠織人の頂点である位。珠織人は珠織の儀により結晶石(宝石の原石のようなもの)から生まれる。聖にのみ伝えられる秘儀であり、戦の最中命を落とした呉羽は栞菫に聖を譲る以外なかった。聖の継承が断たれることは珠織人の破滅を意味するからである。


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