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明らかな双月の下、遥かなる地へ  作者: 蝦夷縞りす
漆・秘められた過去
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碌・願い 前



 登り続けた山道は緩やかになり、密生していた木々もまばらになり始めた。


風翔国(かぜかけるくに)って、ずっと風が吹いてるんだね」


 はるかの声に(みどり)が答える。


「名の通り、ここは風の彩玻動(さいはどう)が満ちている国だ」

「あっ、だから緑繁国(みどりもゆるくに)は森がたくさんだったんだ!」


 はるかの後ろで、秋良は『何を今更』という顔をしている。

 それが見えないはるかは、のんきに周囲を見上げた。

 木々は枝先が触れ合うほどの間隔でお互いを妨げぬように身を置き、心地良い風が揺らず枝葉からは黄金色の夕陽が零れ差す。

 その光景に、はるかはふと立ち止まる。


――なにか、何かが引っかかるような……。


「おい、ぼけっとすんな」

「あいたっ」


 後ろから頭を小突かれ、はるかは我に返る。秋良ははるかを追い越し、先を行く翠に告げる。

 その声は意図せずして棘のあるものになっていた。


「そろそろ野営地を決めとくべきなんじゃないか? 水だってもうねぇんだ」

「あ、そうか……」


 はるかは小さく声を洩らす。

 水筒を空にしてしまったのは、はるかなのだ。

 風裂(かぜさき)の街で倒れて以来、体調が思わしくない。普段通りの行動に支障が出るほどではないのだが、少し身体が重く妙に喉が渇く。

 ここまでの道のりの間に自分の水は飲み干し、秋良の分も残り少なくなっていた。


 はるかは右手の林を振り向き、奥を指さす。


「水なら、あっちの方に泉があるからそこで汲もうよ」


 言い終えてはるかは、翠がじっと眼差しを向けていることに気がつく。


「えっ、な、何?」

「お前が根拠もなくそんな事言うからだろ」


 秋良が言うが、翠は首を横に振った。


「いや、確かにその方向には泉がある」


 右手奥に向かって二十間ほど先へ向かう。

 柔らかな下草に覆われた平坦な地面に、間隔をあけてたたずむ樹々。それらに囲まれ、ひっそりと泉が湧き出ている。

 光と、風と緑――。


「あ……」


 はるかの記憶の中に、かつて見たふたつの白昼夢が思い起こされる。

 黒髪の少年――幼き日の良夜(りょうや)に手を引かれ、泉へ向けて駆ける栞菫(かすみ)の記憶。

 そして、泉のほとりで良夜と栞菫が語らうのを見ている記憶。

 間違いない。この場所だ。


「だとしたら、きっとあっちに……」


 突然、はるかはある方向へと向けて走り出した。


「おい、待てって!」


 駆け出すはるかを止めようとした秋良の腕が、翠に掴まれる。


「記憶が戻りつつあるのかもしれない。このまま後を追おう」


 翠の手をうるさそうに振り払い、秋良は後を追って走り出した。

 はるかの後姿と一定の距離を保ちながら秋良は走る。その心には、形容しがたい重いものがわだかまっていた。


 木々の間を走り抜け、やがて道は下っていく。

 人がふたり並んでやっと通れるかどうかの細道。下るにつれ、道の両脇を固める岩壁が高くなる。


 行き着いたところは、岩に囲まれた空間だった。

 風が、岩沿いに渦を巻いて吹き上がる。

 天を仰げば、黒い岩影によって小さく円形に切り取られた空。それはまるで井戸の底を思わせた。


 周囲から身を潜めるように円形に落ち窪んだその底は、直径およそ五間ほど。天に開いた円までの高さは十五尺。

 わずかに届く朝日に照らされて育ったのだろう。地面は丈の短い柔らかな草に覆われていた。


 通ってきた細道の正面――突き当りの岩に、ぽっかりと洞穴が口を開く。

 その前に、はるかの後ろ姿があった。


「おい、はるか……」


 追いついた秋良が呼びかける。はるかは洞穴側を向いたまま身じろぎもしない。

 はるかの正面に回りこんだが、彼女の紫水晶の瞳は見開かれたまま、秋良の姿を捉えることはなかった。

 白昼夢――はるかの意識は、栞菫の記憶の片鱗の中にあった。


 周囲の景色が、少し高く感じられる。

 回りが変わったのではない。はるかの眼の位置が低くなったのだ。

 つまりこの記憶は、栞菫の身体が今より小さい頃の記憶なのだろう。


 場所は、白昼夢を見る前と変わらない。

 周囲を円形に取り巻く断崖と、目の前に見える洞穴。

 しかし洞穴の入口は、彩玻光(さいはこう)によってつくられた光の格子で塞がれている。


 栞菫の中に、格子の奥でほほえむ良夜の姿が思い出された。

 良夜と初めて出会ったのは、栞菫が十回目の誕生日を迎えた年だった。

 その年は、父であり珠織人(たまおりびと)の長・呉羽(くれは)が行なう巡礼の儀に、初めて同行を許された年でもあった。


 風翔国での巡礼の儀滞在中、近隣を散策していた栞菫はこの場所へたどり着く。

 そして彩玻光の檻越しに良夜と出会ったのである。


 その年、栞菫は五十回目の誕生日を迎えた。

 巡礼の儀は十年に一度。彼と会ったのは今年を含めて四度。それでも良夜の存在は、かけがえのないほど大きなものとなっていた。

 昨日『明日ここを発つ』と別れをかわしたばかりだったが、出発の前にわずかだけ時間をもらって訪れたのだ。


 良夜は、妹の紗夜(さや)を外の世界に出してやりたいと願っていた。

 一度でいいから生きている草花や動物に触れさせてやりたい、と。

 栞菫も大人しく儚げな彼女を、妹のように思っていた。


 良夜の願いと、妹を想う良夜。

 竜人族ではない自分を慕ってくれる紗夜。

 彼らを大切に思う気持ちがあふれる。


「あなたが、栞菫さんですね」


 突然の背後からの声に、はっと振り向く。


 そこに立っていたのは、全て黒に染められた巫女の儀服に身を包んだ女性だ。

 清楚な顔立ち。底知れぬ静けさを感じさせる鵇色(ときいろ)の瞳がこちらを見つめている。


 栞菫は注意深く女性を見つめた。

 彼女の身体は、背後の景色を透かして見える。実体ではない、ということだ。


「どうして私の事を……あなたは?」

「良夜さんから聞いています。私は朱鷺乃(ときの)。竜人族に縁のある者です」


 良夜の名を聞き、栞菫の中で警戒がほどけていく。


「見ての通り、今の私は精神体――身体のない私は自由に竜谷を出入りする事ができる。だから、私が代表としてあなたにお願いに来たのです」

「私、に……?」

「良夜さんを、外に出してあげたいのでしょう?」


 彼女の言葉が心を揺さぶる。

 この洞穴は、地下にある竜谷と地上を繋ぐ出入り口のひとつ。

 つまり洞穴の奥には竜人族が、その中にはもちろん良夜もいる。


 洞穴を塞ぐ彩玻光の結界を見つめる栞菫に、黒い巫女は先を続けた。


「この結界を解き、自由を得る事が竜人族の願い。それは良夜さんの願いでもあります」


 しかし、竜人族はかつての罪により竜谷に幽閉されている。

 双月界を守護する女神・環姫(たまきひめ)が、竜人族を封じるために施したのがこの結界である。

 それを、解くなどということは――。


「竜人族は天界に叛いたとされていますが、それは偽りなのです」

「え?」

「竜人族の強大な力を怖れた天界が彼らを地下に閉じ込め、その事実を隠すために竜人族に罪を着せた」

「そんな……!?」


 天界がそのような事をするなどと、信じられない。

 しかし黒い巫女は穏やかに栞菫を諭す。


「信じられないのも無理はありません。しかし例え罪を犯していたとしても、当時の竜人族はほぼ残っていません。子孫である良夜さんたちに罪はない。そう思いませんか?」

「……」

「環姫のうつし身である稀石姫。あなたなら、この結界を解くことができる――いいえ。あなたにしか、彼を自由にする事はできないのですよ」


 栞菫の中で、感情と理性がせめぎ合う。

 強く閉じられていた紫水晶の瞳が開かれた。白い手のひらは、ゆっくりと彩玻光の格子へ伸ばされていく。


【幼い栞菫】珠織人は五十年かけてようやく人間の二十歳前後にまで成長する。良夜と出会った頃は、まだ十歳にも満たない子供だった。


【呉羽】栞菫の父、故人。稀石姫でもある栞菫に幼い頃から英才教育を施す。


【朱鷺乃】妖魔六将のひとり。緑繁国での戦いでは、守護石から解放された姿で現れた。


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