碌・老人と狗 前
家具などの類は一切置かれておらず、扉と対になった壁に枠だけの窓がひとつ。
そこから差し込む夕日だけが、部屋の中を満たしている。
床も張られていないむき出しの地面に十字に伸びた窓枠の影。
その上に重なる人影がある。
窓の前にひとつ置かれた椅子に腰かけている者の影。
逆光のため影の主も黒い塊にしか見えないが、声の主の老人だろう。
はるかがまぶしさに耐えながら姿を確認すべく眼を細めた。
刹那、秋良はその人物に向かって何かを投げつけた。
驚いたはるかは、投げられたものを見てさらに驚く。それは運んできた白い小箱だった。
そして何より、秋良が力いっぱい投げつけたであろうそれを、老人とは思えない素早い動作で受け止めたのだ。
「どういうつもりだ、てめぇ!」
秋良の怒声に、老人は小さな笑いを漏らしながら立ち上がった。
「あ!」
はるかは思わず声を上げた。
茶色の長衣。目深に被った頭巾からのぞく口元。
腰は曲がっておらず両の足でしっかりと立っているが、間違いなく仕事を依頼した老人だった。
受け止めた衝撃で木箱は破壊され、老人が手にしていたのは箱にちょうど収まっていたであろう大きさの黒い球だ。
「約束の時間に間に合いましたな。あの数の妖魔を相手に、なかなかの腕前」
「妖魔って……」
はるかが聞き返すと、老人は右手に乗せた球を満足そうに眺める。
「この黒水晶によって妖魔を呼び寄せ、お二人の戦いぶりを拝見させていただいたのじゃ」
「道理でな。おかしいと思ったぜ」
秋良はぎり、と歯噛みし老人をにらむ。
「じゃが……」
老人と視線がかち合い、はるかはびくりと身を震わせた。
彼の頭巾の影からわずかに見て取れる眼。
「まだまだ、確証を得るための材料が足りない」
その温厚そうな声からは想像できないほどの、獲物を捕らえる獣のような視線――。
動けない。
恐ろしくて、視線を逸らしたいのに、できない。
怖い。
息が、できない――。
「何訳わかんないこと言ってやがる」
秋良が苛立ちをを顕わにに老人との間に割って入った。
視線が途切れ、はるかははじかれたように大きく息を吸い込んだ。
酸素を取り込み、そして吐き出す。
あのまま見つめられ続けていたら、どうなっていたのだろう。
「荷物は確かに渡した。仕事は完了だ。行くぞ、はるか!」
踵を返し秋良が小屋を出ようとしたその時。
開け放したままだった扉が勢いよく音を立てて閉じた。
秋良は扉に手を掛けたが、簡素なつくりのはずが押しても引いてもぴくりともしない。
蹴り破ろうかとも思ったその時、はるかが秋良の腕をつかんだ。
「あ……秋良ちゃん」
はるかを見、視線を追い、はるかが怯える理由がすぐにわかった。
同時に身を固くする。
老人から邪悪な気が放たれているのを感じたのだ。
老人の口からは耳にしたことがない響きの言葉が紡がれていく。
呼応するように、手元の黒水晶が黒い光を放っている。
いや、光ではなく、闇というべきか――。
こいつは危険だ――!
直感した秋良の判断と行動は迅速だった。
地面を蹴る。跳ぶと同時に腰に提げた一対の小曲刀を抜き放ち、一瞬で間合いを詰めた。
はるかは見た。
秋良が老人の眼前に迫る直前。
老人が嘲笑うように口元を歪ませ。
闇を氾濫させた黒水晶を床へ叩きつけたのを。
「秋良ちゃん!」
「うっ!」
秋良の眼前に黒いものが膨張する。
闇――眼を開いているはずなのに、一瞬にして漆黒が秋良を包む。
驚きは瞬時に恐怖へととってかわる。
全身が、闇に呑まれていく感覚――。
一瞬にも数分にも感じられた時の後、闇の圧力に弾かれた秋良がはるかの足元に投げ出される。
慌ててはるかが助け起こす。
秋良の額には汗がにじんでいる。
解放された安堵感によるものか、闇の影響か、すぐには動けなかった。
何とか自分を落ち着けようと秋良は呼吸を整える。
あとちょっとでもあの闇の中にいたら、悲鳴を上げているところだった。
膨れ上がったはずの闇は五尺の大きさまで凝縮し、紫電を放ちながら形を成していく。
狼ほどの大きさを持つ、四足の獣。
鰐のように大きい口と長い尾。短く太い四肢。全身を包むのは獣毛でも鱗でもなく、灼熱する炎だった。
身の毛もよだつような低い咆哮を上げたとたん全身の炎は光を増し激しく揺らめく。
屋内の両端で対峙しているにも関わらず、ここまで熱が伝わってくる。
「炎狗!?」
「なんだって……?」
秋良は生まれて初めて目の当たりにする得体のしれない存在と、それをはるかが知っていたことの両方に驚く。
老人は二人の様子を楽しむように眺め、忍び笑いを漏らした。
「さぁ。内に秘めたる力、見せてもらおう……行け、炎の使いよ。わが命に従え」
老人の足元で、炎狗はのそりと向き直る。
蛇に似た縦長の瞳孔を持つ瞳には自身の炎と倒すべき獲物を映していた。
うっすらと開かれた耳まで裂けた口元の奥に炎が揺らめいている。
次の瞬間、ぱっくりと開いた口から紅蓮の炎が勢いよく吐き出された。
炎が二人の視界を覆う。
眼に映るのは、深い、深い灼けるような紅――。
はるかは頭の中に弾けるような衝撃を感じ、視界が真っ白に転じた。
その白さも一瞬。
目の前を支配するのは焔――炎に包まれ、焼き尽くされる大地、草木、そして、逃げ惑うたくさんの人――。
襲い来る炎狗の群れ。
すべてを呑みこんでいく、焔、焔、焔――。
「馬鹿!」
秋良が反応のないはるかに身体ごとぶつかり、地面に倒れ込んだ。
炎は一瞬前まではるかのいた地面を黒く焼き付け白煙を上げている。
「何やってんだ、しっかりしろ!」
地面に身体を打った衝撃と秋良の怒声に我に返る。
「ごめん、今……」
今、炎の中に浮かんだ光景は、いったい何だったのか。
考えている間もなく炎狗は次のひと吹きを浴びせんと息を吸い込んでいる。
秋良は起き上がりざま小曲刀を納めた右手を一瞬外套にくぐらせ炎狗へと振るう。
一直線に閃く二本の光。秋良が右肩から斜め掛けにした革帯に潜ませてあった飛苦無だ。
その刃は音もなく炎狗の両眼を捉えた。
「なっ――!」
秋良は眼を疑う。
飛苦無は両眼どころか炎狗自体をすり抜け、後方の床に斜めに突き立っていた。
老人は愉快そうに笑う。
「大した腕前だが、あいにく此奴には実体がない。魔界の炎で構成された妖獣なのでな」
「秋良ちゃん!」
はるかに言われるまでもなく炎狗が進み出たのには気づいていた。
炎の吐息を予想していたが、巨大な炎の塊が猛進してくる。身体を丸めた炎狗そのものが炎球となり転がってきたのだ。
二人は左右に跳んで何とかかわす。
いともたやすく板壁に穴を開けたその勢いに当たられてはかなりの痛手だ。当然だが火傷ももれなくついてくる。
炎狗は自らが開けた壁の穴の中で丸めた身体をほどき、のそりと向きを変える。
その身を包む炎は壁の木材へと燃え移り黒い煙を上げ始めた。
はるかの視線が炎狗の蛇様の瞳とぶつかった刹那、再び吐き出される炎。
左に逃げたはるかの後ろを追いかけてなお、ほとばしる炎の勢いは衰えない。
角まで走ったところで炎は収束したが、炎狗は低い唸りを喉からこぼしながらはるかへ向けて一歩を踏み出す。
つい先刻、炎狗と眼があったように感じたのは気のせいではなかった。
自分の事を、狙っているのだ。
秋良もそれに気が付いた。
ということは、はるかが逃げ回っている間自分は自由に動ける可能性がある。
老人と炎狗を捉えながら、視界の端に映る穴を確認する。炎は壁板を伝いじわじわと広がっている。しかし木材が厚いのが幸いしたか炎の浸食は早くはない。
とはいえ、天井まで達すれば崩落する天井と炎にまかれてしまうだろう。
何か、手を打たなくては。
炎狗の炎が途切れた合間に、はるかは緊張と恐怖に息を切らしながら助けを求め秋良を見る。
秋良はきゅっと唇を噛み、片膝をついた状態で老人を見つめ動かない。
その視線の先で老人は、はるかと炎狗の動きを注視している。
はるかは気力を振るって老人をにらみつけた。息を吸い込み、凛として言い放つ。
「どうしてこんなことするの!?」
秋良が唇を噛むのは、決まって知識を総動員させて考えを巡らせているとき。
何か画策しているなら、老人の気をこちらに引き付けておかなくては。
老人は相変わらず目深に被ったままの頭巾の奥から、値踏みするかのような視線をはるかに送る。
目元の表情までは見て取れないが、沙里で会った時の面影はかけらもない。
「言ったであろう。試させてもらう、と。記憶を失っている、というのは我らを欺くための芝居ではないのかね」
老人の言葉に、はるかは内心抱いた驚きを表情に出さぬよう努めた。
この人、私の事を知ってる……?
息を溜めきった炎狗は再び炎を吐き出す。一瞬気づくのが遅れたはるかは、転がるようにして右へ避ける。
そのやり取りの間、秋良は結論を出した。
【炎狗】炎の身体を持つ犬型の妖魔。牙や爪はさほど発達しておらず、口からの火炎放射と身体を丸めて転がる体当たりなど、炎に頼った攻撃をしてくる。
【五尺】1.5m。炎狗の体長。鼻先から尾の先までの長さがはるかの身長とほぼ同じ。
【飛苦無】秋良の使用する飛道具。忍が使用するそれよりも細身の投げナイフに近い形状。




