肆・風波 前
はるかは秋良に言われたとおり、ふたり分の朝食を平らげた。それも翠が同じ量を完食するまでの間に。
翠も初めて目の当たりにした時には驚いたものだったが、今ではすっかり馴染みのものとなってしまっている。
「秋良ちゃん、帰ってこないねぇ」
寝台に腰掛け、ちょっとふくらみ気味な腹を気にしつつ窓の外に視線を送る。
秋良は行き先を知らせて行ったわけではない。が、街を出て行くことはないだろう。
「私、ちょっと見てくるね」
はるかは部屋の扉を開いて、後についてきた翠を振り向く。
「翠くんも来るの?」
「いつ危険が及ぶかわからない」
「大丈夫、ちょっと見てくるだけだもん。ここで待ってて」
「……しかし」
「すぐ戻ってくるから、ね?」
はるかの言葉に納得したわけではなかったが、主の言葉に必要以上に逆らうこともできない。翠は仕方なくうなずいた。
翠が部屋に残ってから、しばしの時が経過した。
入口あたりまで様子を見に行く程度なら、もう戻ってきても良い頃だ。が、女将と話したりしているのかもしれない。
翠は浮かせかけていた腰を落ち着けた。
さらに倍の時が過ぎた。
いくらなんでも遅いのではないか。
しかし、ここで待つようにという命を拝した身。命に叛くことになっても様子を見に行くべきか……。
翠は逡巡しつつも待った上で、ついに部屋を出ることを決意した。
通路を早足に歩き、入口付近を見渡す。それらしき姿はない。番台に戻ってきた女将に声をかける。
「すまぬが、金茶の髪をした連れを見かけなかっただろうか?」
「ああ、あの持病持ちの子だね? もうひとりのお連れさんを捜しに、街の方に行ったみたいだよ」
女将の言葉に、翠は外に向かおうとした。足を一旦止め、女将に部屋の管理と、はるかか秋良が戻ってきたら留め置くよう伝えて宿を飛び出した。
円形に設けられた広場は、たくさんの人で賑わっていた。
冬を前にしたこの時期は、驚くほどの人間が風裂の街を訪れる。冬になってしまえば、東西を囲う日方山と裏葉山が雪に閉ざされてしまうからだ。
冬前に山を越えてしまおうという旅人。
厳しい山間の冬を越すために、物資を買い求める住人。
賑わいに売上を見込んで訪れる商人もいる。旅人の中でも行商を生業としている者は、滞在中に露店を開く。
風裂の商人たちは彼等を相手に商売をする。
それ故に、秋の風裂は街全体が祭のような賑わいに包まれるのだ。
広場は外周のみならず露店で埋め尽くされている。通りは混雑しており、ちょっとくらい身体がぶつかることなど誰も気にしない。
その中を、翠は掻き分けるように進んでいく。
大陸の中央部ともなると、金髪の女性の姿も珍しくない。
背格好と瞳の色を頼りに、自らの眼のみならず露天商にも尋ねながら捜し歩く。
乾し肉、乾し魚を売る乾物屋。籐で編んだ大小様々な籠が並ぶ露天。節操なく並ぶ露店が切れたと思えば、風裂の商店街へと人混みは続く。
それと思しき少女に声を掛ける。
三人目も、人違いだった。
見つからず時が過ぎていく。四半刻ほどのことが、翠には倍以上に感じられていた。
やがて人もまばらになり、広場を中心とした賑わいのはずれにたどり着く。それより先は居住区になるのだろう。
足を止め、翠はぐるりと周囲を見渡した。
喧騒の中に戻るべきか、それともこの先を探すべきか。
この時ばかりは思わずにいられない。
――珠織人であったなら、彩玻動をたどって居場所を探り当てられたものを。
その考えを振りきる。今は、考えるより行動することだ。
はるかは秋良を探しに出た。秋良は、あの混雑の中にいる可能性は低いはず。
翠は喧騒から遠のく方向へと足を踏み出した。
そこは細い路地の奥の空き地だ。背後は森であり、街のはずれに位置しているのだろう。
水分を含んだ山間の朝独特の空気。
あの村の空気と良く似たそれが、秋良の心をより苛立たせていた。
陽が高くなり空気が乾き、今は少し落ち着いている。
風翔国西部は山と森の地域のため、木造の建築物が多い。
それらが両脇にならぶ細路地を、秋良は木に寄りかかって眺めている。
人がふたり、ようやくすれ違うほどの路地。人々が行き交うにぎわいの光景は、路地に細く切り取られ。陽の射さぬ路地の暗い影が彼等と秋良を隔てる。
これが、本来自分が在るべき位置のはずなのだ。
ただ自分と、自分の立つ場所だけ守るだけでいい。
干渉せず、干渉されず。故にしがらみも束縛もなく。
自分のためだけに動けばいい。
「――!」
鋭い鳶色の瞳が気配を捉える。
左手へと伸びる空き地のはずれ、別の路地から現れたのは翠だった。
「誰かと思えば……はるかはどうした?」
「今、探している。お前を探しに行くと言って宿を出たきり戻らないのだ」
翠の表情はいつものそれと変わらないが、口調がいつもより速い。心急いているらしいことが秋良にもわかった。
「不覚を取った……はるかが言うところの『ちょっと』の範囲を、事前に確認しておくべきだったのだ」
「は……? 訳わかんねぇこと言ってる暇があったら、早く探したらどうだ? ここには来てないぜ」
大方お祭り騒ぎに乗せられて、屋台の食物を食べ歩いているのだろう。
正面の路地へ向けて、秋良は歩き出した。
「秋良」
翠の声に心臓が跳ね上がる。足が止まった。
思考の停止。緊張。
根底にあるこれは――違和感。
そうだ、今まで名前で呼ばれたことはなかった。
思考が巡ったのは、呼吸を忘れた一瞬の間だった。後に続いた翠の言葉に、それらも消し飛ぶ。
「これ以上、我々に同行する必要はない」
「な……んだって?」
秋良の中に翠の言葉が浸透するまで、振り返る分たっぷりの時間を要した。路地の奥に聞こえていた喧騒も、より遠い音として意識の外に追い出されていく。
翠の、感情のない表情。再び彼が口を開いた。
「巡礼の儀は珠織人……暁城の務め。城外の者が、その責を負う必要はない」
翠との間に横たわる沈黙。
静けさを破ったのは、秋良の皮肉めいた短い笑いだった。
「ここまで同行させておきながら、今更よく言うぜ」
秋良は翠を正面からにらみつけた。
翠はその視線を逸らすことなく受け止める。暗緑色の瞳は、いつも秋良に向けられるそれよりも強い光を宿しているように思えた。
「星見巫女の言葉通り、そう遠くなく妖魔六将と戦うことになるだろう」
「……だから?」
「今の俺の力では、はるかを守るので精一杯だ。お前の命の保障ができない」
秋良の握りしめた拳が怒りに震える。
一旦息を吸い込み、言葉にならぬそれを吐息に吐き出した。もう一度吸い込んだ呼気は怒声に変わる。
「誰がいつ守ってくれって言った!? 自分の命は自分で守る。余計なお世話だ」
秋良の様子に翠はまるで動じない。抑揚の少ない声が告げる。
「敵は、強大な力を持っている」
翠が対峙したあの白い狐の面を被った痩身の男。
至道、氷冬との連戦がなかったと仮定したとしても、互角以上の戦いができるかどうか……。
緋焔にしても、陽昇国で戦った時よりも格段に力を増していた。
深羅、朱鷺乃、煌樹の力は未知数だが、強力な力を持つ術者であることは確かだ。
はるかは、戦いの中で栞菫としての力を徐々に取り戻しつつある。
竜人族である翠も、珠織人であるはるかも、能力的な基本値の高い種族に生まれているのだ。
だが、斎一民である秋良は……。
「このままでは、命を落とす」
【はるかの食欲】栞菫がどちらかと言うと少食だったのに対し、異常に食べる。核がないことや、彩玻動の不足を補っているのか……食べても太らない。
【翠の愚直さ】竜人族としても青年の齢ではあるが、翠竜の頃は戦いしか教わって来ず。『人』らしい生き方を初めてからの時間を考えると、精神的には成熟していない部分もあるのだろう。
【秋良の孤独】幼少期から今に至るまでの過去が『運び屋の秋良』を形成している。はるかと出会ってからは、かなりまるくなっているが心の奥底の拗れは根深い。
【風裂】緑繁国から風翔国、火燃国を繋ぐ街道上にある山間の街。




