壱・月樹界
天は厚い雲におおわれ、雲の薄らいだ箇所からは紫めいた光がぼんやりとのぞいている。
さらに上層では無数の雲が強風に流されていく。雲が通り抜けるごとに、紫にくすんだ陽光を明滅させていた。
紫の明滅が照らし出す大地は焼けただれたように赤く、乾燥にひび割れている。生気のない荒野を渡る風は生ぬるい。
「月樹界――双月界では魔界って言うんだっけ?」
声は十歳程の少年が発したものだ。
起伏激しい赤岩から、亜麻色の元気に跳ねた癖髪がひょこりと現れた。
「世界の摂理が乱れた成れの果て。魔が棲む世界とは、よく言ったよね」
含み笑いをするその表情は楽しげだ。
一際大きい岩の上に登ったところで、すぐ近くの窪みから長い黒髪の女性が起き上がるのが見えた。
少年はかがみこむようにして下を見下ろして声を掛ける。
「朱鷺乃、生きてるー?」
「ええ。煌樹は……聞くまでもなさそうですね」
元気に手を振る煌樹を見上げ、朱鷺乃はわずか身を沈めた。ふわりと、軽やかに跳び上がり煌樹の隣へ舞い降りた。
巫女を思わせる黒い儀服についた赤土を手で払う。星見巫女の術を受けた身体に異常がないことを確認すると、小さく息をついた。
「時を発動前まで巻き戻すことで術を無効にし、我々の存在する時間軸のみを過去に遡らせた。そんなところでしょうか……」
「やってくれるよね、風凛様とやら」
煌樹が両手を頭の後ろで組みながら、朱鷺乃の端正な顔を見上げて呟いた。その声色はどことなく楽しそうでもある。
ふと、煌樹は背後を振り返る。気配で察したとおり、そこには人影があった。
身の丈四尺半の煌樹より僅かに勝る程度の小柄な身体。頭からつま先まで、茶色の外套にすっぽりと包んだ老人――深羅だ。
「煌樹、おぬし勝手な真似を……術式の直前になって半身をいずこかへ送るとは!」
全身から立ち昇る怒気を受けてなお、煌樹はまったく動じない。悪びれもせずに、ふいと横を向いて言う。
「術の発動には間にあったじゃない? 常闇の帷を広げて銀竜の攻撃、ちゃんと防いでただろ」
「最初から完全な力で術式を発動させていたら、星見巫女の邪魔が入る前に成功していたかもしれぬものを」
「なにそれ。失敗したのが僕のせいだって言いたいの?」
煌樹の言葉を聞いているのか聞こえていないのか、深羅は怒気をはらませたしわがれ声で続ける。
「よりによって何故、黒竜の小僧をあの場に呼び寄せたのだ」
「どうせ用済みなんでしょ? 魔竜士団を動かす餌にし終わったら好きにしていい、って言ったの深羅じゃん」
憮然として言い返した煌樹の肩に朱鷺乃の手が触れた。煌樹が振り仰ぐと、朱鷺乃は泉の静けさを湛えた瞳で深羅を見つめていた。
「例え完全な状態で臨んでいたとて、星見巫女の術返しを受けなかったとは言い切れぬでしょう。今は言い争うことよりも、次への布石を打つのが先決のはず」
彼女の朱鷺色の瞳は穏やかながら、胸に抱く意志の強さを感じさせた。
受け止める深羅の瞳は頭巾の奥に隠されている。見えるのはただ影ばかりだ。しかし取り巻く空気からは怒りと苛立ちが伝わってくる。
三者の間に張り詰めた空気。それを破ったのは、三人の誰でもなかった。
「なんでぇ、お前らもこっちに飛ばされてたのか?」
緊張感もやる気もまったく感じられない声と共に、下駄の歯が岩と奏でる小気味良い音が響く。
焔のごとく赤い髪の下で、金の瞳はすぐに赤茶けた荒地の果てへ視線を移した。
「なんだか知らねぇが、来ちまったんならしばらくこっちでゆっくりするとするか。どうせすぐ向こうには行けねぇし」
「どこへ行く」
気の赴くままに三人の横を通り過ぎ遠ざかって行こうとする緋焔を、深羅が呼び止めた。緋焔はだるそうに振り返って言い返す。
「どこでもいいだろ。後はお前らみたく、つるんでたい奴らだけでやってくれよ。俺は稀石姫と戦れるっていうから話に乗っただけだ」
「貴様……守護石の封印から開放してやった恩を忘れたか!」
「守護石? ああ、あれね。だからさっき協力してやったじゃねぇか。ったく、行ったはいいが、肝心の稀石姫は核を何度撃ち抜いても死にやしねぇ。思い出したらまた腹立ってきたぜ」
面白くなさそうに下駄で岩を蹴る緋焔だったが、深羅はそんな緋焔に掴みかからん勢いで詰め寄った。
「核を撃ち抜いても死なぬじゃと? 間違いなく核を撃ったのか!」
「この緋焔様が外すわけねぇだろ。何だよ、いきなり食いついてきやがって」
気味悪がる緋焔を他所に、深羅は朱鷺乃と煌樹を振り返った。
「まだ運はこちらに向いておるわ! 待っておれ、今再び術式を行なうための玉を生み出して来よう。おぬしたちも次の守護石破壊のときまで、使ってしまった力を再び蓄えておくことだ」
言い終わるが早いか、深羅は岩場の縁から身を躍らせた。はためく茶色の外套は、岩と岩の亀裂を埋める闇に触れると同時に溶けるように姿を消した。
同時に、再び下駄の音が鳴り響く。
「ま、気が向いたらまた遊んでやってもいいぜ」
下駄履きの後姿は、そういい残して遠ざかっていく。岩から岩へと跳んでいく後姿を見ながら、朱鷺乃は呆れたような溜息をついた。
「何千年経っても変わらないのですね。あの方は」
「面白いかそうでないかしかないからね、緋焔って。でも、わかるよその気持ちも」
朱鷺乃の言葉を受けて、煌樹が微笑む。
「だけど……気に入らないな」
「……?」
「深羅だよ。あいつ、前はあんな感じじゃなかったじゃない? どっちかって言うといるかいないかわからないようなさぁ。今は、ずいぶん偉ぶっちゃって。朱鷺乃、何か感じないの?」
「確かに。姿は以前の彼のままですが、内側にあるものは深羅とは言いがたい……。ただ、はっきりと感じ取らせてはくれぬようです」
「それって、朱鷺乃が『できない』んじゃなくて、向こうがさ『させない』ってことだよね?」
問いかけに朱鷺乃がうなずく。
「それでも、深羅に頼るしかないのです。環姫の力に守られた守護石を破壊するには、あの方が手に入れてくる玉が必要不可欠なのですから」
「それだってさぁ、どこから持ってくるもんなのか全然言わないし。僕、あいつ嫌い」
煌樹は不機嫌そうに顔をしかめてみせる。
その脳裏にふと、深羅の言葉がよぎる。
――半身をどこかへやるとは――
煌樹とあの娘の関係性を、深羅は知らないはずだ。人が変わったような様子といい、もしかすると中身が違うのではないか。
だとしたら考えられるのは――。
考えに沈む煌樹を見つめ、朱鷺乃は優しく説き伏せる。
「煌樹、この月樹界のためなのです。我慢できますか?」
朱鷺乃は煌樹に正面から向き合い、身をかがめて視線の高さを合わせた。
煌樹は勢いをつけて両腕を朱鷺乃の首に巻きつけて言う。
「いいよ。僕、朱鷺乃は好きだからね。朱鷺乃が望むなら、何だってしてあげるよ」
言って、煌樹は抱きしめる腕に力を込める。
朱鷺乃は深羅や緋焔とは違う。純真で、無垢で。ただ己に課された使命のために。それが己の悲願だと信じ、それがためにわが身を捧げようとしている。
今は儚く美しいその存在のために――それに飽きてしまう時が来るまでは。
煌樹の無邪気な表情に宿る魔性の笑みは、朱鷺乃からは見えなかった。
【煌樹】妖魔六将の一柱。深羅により守護石から解放された。少年の外見をしているが……。
【朱鷺乃】妖魔六将の一柱。長い黒髪に黒基調の儀服をまとう女性。竜人族・夜天に接触していた。
【深羅】妖魔六将の一柱。次々と守護石を破壊、妖魔六将を解放している。
【緋焔】妖魔六将の一柱。自身を守護石に封じた環姫を憎み、現身である栞菫に固執する。
【月樹界】双月界の地下深く、竜谷よりさらに下部に位置する。妖魔たちの住処であり、魔界と呼ばれている。




