玖・出立
陽沈島で栞菫は、稀石姫として双月界を背負って戦った。禁を破ってしまった罪悪感が、彼女をそうさせていたのだろう。
それがわかっていたとして。この身に背負った魔竜士団たちの命を捨てて、負けを選ぶということなどできるはずがなかった。
決着つかず長い眠りから目覚めたその時、決して同じ後悔だけはしまいと誓った。
だからあの日、氷冬に言ったのだ。『自分は夜天ではない』と。
それなのに。口では否定しながら、夜天のようにありたいと望む自分もいる。どうあがいても夜天にはなれないと、わかっているのに。
自分の意思で選択し、自分ひとり分の責任を背負い、誰に決められたわけでもない道を行く。誰よりそれを望んでいたのは自分自身だ。
皆の自由のために選択した結論だ、なんて……結局は自分が一番自由になりたかっただけなのだ。
良夜は切り立った岩に両側を囲まれた上、木々の立ち並ぶ道なき道を通り抜ける。やがて林立する幹の奥に、山道が見え隠れし始めた。
山道を目前にしたその場所で、待ち構えている影を見出した。幹に預けていた身体を起こすその人物の名が、良夜の口からこぼれた。
「至道……」
足を止めた良夜は、自然と足元へ視線を落とした。
「すまない」
眼を合わせることができない。うつむいたまま、良夜は言った。
「結局俺は、魔竜士団で何もできなかった。皆をまとめ団を存続させることもできず、士団長の任を捨てて逃げ出したんだ」
良夜の表情は、垂れた前髪に陰ってうかがい知ることはできない。至道は真っすぐに良夜を見つめて答えた。
「今解散せずとも、いずれは離散していただろう。魔竜士団として幕を引くことができたのは、良夜の決断があったからだ」
「俺が……」
言いかけて、良夜はためらった。
だが、臆する心をねじ伏せて問いかける。
「俺が選んだ道を、夜天や氷冬は認めてくれるだろうか」
「夜天も、氷冬も、お前のことは小さい頃から良く知っている。その上で後を任せたのだ、異を唱えることなどありえぬ。お前は士団長の任を最後まで全うしたのだ」
「でも、もし夜天が生きていたら」
「お前は夜天じゃない」
良夜の言葉を、至道の低く響く声が遮った。弾かれたように上げた金色の瞳は驚きのため見開かれ、至道の顔をただ見つめ返す。
至道は小さく鋭い黒瞳を細めた。魔竜士団の希望を失わぬため、夜天の遺志を継ぎ。身を削り戦いきってなお。まだ良夜は己を責めるのか。
「夜天と同じように考え、行動することなど誰にもできん。同じく、良夜という存在もただひとりしかいないのだ。お前が考え、信ずるとおりに生きればいい」
「そう……か」
良夜は再び視線を落とした。
夜天が口癖のように言っていた。『お前は何も心配しなくていい。俺について来ればいいんだ』と。
そんな言葉は嬉しくなかった。守ってほしかったんじゃない。ひとりの男として認めてもらいたかったのだ。
今の至道の言葉を、兄の口から聞きたかった。
自分は、なんと弱い存在だろう。
至道が自分を肯定してくれるであろうことを想定した上で、質問を投げかけている。そうしなければ自らの出した答えを正しいと信じ抜くこともできないのだ。それでも……。
「ありがとう、至道」
ようやく開放された気がする。
魔竜士団を解散させた重みを。逃げ出したという後ろめたさを。大切なものを守れなかった痛みを。抱えていくのだとしても。
今、初めて自らの足で。良夜だけの進むべき道の上に立っているのだ。
金の瞳に光が戻ってきた良夜に、至道が問う。
「お前は、手に入れた自由をどう使うのだ?」
「まずは、紗夜を探したい」
魔竜士団として竜谷を出るときに残してきた、たった一人の妹。
黒竜の中にごくわずかな確率で生まれる希少種・白竜。並ならぬ神通力を秘めるがゆえに、それに耐えることができず身体は弱く短命とされている。
魔竜士団が竜谷を去った後数年して、紗夜も消息を絶ったという。
夜天と良夜の後を追って自ら谷を出たのか、それとも何者かが連れ去ったのか。
手がかりはないに等しいが、それでも探さずにいることなどできない。
「そうしながら、妖魔六将の動向も探ろうと思っている」
栞菫は守護石を、双月界を護るために行くのだろう。
ならば少しでもその助けになることができればと、良夜は思う。
たとえ、もう会うことが叶わずとも。
良夜は大きく息を吸い込み、一歩を踏み出す。
「じゃあ、俺行くよ」
至道の横を通り抜け、降りの斜面へと向かう良夜の後を追うように、至道も歩き始めた。
隣に追いついてきた至道を見上げ、今度は良夜が問う。
「至道はどこへ?」
「お前の行くところだ」
「えっ」
「俺の選んだ自由だ。好きにさせてもらう」
良夜の幼さを残した顔に広がっていた驚きは、氷が融けるように笑みへと変わっていく。
「ありがとう。至道がいてくれるなら心強い」
正直、今の自分の身体でどこまでできるか不安だった。竜神化もできず、普段の生活の中でも時折襲うめまいに苛まれる。そんな状態で紗夜を探し出すことができるだろうか、と。
だけど、いつまでも頼ってばかりもいられない。紗夜を探しながら、自分の身体を回復させなくては。
「西へ向かおう。紗夜が自分で竜谷を出たなら、陽沈島を目指したはずだ」
言って、良夜は木々の間からのぞく山間の風景に視線を馳せる。西の方角は山と山の隙間を埋める霞に曇り、その先を見通すことはできなかった。
魔竜士団と連合軍の――自分と栞菫の決戦の地。
紗夜が自ら谷を出たとしたら。どんな思いでそこを目指したのだろう。
良夜の脳裏に紗夜の姿が浮かぶ。
透き通るような肌に、長い髪は氷冬のそれよりも白く、まさしく白竜の名にふさわしい姿。ただその瞳だけが、夜天のそれと同じ闇をも吸い込むような銀色をしていた。
まだ百歳を過ぎたばかりで、他の同年齢の者たちよりも身体は小さく、いつも良夜の後をついてきていた。
紗夜のような外見の少女は滅多にいるものではない。どこかに見かけた者がいるかもしれない。
もし連れさられたのだとしても。何としても足跡を辿って、探し出す。
強く願えばきっと叶う。
もう会うことができなくても、教えられたその言葉は、今もこの胸に色濃く残っている。
まっさらな記憶で新たな道を行く栞菫の、隣に自分が居なくとも。
栞菫との思い出と、彼女の言葉が胸にあれば。行く道が彼女の助けになると思えば。
どんなことが待ち受けていても乗り越えて行ける。そう信じることができるのだ。
【陽沈島】双月界の地図上で最西に位置する大きな島。魔竜の乱決戦の地。
【白竜】五つある竜人族の部族と同じく色を冠してはいるが、黒竜族の突然変異として生まれる白い個体の呼称。その身に秘めた強い力故に生来身体が弱く短命。
次回、伍の章完結です。




