◆9話 蜜月の続きを、あなたと
サインを求められたのは、婚姻届けだった。
「こんいんとどけ……」
お水がよく冷えてて美味しいなあとか、千くんの家の硝子コップはお洒落だなあとか、落ち着いている場合じゃなかった。
「ここここ婚姻届け?」
ちょっとした事務手続きの如くさらりと流れるように婚姻届けを出されたので、危うくさらりと記名しかけたが、これはプロポーズをされている状況に他ならない。
事態を飲み込んで、いや全く飲み込めていないけれど、とりあえず息は呑んだ。
下宿探しに行った娘が既婚者になって帰って来たら、さすがに事件である。
「え、なう、どう、どうして?」
「婚姻関係にない男女が同棲するなんて、常識的に駄目じゃないか。だから結婚して。結婚すれば一緒に住んでも何も問題ない。むしろ普通。だから結婚して」
誠実な顔で常識を説かれているが、その本人が常識からだいぶ外れた行動をしている気がしてならない。
まさか、数年間疎遠になっていた幼馴染から、再会して数時間以内にプロポーズをされるとは思わなかった。
さっきの愛の告白が人生一番の衝撃だと思ったけれど、秒で記録更新である。
「あの、結婚は、まだ、早いんじゃないかな……?」
出会って今日に至るまで、ずっと、千くんは小さい頃から仲良しの年上の友達、だった。そして、千くんが抱いていたのは友情ではなく恋、だと知ったのが、ついさっきである。そして結婚。早い。段階が早い。早過ぎる。
「そんなことない。俺は幼稚園の時からずっと亜子と結婚したかったんだからむしろ遅いくらいだと思う。だから結婚して」
「……え、幼稚園……?」
「亜子が望むのならメロンパンでもシャチでも石鹸屋さんでも何にでもなるよ。だから結婚して」
「メロンパン……? しゃ、シャチ……?」
冷静さを取り戻していた千くんの口調が、再び、徐々に熱を帯びてくる。メロンパン。シャチ。石鹸屋さん。何のことだかさっぱり分からない。
「ずっと一緒にいてくれるんだよね? 今日から一緒に住んでくれるんだよね? なら結婚しても構わないよね? しなきゃいけないよね? だからサインして。印鑑は後で押しておくから」
サインを求める圧がすごい。そして、視線に籠った熱量がすごい。
千くんが愛の告白をしてくれるまでは、その眼差しに宿る感情の正体が分からなくて、憎悪ではないかと勘違いしてしまったほどだ。
千くんがわたしに向ける多大な熱量の感情の正体が、恋によるものだと分かってからずっと、じっと目を見つめられると、恥ずかしくて目が回りそうになる。フルマラソン完走直後並みに心拍数が上昇する。
せっかく冷たいお水を飲んでクールダウンしていたのに、再び顔が真っ赤になるのが自分でも分かった。熱い。タートルネックを着てくるんじゃなかった。首のとこ持ってぱたぱたしたい。心臓の音がすごい。
そして、こちらがこのような状況に陥ると、千くんはどういう訳か、さらに追い詰めてくる。このまま目を合わせていると恐らく死ぬので俯いたのに、両頬に手を添えられ、上を向くように軌道修正された。目がばっちり合う。
両手で顔を固定されているので、もう俯けない。千くんの方はなんだか陶然とした様子で、無言のまま見つめ続けてくる。息の根を止めに掛かってきているとしか思えない。
さっき、千くんが無言になって、じっと見つめられて、やんわりと距離を詰められて、徐々に後方に倒されて、ソファの肘掛けと千くんに挟み撃ち状態になった時は、常ならぬ距離の近さに慌てたけれど、このままだともう一度そうなりそうだった。なぜ人を隅っこに追い詰めようとするんだ千くん。
「だ、駄目。だって。結婚て」
今、あの距離でもう一度サインを迫られたら、圧に負けて頷いてしまう。
なので、思わず立ち上がったら、千くんも立ち上がった。
そろそろと後ずさりしたら、あまり後ずさり経験が無いので数歩でこけて、尻もちをついた。
「うっ」
見かねた千くんがすかさず手を差し伸べてくれたけれど、このまま手を取ったらソファに戻って流れるようにサインを書かされそうだったので、尻もちをついたまま、ずりずりと後退したら、後方の壁に後頭部をぶつけた。
「うっ」
頭を打って呻く所までを、千くんは温かく見守ってから、すたすたと目の前にやってきて、膝をついて、わたしの両手を取った。
これでは千くんが退かない限り立ち上がれない。
やんわりと逃げ場がない。
「……俺と結婚するの、嫌?」
壁際に追い詰め手首を掴むという脅迫的な状況を作っているのに反し、声には全く高圧的な響きは無く、むしろ弱々しい、ものすごく寂しそうな表情で言われたので、胸が大いに痛んだ。
千くんに寂しそうな顔をされると、居ても立ってもいられない気持ちになる。
慌てて首を横に振って否定した。
「嫌じゃないよ、嫌じゃないけど、でも……」
「……でも?」
「その、今まで、全然、そんな話、したことなかったし、ほら、わたしたち、お付き合いすらしてないし、いきなり結婚というのは」
「交際から始めればいいの?」
「うん」
「じゃあ、結婚を前提に付き合って」
ものすごくさらりと交際を求められた。
本当は「千くんと恋人同士になるんだ……」という感慨にしばらく耽りたかったけれど、婚姻届けの衝撃が大き過ぎたので、浸る間もなく、すぐに頷いた。
「は、はい」
「よし、結婚して」
お付き合いを承諾して二秒以内にプロポーズて。
いったい何のタイムアタックにチャレンジしているんだ千くん。
「い、今、お付き合いが始まったところだよね!?」
「うん。ちゃんと交際の許可から始めたよ。ね、これならいいんだよね?」
いや全然いいわけないのだけれど、千くんの表情は純真無垢そのものである。
何一つ問題はないと思っているらしい。
落ち着いて考えて千くん。交際歴が二秒だよ千くん。
「こ、交際の実績が、実績がないので、却下」
「実績?」
「だって、いままで、千くんと恋人同士みたいなこと、したことないし」
「じゃあ、恋人同士みたいなことすれば結婚してくれる? 亜子が思う恋人同士みたいなことって何か言って。するから」
キス、と言ったら、秒でされそうだったので、迂闊にものも言えない。
「言えない……」
「そう。言えないようなことなんだ。いいよ、取り返しのつかないことをしよう」
言い方が怖い。
微笑んでいるのがかえって怖い。
「こ、こ、心の、準備ができてない。恋人同士みたいなことする準備ができてないから、駄目」
「じゃあ、準備して。今すぐ。よし。できた?」
振り込め詐欺だってもうちょっと猶予くれる。
「できてない! できない!」
ちょっと眩暈がするレベルで首を横に振り続けたら、ほぼ壁に押さえつけるレベルで距離を詰めて来ていた千くんは(人を隅っこに追いやる性質でもあるのだろうか)、わずかに身を離し、感情を殺した声で訊いてきた。
「……俺とそういうことするのは嫌?」
「うん」
一旦落ち着かせてほしくて力強く頷くと、千くんは、すいっと視線を、部屋の隅にある「手焼き煎餅」の段ボール箱に向けた。
「……亜子に拒絶された……俺のこと嫌いなんだ……やっぱり拘束しておかないと……」
なぜ今、防犯グッズに意識を向けたのかは分からないが、恐ろしくひんやりとした表情をしていたので戦慄した。
「ちょ、ちょっと、待って、い、嫌じゃないから! 千くんが嫌な訳じゃないから! 千くんのことは大変、まことに、好きだから!」
全力で訴えたら、千くんはものすごい勢いで目線を段ボール箱からこちらに戻した。
「……好き? 本当?」
千くんは、わたしを友達として見たことは一度もないと言った。
向けてきたのは友情ではなくて、恋情であると。
わたしの方は、千くんの方をどう見ていたか、改めて考えるとよく分からない。
ずっと「友達」と分類してきたけれど、本当は、木田くんやぬーちゃんたちとは、ちょっと違う。他の友達と違って、年上なこともそうだけれど、何より、いつも優しくて、助けてくれて、大事にしてくれて、千くんはなんというか、「千くん」という分類が一番正しい。
だから、純度百パーセントの友情かと考え出すと、よく分からなくなってきた。
恋情なのかどうかは、もっとよく分からない。
けれど、千くんが大好きだということは、断言できる。
断言できるから、はっきりと頷いた。
「うん。好き。大好き」
手を強く引かれ、そのまま抱き締められた。
加減なしの全力なので、本人にその気はないだろうけれど、ほぼ絞め技に近い。もうコートとカーデガンは脱いでしまっているので、厚着の加護も無い。
「かふっ、せ、は、う」
酸素欠乏による死が近いことを訴えたらようやく解放してくれたけど、手だけは繋ぎ直して、離してくれない。
「亜子が好きって言ってくれた……大好きって……」
千くんは上機嫌そのものである。こんなに嬉しそうな千くんは見たことがないくらいだ。
「俺も好きだよ。可愛い。愛してる。すぐに結婚しよう。ああ、結婚する前に実績がいるんだよね。実績作ろう。今から」
だから何のタイムアタックなんだ。
「いいいいい今は無理。心の準備はちゃんとするから、せめて、数日は、待って」
「嫌だ」
数日で準備できる気はしないけれど、月単位だと絶対に了承してくれなさそうなので、断腸の思いで提案したのに、即時却下されてしまった。
「数日の間に亜子が心変わりしたら嫌だから嫌だ。今がいい」
「絶対に心変わりなんてしないから! 絶対に千くんと結婚するから!」
「……。……。絶対?」
「うん! 絶対! だからキスはまだ待って!」
「キス?」
うっかり口に出してしまったが、千くんはきょとんとしていた。
なんだろう。千くんは別のことを想定していたのだろうか。
恋人同士ですることとして、先走ってキスを考えてしまったけれど、千くんの方はもっと易しめに、手を繋いでデートするとか、抱き締めるとか、そういうことを想定していたのかもしれない。
今まで、しょっちゅう手を繋いで歩いていたし、本日も再会の時点で抱擁を交わして来たところだし、というかさっきも抱き締められたし、その辺は盲点だった。
恋人同士としてそういうことをしたことはないのだから、その辺から始めるべきだろうに、先走ってキスとか考えてしまった。恥ずかしい。
うん。千くんだってきっと、キスはお付き合いを始めて三週間目くらいにするものだと思っているはずだから、今すぐと言う話にはならな……。
「今しちゃ駄目なの?」
今すぐという話になってしまった。
「だ、駄目です」
「どうしても数日待たないと駄目?」
「あの、キスとかしたことがないので、心構えが」
「そうだったね。亜子が起きてる間にしたことは一度もなかったね」
なんかさらりと、わたしが寝ている間にはしたことあるみたいな発言が聞こえたけど、今は流そう。
「もう、もうちょっと待って……」
「一時間後は?」
「とても心の準備が追いつかない……」
「明日は?」
「むり……」
「そう……」
千くんを困らせたくはないのだが、なんかもう、さっきから要求が怒涛過ぎて、気持ちの整理が追いつかないので許してほしい。
もはや半泣き状態で、俯いて鼻をすんすん言わせていると、千くんは繋いでいない方の手をわたしの頬に伸ばして、あやすように撫でた。
優しい……慈母……と思って顔を上げると、慈しみと言うよりは、「あっ、ギザ十見つけた!」的な喜びの目で、若干笑みさえ浮かべて、見つめられていた。
これが千くんでなければ、人を泣かせて愉悦を得る性癖でもあるのかと疑ってしまうような表情だけれど、千くんにそのような邪悪な心は無いので、たぶん熱心に心配してくれていて、その熱心さが瞳に宿っているだけだろう。顔を見上げたら微笑みを返してくれるのはいつものことだし。
「ああ可愛……じゃない。よくない。反省しよう。……ねえ、亜子、泣かないで。無理言ってごめん。困らせたね」
稀に見る積極性を見せていた千くんは、ここで一変、しゅんと元気をなくして、悲し気な瞳で申し訳なさそうに言った。一気に罪悪感が溢れだす。
「え、あ……ご、ごめんね千くん、こんな豆腐メンタルで……」
「ううん。亜子が困るのも無理ない。俺はずっと、亜子に受け入れてもらう日を待ってたけど、亜子の方はそうじゃないんだから……」
大変しょんぼりした様子に、心が超絶傷んだ。
「あわあ……千くん、その、ごめんね……」
「亜子が謝ることないんだ……」
「な、ない、泣かないで……」
「悲しくて死にそうだけど気にしないで……」
「死……っ!? す、すぐにキスする以外なら、なんでもするから、元気出して」
「本当?」
千くんは途端に明るい表情になると、わたしを立ち上がらせて、ソファに連れ戻した。
ペンを握らせ、テーブルの上に置いたままの婚姻届けを指して、優しく微笑む。
「婚姻届けにサインしてくれたら、数日と言わず、亜子の好きなだけ待つよ」
猶予をくれる旨が告げられ、心の底からほっとした。
死にそうなほど悲しいはずなのに、待ってくれるなんて……。
やっぱり千くんは優しい人間である。
「ほんと……?」
「うん」
「今すぐキスしなくてもいい……?」
「うん」
「ありがとう……」
「うん。あ、サインはここ」
名前を書き終えると、千くんは「ありがとう」とわたしの頭を撫でて、大切そうに婚姻届けをクリアファイルに収めて、こちらに向き直した。
本日三度目の抱擁をされる。
今度は優しく抱き締められたので、前二回と違って物理的には苦しくないはずだけれど、なぜか一番、鼓動が速くなった。緊張する。けど、安心もする。ふわふわした気持ちである。
「ねえ、亜子」
すぐ耳元で声がして、さらなる緊張で目が回りそうになる。なのに、やっぱり安らぎもあって、甘い、ふわふわした気持ちのまま、優しい声に耳を傾ける。
「結婚の約束、幼稚園の頃にしたこと、覚えてる? 亜子、ちゃんと了承してくれたんだよ」
「えっ。ううん……」
「まあ、亜子は小さかったからね。覚えてなくてもいいよ。今、ちゃんと、約束守ってくれたから」
「うん……」
「嬉しい。俺たち夫婦だね」
「うん……。ん……夫婦……?」
婚姻届けにサインをする前にお付き合いの実績がなければならない、という話だったはずが、いつのまにか、お付き合いの実績を作る前に婚姻届けのサインを書かされる、という結論に着地していたことに、今、気が付いて、なんとなく上手く誘導されたような、騙された感がすごかった。
けれど。
「幸せにする。大事にする。これから、ずっと、永遠に、毎日、一日中、亜子が傍にいるんだ。嬉しい」
思わず見上げた千くんが、あまりに幸せそうな顔をしていたから。
なんだか順序とか色々、間違えている気がするけど、まあ、いっか。
千くんだし!
「ずっと一緒にいようね、亜子」
それは、千くんが繰り返し、口にしてきた約束。
千くんと一緒にいると、嬉しい。千くんに愛してると言われた時、心不全を起こしかけた。千くんは優しい、それは世界の全てに対する優しさじゃないと知ったけれど、わたしにとっては変わらず、世界で一番優しい。千くんの言う「ずっと」は想像を超えていて、そして、愛しているからずっと一緒にいたいのだと、教えてくれた。
千くんとなら、永遠を前提に、他の誰と過ごすよりも密度の高い時間を、過ごしたいと思う。
「うん。ずっと一緒にいる」
千くんとずっと一緒にいる約束をすることは、間違いじゃないと思った。
次回、最終話です。