◆8話 (永遠を前提に、)
「愛してる」
と、亜子に言った。
思わず、口から洩れた言葉だった。
亜子は優しい。きっと、逃げようとしていたのに、縋りついたら手を取ってくれた。
けれど、優しさで寄り添ってくれるのも、今だけだろう。
俺は亜子がいないと生きていけないけれど、亜子の方は、そうじゃないのだから。
そんなこと、知っていたのに、それでも願いを叶えようとして、怯えた目を向けられた瞬間、悟った。
亜子に拒絶された。
亜子が俺を受け入れてくれることはない。
そう、思っていたのに。
「……。あ、あい……?」
全く予想していない言葉だったらしく、亜子は一瞬、ぽかんとして。
「えっ」
直後、頬を真っ赤に染めた。
「なう、えっ、せっ、千くん、愛、してるって、えっ!?」
しどろもどろになって訊いてくる。
先程までと、明らかに様子が違う。
え。
何だこれ。
可愛い。
拒絶されたのだと思ったのに、この反応を見る限り、そうではない気がする。
もう一度、言ってみた。
「愛してる」
「ひえっ、あ、わ、せ、千くん、そ、それって、えっと、わたしのこと……?」
「うん。そうだよ。亜子のことだよ」
「っ、あ、う」
肯定すると、亜子はさらに動揺した。
どういう類の感情から来る反応なのか確かめようと、じっと目を見つめて観察していると、亜子の視線が彷徨い始めた。
目線を逸らしては、恐る恐ると言った感じで目を合わせてきて、また逸らしては、こちらを見てと、忙しい。
驚いていることは十分に伝わってくるけれど、やはり、怯えは感じない。
嫌悪を向けられているわけでもなさそうだ。
なんかもう、全身全霊で恥ずかしがっていて、とにかく可愛い。
また俯いて目を逸らされたので、「こっち見て」と要求すると、「はいっ」とすぐに応じて顔を上げてくれた。素直。
「愛してるよ、亜子」
亜子が繋いでくれた手に力を込めて、繰り返す。
どれだけ言葉を重ねても伝え足りないけれど、何度でも。
「愛してる」
「あわあ……」
よほど衝撃だったのだろう。たぶん、ソファに座った状態でなければ、彼女は床にへたり込んでいたと思う。
やんわりとパニックに陥ってゆく亜子の様子を見ていると、徐々に冷静になってきた。
自分がいかに冷静じゃなかったかを自覚した。
亜子と対面するのが久々過ぎて浮かれて、気が急いていたに違いない。
つい、高圧的な接し方になっていたに違いない。
亜子を逃がしたくなくて、強引な話の進め方をしてしまったに違いない。
それで、亜子を怯えさせてしまったのだろう。
拒絶されたと思って、あともう少しで、取り返しのつかない間違いを犯すところだった。
反省しよう。
少しの間、目を閉じて、息を整える。
よし、今の自分は冷静だ。
「亜子、可愛い、可愛くて、気が狂いそうなくらい好きだ」
亜子が可愛くてどうにかなりそうなのはいつものことだから、これは通常状態と言っていい。
「好き。好きだ。愛してる」
「わああ……」
こっち見てという要求を亜子はちゃんと守って、目を逸らさずにはいてくれるのだけど、もう、困惑し過ぎで、今にも落涙しそうなくらいに目が潤んでいて、そして、さっきから人語を発せていない。
愛してると言っただけで、ここまで衝撃を受けられるとは、思いもしなかった。
この様子だと、出会いから今日に至るまで、亜子は俺に対する認識が「小さい頃から仲良しの年上の友達である」というもので一貫しており、恋愛対象としては全くカウントしていなかったのだろう。
まあそうだろうとは思っていたけれど、うん知っていたけれど、ここまで驚かれると、ややショックではある。
だけど、耳まで真っ赤にして、それでも繋いだ手をきゅっと握って離さず、涙目で懸命に見上げてくる様子があまりに可愛いので、なんかもう人生そのた諸々が報われた気になった。
「あっ、あのっ、せ、千くん!」
「うん。どうしたの亜子。好きだよ」
「っ、なう、えっと、その、さっきの、一緒に住みたいって、そういう、あの、あい、愛の告白、だったの……?」
「うん。そうだよ。何だと思ってたの?」
「だってっ……千くんに、一度も、あ、愛してる、なんて、そういうこと、言われたことなかったから……っ」
つかえながらも必死に訴える亜子の言葉を聞いて、はたと思い当たる。
「……。そうだっけ?」
いつも思い続けていたし、夢の中の亜子には何万回と言ってきた言葉だから、すっかり現実の亜子にも言った気になっていたけど、そうか、一度も言ってなかったのか。
どれほど愛しているのかを伝える以前の問題だった。
そもそも愛していること自体が伝わっていなかったのだから。
思えば、幼児の時に「結婚して」と言ったことはあるけれど、はっきりと恋情を告げたことは、一度もない気がする。
亜子を愛していることは人生の前提だったから当たり前すぎて口にしなかったのか、恋情を示して幼少期からの関係が壊れるのを無意識に避けていたのか。
自分で自分が分からないけれど、亜子に明確な言葉で示してこなかったことは、事実だ。
「ごめん。反省する……」
「う、えっ、いや、そんな」
「最初からずっと愛してる」
「ひえ……さ、さいしょ……?」
「友達としての好きじゃないから。分かるよね? 恋愛感情だから履き違えないで。最初から恋なんだ。ずっと」
「こ、こっ、恋……!?」
亜子がさらに動揺する。恋以外に何があるんだと思うが、亜子的には、愛だけで手いっぱいの状態に恋を放り込まれて大変なのだろう。
でも、ここは間違えて欲しくない。同じ轍は踏まない。はっきりと伝えなくてはならない。
「そうだよ。ずっと、亜子に抱いてきたのは、友情じゃなくて、恋情なんだ。友達として見たことは一度もない」
「そ、そうだったの……?」
「信じてくれないの? 亜子に欲情するし、亜子といやらしいことしたくて堪らない時だってあるし、そういう妄想もするのに」
「わあ……」
「ずっと、ずっと、ずっと、俺は亜子が好きで、大事で、可愛くて、仕方ないんだ。愛してるよ、亜子」
「っ……」
愛を伝える度に、亜子はいちいち盛大に動揺する。パニックにさせて可哀想だけれど、うん、可愛い、ごめん。
かつて、亜子を虐めようなんて一瞬でも考えた自分を許せないと思ったことがあるけれど、今ちょっと、亜子を虐めるのも楽しいかも、と思ってしまった。よくない。反応が可愛いから虐めたいなどと考えるのはよくない。反省しよう。今日は反省の多い日だ。
「せ……千くん、その、万物に優しいから……わたしにも、いつも、優しいんだと思ってたけど、その、それも、あい、愛ゆえに……?」
「万物て」
亜子はいつも、俺のことを優しい優しいと言ってくれたから、優しい人間だと思われていることは知っていた。
けれど、まさか万物に優しいレベルで評価されているとは思わなかった。
なんだろう、徳が高いとか善意の塊とか、そんな風に受け取られていたのだろうか。
「勘違いも甚だしいな……。亜子以外の存在に対して、特に優しい気持ちを感じたことはないけど」
「そ、そうなの……?」
「俺が優しくしたいとか守りたいとか、そういう気持ちになるのは亜子だけだよ」
「ほんとに……?」
亜子は半信半疑といった様子だ。十四年余りに渡る今までの認識を崩すのは難しいのだろうか。
「そうだよ。亜子が特別なんだよ。誰にでも優しいから亜子にも優しいと思ってたの? その辺の有象無象に向けてるのと同じレベルの気持ちを亜子に向けてると思ってたの?」
「いや、そ、その……せ、千くんは、大変、友達思い、なんだと」
「友達だからじゃない。亜子が特別なんだ。さっきも言ったけど、亜子に抱いているのは友情じゃなくて恋情だから。ねえ、俺が嘘ついてると思ってるの? 亜子を愛してるって信じてくれないの?」
「っ、そんな、嘘なんて、思ってないよ。で、でも……」
「でも何」
詰め寄ると、亜子は躊躇いながらも、口を開いた。
「義務感、なのかと、思ってて……」
「義務感……?」
「そ、その、幼稚園の時に、わたしが園内で迷子になるような子供だって、面倒見なきゃ大変だって、千くんに刷り込んじゃったから。あんなに泣きついたから。今まで、ずっと、甘えて、いつも助けてもらって……。ずっと、守ってくれたから、亜子は庇護しなければならない、みたいな概念が、刷り込まれちゃったんじゃ、ないかって。千くん、優しいから、わたしのこと、いつまでも、見捨てられないんだって……」
亜子はそんなことを考えていたのか。意外だ。
「それで、わたしがあまりに低セキュリティな下宿生活を送ろうとしているのを危惧して、一緒に住んでまで面倒を見ようと、そういう、義務感なのかなと、思って……。ずっと一緒にいたいわけじゃないのに、一緒にいなきゃ駄目なんだって、そういう、責任、感じてるんじゃないかって……」
「違う。責任とか見捨てられないとか、全然そんなのじゃない。俺は、亜子と一緒にいたいから、亜子と一緒にいたいって、言ってるんだよ」
「ほんと……?」
「うん。義務感じゃなくてちゃんと下心だから安心して」
「そ、そうなんだ。よかった。下心なんだ。よかっ……え、したご……え?」
「俺は亜子を愛してるから、一緒にいたい。信じてくれる?」
愛を言葉にすると、やっぱり亜子は赤くなって俯いて。
それでも今度は、ちゃんと、小さい声で「うん」と返事をしてくれた。
義務や責任で一緒にいたがっていると思われていたなんて、思いもしなかった。
亜子には直球以外は届かないらしい。反省しよう。
今日から直球を投げ続けよう。
「そっか、愛の告白だったんだ……。急に、一緒に住む話になったから、追いつけなかったけど……。愛の告白だったんだ……愛だったんだ……」
俯いた亜子が、そんなことを呟いているのが聞こえた。
混乱の極みといった様子だが、やはり、拒絶の気配はない。手を離す素振りも見せない。
愛していることを信じてくれた。受け入れてくれた。
よし。
このまま、同棲を確約させよう。
亜子は引っ越しを旅行と勘違いするような子だ。
放っておくと、また遠くに行ってしまうに決まっている。
一秒でも早く、物理的に離れられない環境を作らないと、安心できない。
「亜子」
「はいっ」
呼び掛けただけで、びくっと肩を震わせて顔を上げる。可愛い。
「愛する人と一緒に住みたいと思うのは、普通のことだよね?」
「う、うん」
「俺は亜子のこと、愛してるよ」
「……うん」
「じゃあ、今すぐ一緒に住まなきゃいけないよね?」
「……うん……?」
若干、返事が疑問形だった気もするが、同意は取った。
今まで、一度だって亜子と、本当にずっと一緒にいられたことはない。
小学校と中学校ではクラスどころか学年が別だったし、高校に上がってからは会えるのが週一、それも夕方になれば帰ってしまう。
本当は、一日中、亜子には傍にいて欲しかった。
ずっと、それが願いだった。
一緒に暮らせばそれが叶う。
「今日からここが亜子の下宿先だと思って、ここから大学に通えばいいよ。ふたりで暮らすつもりでこの間取りの部屋にしたんだ。オートロック、冷暖房完備、バストイレ別、亜子の大学へのアクセスも良好。もちろん亜子は家賃なんて払う必要ないから。ちゃんと亜子用の部屋もあるから安心して。近くに大きい川があるから、川沿いに散歩するのも気分がいいよ。あと徒歩圏内にいい感じの喫茶店がいくつかある。近くに美味しいパン屋もあった。特にメロンパンが美味しかったから亜子も気に入ると思う」
快適な下宿生活にふさわしい要素をすらすらと並べ立てると、困惑で潤んでいた亜子の瞳が、きらきらと別の輝きを帯び始めた。
「えええ素敵……!」
亜子はかなり惹かれた様子だ。特に喫茶店とパン屋が効いていると思われる。不動産屋を巡った甲斐があった。
うん。もう一押し。
「ご飯は毎日、俺が作るから。自分で言うのは何だけど、料理は得意だよ」
「えっ、千くんの手料理付き……っ!?」
亜子の目の輝きが増す。亜子には何度か、自宅で料理を作って提供したことがある。毎回好評だったから、亜子には料理上手として認識されているはずだ。
「得意料理は鶏の唐揚げです。揚げたてをお出しします」
「冷めても美味しい水崎家の唐揚げが、揚げたてで……!?」
亜子はなんというか、食べ物関連への食い付きがいい。愛してると言った時よりも素直に嬉しそうな反応なので、若干思うところがないでもないけれど、釣れる手があることはいいことだ。これからもどんどん餌付けしていこう。
「立地良し、設備良し、三食賄いつき。どうかな、なかなか優良な下宿先ではないかと」
「うん、超素敵……!」
無邪気に喜んで頷く亜子。
こちらも嬉しくて微笑んでしまう。
ああ、もう、絶対に逃がさない。
「……あれ?」
亜子は、ふと、我に返った様子で、再び困惑の色を目に浮かべて、問いかけてきた。
「あの、千くん、なんか、準備が良すぎないかな……?」
「亜子には快適な生活をして欲しいんだから、準備くらい当然、十全に整えてるよ」
「いや、その……ほら、さらりと聞き流しちゃったけど、ふたりで住むつもりでここ借りたって、さっき……。もともとはここで、ずっとひとり暮らししてたんじゃ……?」
「最初に京都に来て借りてた部屋は引き払った。ここには亜子と住むために最近越して来たんだよ」
「さっ、最近? 一緒に住むために?」
「うん」
「で、でも……、下宿探しのために、滞在用の宿を取ってくれたのは、千くんなのに……」
「頼まれてたホテルなら最初から予約してないよ」
「……。え、してないの?」
「うん」
「うっかり?」
「ううん」
「……計画的犯行?」
「うん」
「な、なんで……?」
「電話の時点で一緒に住もうなんて言っても了承してくれないと思ったからとりあえず警戒されずに家に呼べるように亜子の話に合わせようと思って」
「そ、そっか。……え、じゃあ、電話かけた時から、もう、一緒に住む計画を立ててたってこと……?」
「ううん。もっと前から」
「え、も、もっと前って……。……? え、わたしが京都に住むつもりだって、どうして分かったの?」
亜子は電話の時と同様、やっぱり、ただただ不思議という感じで問いかけてきた。
あの時はごまかしたけれど、今度は正直に話すことにした。
「……実は、亜子の引っ越し先を勝手に調べて、行ったことがあるんだ。何度か。で、留守中に入って盗聴器仕掛けたり、亜子が部屋に忘れて行った携帯を覗いたりして、亜子のこと色々、調べてたんだ。あ、亜子、携帯のロックを誕生日に設定したら駄目だよ。一発で解除できてびっくりした」
「わあ……」
「どうしても、亜子の動向が知りたくて……。亜子が電話くれるまで、亜子に嫌われたと思ってたから、会いに行けなくて、隠れて、調べてた。亜子、元気にしてるかなとか、どこの大学行くのかなとか、気になって。……ごめん」
「そっか……」
「……俺のこと嫌いになった?」
「ううん。ちょっとびっくりしたけど……。千くんだし……。心配性だから、つい、そういうことしちゃったんだよね? 泥棒とか悪いことが目的じゃないって、ちゃんと分かってるよ。こんなことで千くんのこと嫌いにならないよ」
「亜子……!」
千くんだし、で許してくれる亜子。天使。
「あ、でも、わたしは千くんのこと知ってるからいいけど、他の人にそういうことしちゃ駄目だからね? 千くんのことをよく知らない人だったら、うっかり泥棒とか詐欺とか、犯罪だと間違われて、通報されちゃうかも……」
犯罪だと間違われて、というか、亜子にしたことは普通に犯罪なんだけれど、亜子は全く意に介していないようだった。
「他の人間になんかしないよ。亜子だけ。……騙したり、勝手に調べたりして、ごめん」
「ううん。元はと言えば、わたしが行方不明事件を起こして、千くんに心配かけたのが悪いんだし……」
「亜子は悪くないよ。……ふふ、亜子、許してくれるんだ。優しいね。俺なんかよりずっと優しい……」
惚れ惚れと亜子を見つめていると、少し落ち着きを取り戻しかけていた亜子は再び、真っ赤になって慌て始めた。愛してると言ったわけではないのに、言われた時のような反応を見せて、とにかく可愛い。
「……っあ、あの、せ、千くん、近いですね」
言われてやっと、いつのまにか亜子の方に身を乗り出して、亜子をソファの肘掛けに押し付ける形になっていることに気が付いた。せっかく二人掛けのソファなのに、狭い思いをさせて申し訳ない。
「あ、ごめん、退くね」
座り直すと、亜子は「心臓が……心不全が……」と呟きながら、肩で息をしていた。
このままだと大事な話をする前に、困惑の果てに気絶でもしそうだったから、亜子の呼吸が整うまで大人しく待つ。
そう、まだ、大事な話がある。
同棲の了承をもらった。
俺の行いを許してもらった。
あと、もう一つ、して欲しいことが残っている。
「……亜子、顔が赤いね。暑い? 喉乾いた? お水持ってこようか?」
「う、うん……」
名残惜しいけど亜子の手を離す。この様子なら手を離したって、もう逃げはしないだろう。
グラスと書類を持って戻ると、亜子はまだ頬を赤くしたまま、ぼんやりした状態でソファに大人しく座っていた。
「はい。お水」
「ありがとう……」
「ところで亜子、印鑑は持ってきてる?」
「あ、うん……。電話で千くんが、旅行の時は何かあったときのために、印鑑も持っておくといいよって、教えてくれたから、鞄に入れてきたけど……」
「そう。よかった。偉いね」
亜子が水を飲み終えて落ち着くのを待ってから、テーブルの上に書類を置いた。
「一緒に住むにあたって、ちょっと書いて欲しいものがあって」
亜子は書類を見慣れていないようで、きょとんとした顔でこちらを見上げた。
「これは?」
「婚姻届け」
「こんいんとどけ」
「うん。これにサインしてくれるかな」
次話、亜子の視点に戻ります。最終回まであと少し。
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