◆7話 (画策、捕獲)
夏休み。
亜子がいなくなった。
海外旅行に行くのだと張り切っていたが、その後、一向に連絡が来ない。
夏休みも半分を切ったので、さすがに変だと思って亜子の家に電話を掛けたら、繋がらなかった。
旅先で事故に遇ったのか、事件に巻き込まれたのか、不安になって家に向かったら、空き家になっていた。
留守なら分かる。なぜ、空き家になっている?
信じられなくて、それから何度も、電話を掛け直して、家に向かった。結果は同じだった。
夏休みはもう終わる。
意味が分からなかった。
亜子は戻って来ないだろうということだけは、分かった。
亜子はどこへ消えたのだろう。
今日もやはり亜子の家は空き家のままで、途方に暮れて、どこへ行くわけでもなく歩いていたら、見覚えのある顔とすれ違った。
「雛井兄?」
呼び掛けられて、思い出した。
確か、亜子が「木田くん」と言っていた。亜子の同級生。
こちらを見て、木田が驚いた顔をした。
「やっぱり雛井の兄貴だ」
こいつはなぜか、俺と亜子を兄妹だと思って疑わない。
「なんでここにいるんだ? 引っ越したって先生が言ってたのに。忘れ物?」
「……え」
そんな話、聞いていない。
「引っ越したって、何?」
こちらの問いに、木田はますます驚いた顔をしたが、律義に説明をしてくれた。
亜子は両親の転勤の都合で、夏休みの間に北海道へ引っ越したのだと。
何も言わないで呆然としていると、木田は「複雑な家庭なんだな……」と呟いて、「何か困ったことがあったら言えよ」と遠慮がちに言い残し、去っていった。
ひとりになってからも、しばらく、その場に立ち尽くしていた。
嘘だった。
亜子は嘘を吐いた。
旅行だと言っていたのに。
帰って来たら遊ぶ約束をしたのに。
亜子は嘘を吐いて、俺から離れて行った。
ずっと一緒にいると約束をしたのに、裏切って。
亜子を取り戻したい。
もう一度会って、話し合いたかった。
なぜ嘘を吐いたのか、なぜ連絡をくれないのか、関係を断ちたいと思っているからか、嫌いになったからか、なぜ嫌いになったのか、全て訊きたかった。
問い詰めて、理由を聞いて、考え直してくれないか、また一緒にいてくれないか、説得しないといけなかった。
話せばきっと分かり合える。戻って来てくれるなら、嘘を吐いたことも離れていったことも許す。
亜子を取り戻すために、まず、居場所の特定から始めた。
引っ越しは学校側にはきちんと伝えられているようだから、校友会名簿などに引っ越し先の住所があるはずだ。
中学校に向かうと、幸い卒業して一年も経っていないので、先生たちに顔は覚えられていて、すんなり職員室に入れてくれた。
亜子の担任だった先生のもとへ行き、彼女の大切な品を預かったままだったので郵送したい、というような適当な理由を話したら、あっさりと住所の載った紙を見せてくれた。引っ越し先の電話番号も確認できた。
現住所が分かると、ひとまず安心できた。
これでいつでも、亜子の家に行ける。
けれど、すぐに会いに行くような真似はしない。亜子は居場所を知られたくないからこそ、引っ越しであることを隠して離れただろうに、住所を調べて追いかけてきた事を知ったら、きっと怯えさせてしまう。
だから、まだその時期じゃない。準備が要る。
電話もかけるべきじゃない。亜子はわざわざ嘘を吐いて姿を消した。連絡もくれない。明確な意思を持って逃げたと思って、間違いない。そんな相手に電話をしたところで、出てくれないか、余計に関係をこじらせるだけだ。
亜子に再会するとしたら、逃がさない準備を整えた後でなくてはならない。
二度も逃がすような真似はしない。
これまでずっと、最も恐ろしいことは、亜子に嫌われることだと思っていた。
けれど、違った。最も恐ろしいことは、亜子がいないことだ。
嫌われていたとしても、亜子が傍にいるなら、その方がずっといい。離れたがっていたとしても、逃がさなければいい。一緒にいてくれるなら、それでいい。亜子が死んででも離れたいと言うのなら、一緒に死ぬ。
亜子を取り戻すためなら何でもする。
だから今は我慢する。
年単位の離別には慣れている。今まで何度もあったことだから。いつもと同じだ。大丈夫。我慢できる。
そして、亜子との離別は今回が最後だ。これは、今回を最後にするための準備期間だ。
冬休みに、亜子の引っ越し先へ向かった。
会うためではなく、亜子の存在を確認することと、情報収集が目的だった。
隠れて家を見張っていると、やがて、亜子が出てきた。
長い間、姿を見ていなかったから、堪らない気持ちになった。寒さも忘れて、胸が熱くなった。よかった。亜子がちゃんと存在している。
亜子は積もった雪を踏むのが楽しいらしくて、笑顔だった。元気な様子に安堵すると同時に、苦しくなった。
ああ、亜子は俺がいなくても平気なんだ。
亜子は俺がいないと何もできなかった。ちょっとしたことで困ってすぐに泣いてしまう子だった。
それなのに。
困った時は、誰に助けを求めるのだろう。
声を掛けたくて、つい飛び出しそうになったけれど、我慢した。目的を忘れてはいけない。
今、姿を見せたら何も始まらない。滞在できる日数は限られているから、効率的に動かなくてはならない。
尾行するとか、留守中に盗聴器を仕掛けるとか、情報収集に必要なことは多い。犯罪であることは分かっているけれど、亜子を取り戻すことに比べたら、些末な事だ。
亜子を取り戻すためなら何でもする。
高校三年生の夏、京都にある大学を進学先に選んだ。
亜子が、かつて楽しそうに語っていた目標のままに、京都の大学を目指していると知ったからだ。
現状、亜子は高校一年生で、途中で気が変わる可能性も十分にあるけれど、亜子はなかなか、気が長い傾向がある。数年後も目標を変えない可能性は高かった。そして、その予想通りになった。
大学二年生の冬、亜子が志望の大学に合格したことを知った。
実家から通学するとは考えにくいから、亜子は一人暮らしをするだろう。
一人きりの亜子なら、簡単に捕まえられる。会って、話をしよう。
離別からもう数年が経つから、偶然を装って接触すれば、さほど警戒されずに話を聞いてくれるかもしれない。
嘘を吐いて離れた理由を聞いて、また一緒にいてくれないか、説得しよう。
もし、頑なに離れようとするのなら、少し手荒になるのは気が進まないけれど、逃がさない手段は考えてある。無理やり心変わりさせる方法もなくはない。
けれど、できるなら亜子に酷いことはしたくない。
一緒にいてくれるならそれでいいのだと分かって欲しい。大事にする。
自由を与えること以外は何不自由させないから一緒にいて欲しい。
亜子とまた一緒になれるように準備を進めながら、日が経つほどに、思いが募っていった。
ほとんど憎悪に近いような気持ちだった。
亜子と話し合うことを想像してみても、いつの間にかそれは、責めるような、追い詰めるような物言いに変わってしまう。罰したい、という考えさえ、浮かんでしまう。
これは間違いだ。だって、亜子が傍にいた頃は、亜子を見ると、優しくしたい、守りたい、愛おしい、そういう気持ちで占められていた。憎いと思ったことは一度もない。
だから、亜子が戻って来てくれるなら、傍にいてくれるなら、今の間違った気持ちも、全部愛情に変わるから、ちゃんと優しくするから、幸せにするから、どうか、戻って来てほしい。
再会した亜子を問い詰めて、誤って殺してしまう夢を、何度も見た。目覚めた時は、まだ間違っていないことに、心から安堵した。
再会した亜子が受け入れてくれる夢を、何度も見た。夢の中の彼女は、何をしても許してくれる。また離れていかないか心配で本当に一緒にいてくれるのか試したくて、思わず酷いことをしても、全部許してずっと傍にいてくれる。目覚めた時は、夢だったことを知って、悲しくなった。
だからいつも、今日は亜子を殺す夢であってほしいと思って眠りにつく。目覚めた時に死にたくならないのは、その夢の方だから。
もう全部駄目になっていいから、今すぐ亜子のもとに行って、顔を見て、声を聞いて、触れたいと、何度も思った。
それでは今までの準備の意味が無くなると、それでは永遠にいることは叶わないのだと、何度も思い直した。
衝動的な思いを押さえて、我慢して、機会を待ち続けて、ようやく、ここまで来た。
準備はほとんど整っていた。
もうすぐ、亜子を取り戻せる。
今度こそ、ずっと一緒にいることができる。
それは、長い苦痛の日々に、やっと終わりが見えたと思った頃だった。
携帯電話が鳴った。
時間を見ようと、たまたま手にしていた携帯電話に表示されたのは、知らない番号、ではなかった。
一度もかけたことは無いけれど覚えている、亜子の引っ越し先の電話番号だった。
電話。
亜子から。
反射で通話ボタンを押していた。
「っ、亜子!?」
思わず呼ぶと、電話から「千くん!」と、嬉しそうな亜子の声がした。
目の前が真っ白になるくらいの衝撃だった。
こうして、亜子から名前を呼ばれるのは、いつ振りだろう。
あの頃と何も変わらない、屈託のない、亜子の声。
「あれっ? どうしてわたしの電話だって、分かったの?」
当然の質問だ。開口一番に亜子と口にしたのがいけなかった。
まさか勝手に電話番号を調べたとは知らないだろうから、疑問を抱くのも無理はない。
だが、不審がるのではなく、ただただ不思議、というような声の響きだったから、大丈夫だ。
「携帯の番号を教えた人は少ないから。それで知らない番号から掛かってきたから、電話帳にいない相手でこの番号を知ってる人は、亜子かなって」
突然の電話で動揺しているのに、流暢に答えを返せた自分に驚いた。
「そっかー」
適当に返した答えだったけど、あまり深く悩まずに納得してくれたようだった。
亜子との会話。情報収集のための盗聴時に一方的に声を聞くことはあったけれど、こうして会話をするのは、あの日以来だ。
「よかった。もし番号が変わってたら、どうしようかなって思ってたから、ちゃんと千くんに繋がって嬉しい」
無邪気に喜ぶ声に、困惑した。
俺を嫌いになって離れていったはずなのに。
これじゃあ、一緒にいた頃と全く変わらない。
だったらどうして。
「ねえ、亜子」
「うん?」
「どうして嘘吐いたの?」
「っ」
亜子が息を呑むのが分かった。
「……嘘って、その、中学生の時に、海外旅行に行くんだって、千くんに言ったこと……?」
明るい声が一転、怯えたものになった。
つい責めるような物言いをした事を後悔した。怯えさせたくないけれど、言葉を重ねようにも、さらに追い詰める類のものしか浮かばない。
黙って答えを待った。
どんな理由であれ、もう今後の行動は変わらないし、そのための準備は出来ているけれど、嘘を吐いて離れていった理由だけは、どうしても、今、知りたかった。
「う、そ、じゃないの。いや、嘘になっちゃったんだけど! は、恥ずかしい……」
……。
え?
恥ずかしい?
「あのですね、両親のお話をあんまり聞いてなくてですね、引っ越しじゃなくて、旅行だって、勘違いしてたの。それと、飛行機に乗るって聞いてたから、てっきり、海外に行くものだと……っ。それで、千くんにもクラスメイトにも、海外旅行に行くって言いふらしましたぁっ!」
忸怩たる思い、みたいな感情を滲ませて、後半は若干開き直り気味で、言い放たれた。
予想外のテンションだった。
「勘違い……?」
「うん。ごめんね、お土産買うって約束したのに、怒ってるよね……?」
いやお土産はどうでもいいんだけど、亜子は、嘘を吐いたわけじゃなくて、勘違いしていただけ?
故意に離れようとしたわけではない?
明確な意思で、逃げたわけではない?
嘘だ。
そんなはずない。
勘違いだったなら、すぐに連絡をくれれば解決したことじゃないか。
「どうして連絡くれなかったの?」
「だって恥ずかしかったんだもん!」
亜子が怒鳴った。珍しく。怒鳴っても迫力は皆無だけれど。
「すぐに言ったらよかったんだけど、言い出せなくて、それで、日にちが経ったらもっと言い辛くなって、それで……」
徐々に、声の威勢が無くなっていく。
「それで……」
ついに、亜子は黙り込んでしまった。
「……」
そんな理由で。
勘違いした。恥ずかしかった。言い辛くなった。
そんな理由で。
そんな理由で、亜子は俺から黙って離れていったのか。
もっと、違う理由だと思っていた。
もっと、取り返しのつかないような理由だと思っていた。
きっと、取り返しのつかないことをしない限り、再び一緒にいることができないくらいの理由で逃げたのだと思っていた。
そんな理由だったことが、嬉しい。
そんな理由だったことが、腹立たしい。
思考がまとまらなかった。言葉が出てこなかった。
亜子の笑顔が欲しいのか、立ち直れなくなるまで泣かせたいのか、分からなかった。
沈黙していると、電話の向こうから聞こえてきたのは、泣きそうな声だった。
「ごめ、ごめなさい。ごめんなさい」
縋りつくような声だった。
「き、切らないで、千くん、嫌わないで……」
「……!」
あの時と同じ。
あの時、初めて亜子に出会った時。
世界に頼れる人間は他に誰もいないという風に、全力で縋りつかれた時と、同じ。
あの瞬間、恋に落ちてから、ずっと。
泣いて縋って助けを求めてきて、見捨てられないように必死でしがみついてきて、ずっと一緒にいるから大丈夫だと言ったら泣き止んでくれて、彼女を守りたいと思って、どうしようもなく愛おしくて、それからずっと、落ち続けて。
今も、心を奪われたままでいる。
「……嫌いになんか、ならないよ」
嬉しい。
亜子に嫌われたわけじゃなかった。
亜子は逃げようとしたわけじゃなかった。
それどころか、俺に嫌われることを怖がってさえいる。
「ほんと……? 怒ってない……?」
まだ、怒られることを怯えたような、弱々しい声が返ってきた。可愛い。亜子に縋りつかれることが堪らなく嬉しい。
「うん」
それから、すすり泣く声が聞こえてきた。許されたことに安堵して泣いている。すごく心地が良い。このままずっと聴いていたいくらいだった。
やがて泣き止んだ亜子は、心配をかけたことを何度も謝ってから、大学生になること、一人暮らしをするつもりであること、近々京都に行くこと、ひとりで飛行機に乗るのは初めてだから緊張していること、などを話した。
亜子と再び、こうして穏やかに会話をしていることが、まだ信じられない。幸せで、どうにかなりそうだった。
「それでね、千くんに会いに行きたいと思ってて……その、どうかな……?」
と、亜子は遠慮がちに言った。断るわけがない。
亜子の方から会いに行きたいと言われるとは、思ってもみなかった。
こちらから捕まえることばかり考えていたから。
今はどこに住んでいるのかを訊ねられたので、京都に住んでいると答えたら、「すごい偶然!」と、驚いていた。亜子の動向を探って先回りしていたと知ったらもっと驚くだろうなと思いつつ、「よかったら案内しようか」と提案したら、とても喜んでくれた。
後はとんとん拍子に段取りを決めて、通話が終わった。
しばらく経っても、電話を切る直前の「またね」という嬉しそうな声が、まだ、頭から消えない。
「うん。……待ってる」
もうすぐ亜子に会える。
どれほど亜子を愛しているか、きっと亜子は知らない。
俺は亜子がいないと駄目なのに亜子はそれを全く分かっていない。
こっちの気も知らないで、どんなに思いを募らせているかも知らないで、あんなに無邪気に喜んで。
今度は絶対に逃がさない。ずっと一緒にいる約束を守らせる。どんな手段を使ってでも。
俺は亜子がいないと生きていけないのだから、亜子もそうなるべきだ。
こんな人間に捕まって、亜子は後悔するだろうか。
後悔しても、もう遅いけれど。
亜子は縋りつく人間を間違えたね。