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永遠は前提、密度の話  作者: 棚本いこま
永遠は前提、密度の話

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6/18

◆6話 (回想、平穏、蜜月)


 幼い頃の亜子は、ひとりで息をして歩いているのが奇跡的に思えるくらい、とても頼りなくて、すぐに泣く子だった。


 砂場の段差が降りられなくて泣く。

 絵本の表紙に描かれたピエロが怖くて泣く。

 玩具置き場からスコップを見つけられなくて泣く。

 靴を左右間違えて履いている事に気が付かず、謎の違和感に苛まれて泣く。


 段差は手を繋いで一緒に降りて、ピエロの絵本は本棚の裏に隠して、スコップは置いてある棚を教えて、靴は正しく履き直させる。


 そんな簡単な手助けで、幼稚園児の亜子はすぐに泣き止んで、もう、にこにこしている。

 すっかり懐いて、まとわりついて離れない。可愛くてしょうがない。


 やがて、亜子は困ったことになると、第一声に「せんくん」と口にするようになった。他の誰でもなく。

それが堪らなく嬉しかった。亜子が助けを求める相手はひとりだけだった。

これから先も、ずっと、そうあって欲しい。


「ねえ、あこ、けっこんして」


「けっこん?」


「うん。おとなになったら、およめさんになってくれる?」


「およねさん?」


 亜子はちょっと考えて、困った顔で首を横に振った。


「あこ、おおきくなったら、およねさんじゃなくて、めろんぱんになるごよていだから……」


 将来なりたいものが、菓子パン。なんて夢に溢れた目標なんだ。魂が清い。


「あこなら世界一かわいいメロンパンになれるよ」


「ほんと?」


 亜子なら食パンだろうが揚げパンだろうが世界一可愛いと保証できるので、心を込めて頷いたら、亜子は「うえへへ」と照れ笑いをした。


「メロンパンになったあとでいいから、それならおよめさんになってくれる?」


 そう提案したら、今度はこくこくと頷いてくれた。


「うん」


「ほんと? けっこんしてくれる?」


「うん。せんくんとめろんぱんになってから、けっこんする」


 道連れでメロンパンにされたけれど、亜子が了承してくれたのなら何でもいい。幼心に「よし言質取った」と思っていたから、我ながら可愛げのない6歳児だ。亜子はこんなにも天使なのに。


 卒園する時は、亜子と離れ離れになる事が辛かったけれど、亜子がすごく泣いてくれたから、冷静になれた。再会なんてすぐだと、そしたらずっと一緒だと、半分は亜子をあやすために、半分は自分に言い聞かせるために口にして、泣くのは我慢した。





 小学一、二年生の当時は、亜子の自宅に行く発想は無かったし、そもそも住所も知らなかったから、毎日カレンダーにバツをつけて、亜子の入学を待つことしかできなかった。


 毎日、寂しくて死にそうだった。亜子が「せんくんにあげる」と言ってプレゼントしてくれた、綺麗な形の落ち葉とか、すべすべした小石とか、会心の出来の泥団子とか、それらがなかったら危ない所だった。


 だから、待ち望んだ再会の日、亜子に「だれ?」と初対面リアクションをされた時の衝撃は忘れられない。


 亜子に忘れられた。


 虐めておけばよかったと激しく後悔した。


 人間は良い記憶よりも、悪い記憶の方が強く刻まれるらしいから。


 でも、その後悔も一瞬だった。

 亜子はすぐに俺のことを思い出してくれた。


 心から安堵した。あんなに泣いたのは、物心ついて以来、初めてだったと思う。




 小学生になっても、亜子は相変わらず、ひとりで野に放ったら秒で自然淘汰されそうな子だった。


 むしろ、ぼんやり気味で大人しかった幼稚園時代より、好奇心が旺盛になって行動力の増した小学生亜子の方が、危険度が上がったと言ってもいい。


 亜子は誰かが守ってあげないといけない子だ。そして、その誰かは自分だけであって欲しい。亜子が他の人間に助けを求める前に、いつだって、傍にいて、亜子を一番に助けたい。


 さすがに休み時間の度に下級生のクラスに行くのは尋常じゃないと小学生ながらに分かっていたのでそこは自重した。


 けれど、登下校なら一緒にしてもいいだろう、亜子をひとりで歩かせて交通事故とか誘拐に遇ったら大変だし、ということで、毎日迎えに行った。


 迎えに行くと、亜子は顔を綻ばせて駆け寄ってきた。手を繋いで歩いていると、時々こちらを見上げてきて、目を合わせると安心したような笑顔を見せた。可愛くてどうしようもない。


 気の迷いとは言え、一瞬でも亜子を虐めようと考えた自分が許せない。こんなに可愛い生き物を虐めるなんて正気の沙汰じゃない。悪でしかない。

 亜子を虐める存在は、人間でも動物でも物体でも、すべて排除する方針だった。


 でも、亜子を傍で守れる期間も残りわずかだ。小学校の卒業が迫っていた。自分は中学生になっても、亜子は小学生のまま。また、亜子と離れてしまう。


 卒業後も、一緒に登下校を続けたいのが本心だけど、学校が違うのに送迎を継続するのは、さすがに亜子の両親から変に思われるだろう。小学校と中学校は距離が離れているので、時間的にも無理だ。小中一貫校ならよかったのに。


 小学校の帰り道。こうして亜子と手を繋いで帰るのも、もうすぐお終いだと思うと、どうしようもなく感傷的な気持ちになった。


「ねえ、亜子。幼稚園の時のことなんだけど」


「うん」


「大人になったらあれになりたいみたいな、将来の夢の話、したことあったよね」


「えっと……あっ」


 亜子の顔がみるみるうちに赤くなったので、ちゃんと覚えてくれていたのかと期待したら、「あの、それ、忘れてください」と言われた。


 結婚するのが、嫌になった……?


 立ち止まった。


「あのよろしければどうしてか理由を教えてください」と、努めて冷静に尋ねると、「将来はメロンパンになりたいとか、恥ずかしすぎるから……」と、亜子は顔を覆った。


「メロンパン……」


「もう大人だから。今の将来の夢は、石鹸屋さんだから!」


「せっけん……。……。メロンパンのほか、何か、覚えてない?」


「え? うーん、将来の夢だから、シャチも候補に入ってたかな……?」


「シャチ……」


「千くん? どうしたの? お腹空いたの?」


「ううん、大丈夫……」


 分かっている。幼稚園児の頃に結婚の約束するのは、さすがに早過ぎた。おままごとの延長みたいなものだ。亜子が忘れてしまうのも無理はない。


 亜子はとても慕ってくれているけれど、きっと、「千くんは友達」以上の意識を持っていない。

今はまだ、それでも構わない。信頼を寄せてくれている、今はまだ、それだけで。






 中学生になった時、本当なら休日に家に遊びに行くくらいはしたかった。


 でも、亜子の両親から「中学生になったのに、小学生の子の家に遊びに来るなんて……」と変に思われるかもしれないし、周囲の人間から「亜子って小学校に友達いない子なんだ……」なんて思われて亜子が虐められたりしたら大変だと思って、自宅に会いに行くのは我慢した。


 のちに、亜子が「変になんて思わないのに」と言ってくれたので、遠慮し過ぎだったことが分かったけれど、子供心に色々と気を回していたのだ。


 亜子がいない寂しさを紛らわせたくて、他にすることも無いから勉強と部活に集中した。

 その分結果になって返ってきたので、成績は良い方だった。亜子は勉強が苦手そうだったから、分かりやすく教えてあげられるように頑張ろう、と思うとモチベーションも上がる。


「水崎! 英語のノート見せてくださ痛あっ。刺さってる、ノートの角刺さってる!」


「牛乳の気分」


「ちくしょう買ってきます!」


 亜子以外の人間には、どうにも優しい気持ちを持てないので、同級生に接する態度としては冷たい方だったと思う。

でも、勉強と部活の成績が良かったせいか、「自分にも他人にも厳しい真面目な人」みたいに、いい風に受け取られていたようで、非難されたり、村八分にされたりといったことは無く、学校生活で困ったことはあまり起こらなかった。


 なお、同じ弓道部の部員からは、ありのままに冷たい人間として受け取られており、「冷徹」「ツンドラ地帯」「むしろ氷崎」「鬼」「スパ崎」「暴君」等、好き放題なあだ名を付けられていた。亜子が入学後は、「シスコン」「餌付け崎」が新規追加された。


 弓道部の主将になったのは自らの意思ではなく、部内対抗の主将決定戦の結果だ。


 主将決定戦は、弓道で最も大切な不動の精神を試すためとかなんとかで、映画研究部に借りたホラー映画を視聴覚室で観た後でおこなうのが部の伝統だった。


 その年に観たホラー映画は、小学生の頃に亜子と一緒に観たことがあるものだった。


 家族で雪山でホテルで斧、そうそう、亜子がしがみついて離れなかったなあ、可愛かったなあ、ああ、このシーンで悲鳴上げてたっけ、ふふ。


 思い出し笑いの声が漏れていたらしく、部員たちが一斉にこちらを見た。ちょうど凄惨なシーンで微笑んでいたせいか、全員ドン引きの表情だった。サイコパス殺人鬼でも見るかのような目だった。のちに、「あの時、確かに水崎は笑っていたんだ……」と、部員は語る。


 映画視聴後の主将決定戦では、ホラー映画の影響か、部員たちの行射は乱れていて、結果、ひとり平静だったため圧勝した。してしまった。


 最初は面倒だなあと思っていた。面倒だけど、せっかく得た指揮権なので、練習メニューを好きなように組んで、遠慮なく指導してみた結果が、「スパ崎」である。「なぜ銭湯」と訝しんでいたら、お風呂的意味ではなくスパルタのスパだと部員に解説された。


 寒冷地扱いはもとからだったけれど、スパルタひいては暴君扱いまで加わって、「やっぱり主将になってもいいことないな」と貧乏くじ気分だった。けれど、のちに入学した亜子が大変な尊敬の目を向けてくれたので、「なってよかった」と心から思った。


「サド崎! 数学のノート見せた上で解説くださ痛あっ。刺さってる、ノートの角刺さってる!」


「週変わりで変なあだ名を付けるな。なんで佐渡。行ったことないよ。行ってみたいけど」


「ふっ、分かってるって水崎、飲み物だろ。今日の気分は豆乳か? コーヒー牛乳か?」


「アーモンドミルク」


「健康志向か! そんなお洒落な飲み物は購買にねえよ!」


「ならテスト対策には付き合わない」


「苺牛乳とフルーツ牛乳で手を打ちませんか!」


 中学校のいいところは、亜子と一緒にお弁当を食べられるところだ。


「ねえ、亜子は苺牛乳とフルーツ牛乳、どっちが好き?」


「またそんな悩ましい質問して千くんは……! うーん、いっ……ふ……、ぅい、苺……!」


「じゃあ、はい」


「えっ、いいの?」


「クラスの人にジュース二つ貰ったけど、一人じゃ飲みきれないから」


「ありがとう!」


 嬉々として苺牛乳にストローを刺す亜子の様子が可愛いので、つい頭を撫でていると、なんとなく、周囲からの視線を感じた。下級生と親密なので目立っていることは知っている。


 なので、もうちょっと人目に付かない場所で昼食を取った方が落ち着くけど、亜子が中庭を気に入っているので仕方ない。


 亜子とお弁当を食べながら、ふと思う。本当なら、昼休みは同級生と過ごす方が、亜子にとっては良いことなのだろうか。


 来年には亜子を残して卒業する。二年生になった亜子に、一緒にお弁当を食べる友達ができなくなって、虐められたらどうしよう、と、急に不安になる。


 そう思う一方で、亜子と過ごしたい気持ちの方を優先してしまう。


 きっと明日も、変わらず亜子と一緒に学校に来るし、一緒にお弁当を食べる。


 亜子は優しい優しいと言ってくれるけれど、全然そんな人間じゃない。


「千くん、お腹空いてるの……?」


 暗い顔をしていたようで、亜子が心配そうに顔を覗き込んでくる。


 こちらが元気のない様子を見ると、亜子はなぜかいつも、体調不良よりも真っ先に、空腹を心配してくれる。


 おかしくて、つい笑ってしまう。


「今お弁当を食べ終わったところだよ」


「その、育ち盛りだから足りないのかなーっと」


「来週テストだから憂鬱だっただけ」


 テストを憂鬱に思ったことは無いけれど、そうごまかしたら、亜子は激しく首を縦に振って同意した。


「ね、中学校の勉強って難しいね、いきなり代入って言われても!」


 亜子は「マイナスを足したら引き算ってもう訳が分からない。昔の数学者が余計な発明をしたせいで……」と顔を顰める。数学が目の敵らしい。


「小学校より教科が増えるし、一年生の頃は戸惑うよね」


「うん……困惑が止まらない……。あ、でも、勉強は嫌だけど、小学校より中学校の方が好き」


「そう?」


「うん。憧れだったセーラー服だし、学校でジュース飲んでもいいし、手芸部楽しいし」


 もう数学への怨みを忘れて、にこにこして、亜子は指を一本ずつ立てて、好きな点を挙げる。


「あと、千くんとお弁当食べられるから」


 亜子は何気なく発した言葉で、あっさりと肯定して、救ってくれる。


 抱き締めたいのを我慢して、代わりに頭を撫でていたら、「今日はむやみに褒めてくれる……?」と、首を傾げられた。







 中学校を卒業し、また亜子と離れることになったけれど、今回の別離は以前とは異なる。


 今まで放課後におこなってきた勉強会の続きを、休日にすることになったからだ。


 そうしたいと、亜子が言ってくれた。自分の願いを亜子が肯定してくれたことが、何より嬉しい。


 学校は別でも毎週会える。学力に寄与するということで、亜子の両親は公認どころか推奨してくれている。素晴らしいシステムだと思う。


 亜子は晴でも雨でも乾燥注意報が出ている日でも、元気に来訪してくれた。


 来るときは毎回、律義に「千くんの家に行ってもいい?」と電話で確認が来る。

亜子が来て駄目な日など無いので、いつも「うん。待ってる」と返す。


 初めて携帯電話に亜子から電話がかかって来た時の通話はちゃんと録音して、音声データを大事に保存してある。


「もしもし、あの、これは千くんの電話でしょうか」という、緊張気味の声に始まる一連の通話は、亜子の可愛らしさが詰まっていて、何度聞いても飽きない。


亜子が傍にいなくて寂しくて死にそうな時に聴くと心が安らぐ救命グッズとなっている。


一昨日も再生して亜子の可愛さに浸っていたら、通りがかった姉に「え、千、怖……」と真顔で引かれた。


 今日も亜子から電話がかかって来て、「待ってる」といつもの答えを返すと、今回は「首を洗って待っててね!」と、元気な声で不穏な慣用句が返ってきた。

おそらく使用方法を間違えている。亜子はしばしば、熟語や慣用句の使い方を間違える。


 だからと言って国語が苦手なのかというとそうではなく、亜子は妙に豊富な語彙の持ち主であり、日常会話で「寂寞」や「間隙」などを普通に挟んでくるから驚く。


このあいだ作文を見せてもらったら、である調を駆使した力強い文章を書いていたから、普段とのギャップについ笑ってしまった。


 振り返れば、亜子との記念すべき初会話、4歳児亜子の第一声は「孤独死」だ。「結婚」という単語は知らなさそうだったのに、知識のムラがすごい。計り知れない。


 亜子の来訪に備え、玄関が綺麗なことをチェックしながら、亜子の謎の語彙力を思い返して、つい「ふふ」と笑い声を漏らしたら、通りがかった姉に「え、千、怖……」と真顔で引かれた。

今から出掛けるらしく、こちらにやって来る。


「千、お前、やばい奴だな……」


(もも)に言われたくない」


「なぜ」


「中学で『やばい方の水崎さん』って言われてたの、百の方」


 ちなみに、中学一年生の時、姉の元担任から「水崎弟はまともだなあ」と、しみじみと言われたことがある。姉に苦労させられていたのだろう。教職も大変だと思う。


「千が学校で猫被ってるだけだろ」


「俺がいつ猫を被った。早く出掛けなくていいの?」


「千が邪魔するからだろ。靴箱見つめて笑み浮かべてる弟を心配したらこれだ。この。このやろう。避けるなてめ生意気なこんにゃろ」


 出会かけ際に弟に蟷螂拳をかます姉を見送ってしばらく後、インターホンが鳴った。


「千くん。来ました」


「うん。いらっしゃい」


 出迎えると、いつもは元気よく「お邪魔します!」と言って入ってくる亜子が、今日は玄関で立ち止まって、まじまじと顔を見つめてくる。


「どうしたの?」


「『夕飯抜きよ、さあ今夜は床で寝なさいシンデレラ』って顔してみて」


 唐突に難しい注文を振られた。一応やってみた。


「うーん、これじゃないか……。あ、『寄るなこの下等生物が』って顔してみて」


 何の注文なんだこれ。一応やるけど。


「わあ、そっくり!」


「何が……?」


「さっきね、なんかすごい綺麗な女の人とすれ違ってね、髪が長くて、さらーっとしてて、氷の女王陛下って感じでね、一瞬だけ目が合ったんだけど、なんか千くんに似てたなあって思って、やっぱりそう! 千くんがロングヘアにして、この下等生物がって表情してたら、もうそっくりだよ」


 業腹だが、姉と瓜二つだとよく言われる。そっくりというのであれば、亜子がすれ違ったのは姉で間違いないだろう。そして百の眼光の鋭さは折り紙付きだ。


 百め。亜子に高圧的な視線を向けたな。亜子を怯えさせたな。夕飯の時は覚えてろ。


「はっ、もしかして千くんの」


「ただの他人の空似じゃないかな。ただの他人。ほら、中に入ろう?」


「あ、うん、お邪魔します!」


 両親はだいたい家にいないし、姉も休日はたいてい朝から出掛けている。お手伝いさんも日曜は休み。 

 誰にも邪魔されない静かな空間で、穏やかな気持ちで、亜子とふたりだけで過ごせる。すごく落ち着く。


 亜子が演習問題を解き終わって、採点したら満点だったので頭を撫でて褒めた。

 亜子はおとなしく撫でられている。「もっと褒めてくれていいんですよ」といいたげな表情だ。まことに可愛い。


 近所の秋田犬は耳の後ろあたりをくすぐると喜ぶので、なんとなく亜子にもそうしてみたら、くすくすと笑い出した。「あ、喜んでる」と思って、続けて、わき腹をなぞったら、「やめあははは」と笑ってひっくり返った。もう反応が秋田犬そのものだ。あこた犬。


 亜子がじたばたと楽しそうにしているので、ほのぼのとした気持ちで続けていたら、「やめ、はは、せ、や、ふふ、やめてってばっ!」と、最終的に怒鳴られた。なぜ。


「はあ、ふう、なんで急にこしょばすの! 死ぬでしょ! 処刑なの!?」


「え、ごめん……。亜子が楽しそうにしてたから、楽しいのかなって……」


 涙目で怒っている顔が可愛いので写真に撮りたかったけれど、さらに怒られそうなので諦めた。


「降参のポーズ取ったのに!」


「近所の秋田犬が撫でて欲しい時にしてくるポーズと同じだったから……」


「降参が通じないから暴れたのに!」


「近所の秋田犬がじゃれてくる様子にそっくりだったから……」


「なんで近所の秋田犬ベースで考えるの! ヒト科! 人類! 亜子!」


「ごめん……」


「こんなに笑ったのはベニテングダケを食べた時以来だよもう」


「食べたの?」


 あんな明らかに毒キノコの見た目をしている物体を食べるなんて、亜子は本当に不安な子だ。


「亜子……拾い食いはするなってあれほど」


「また犬扱いして!」


 亜子はなかなか機嫌を直してくれなくて、頭を撫でようと手をそーっと伸ばしたら、べしっと叩き落とされた。非常なショックを受けていたら、亜子はぎょっとして、「えっ、痛かった? 大丈夫? ごめんね」と、不機嫌そっちのけで心配し始めた。優しい。


「おやつにしようか」と言ったら、もう完全に機嫌が直って、目をきらきらとさせている。

 お菓子と紅茶をお盆に載せて部屋に戻ると、正座で待っていた。いじらしい。ハチ公。


 亜子は勉強を一通り終えてお菓子を食べると、とろんとした目になって、見るからに眠そうになる。


 本人曰く「勉強する=眠くなる、お腹いっぱいになる=眠くなる、勉強してお菓子食べる=とても眠くなる、の三段論法です」らしい。三段論法にはなっていないけれど、言いたいことは分かるし、どや顔が可愛いから許す。


 うとうとし始めた亜子をベッドに運んで電気を消しておくと、睡眠に適した環境に完全に順応して、いつまでも眠り続ける。あまり昼寝が長いと夜に眠れなくて困るだろうから、そこそこの時間で声を掛けると「あとごふん……」とお約束な台詞を呟いて、なかなか起きようとしない。


 一方、眠り始めた亜子を日当たりの良い窓辺に転がしてみると、ものの数秒でカッと目を見開き、「外で遊ぼう!」と元気に起き上がる。亜子はソーラー電池式なのだと思う。


 勉強して、お菓子を食べて、他愛も無い会話をして、手を繋いで歩く。これまでで一番、ふたりきりでいる時間が長くて、満ち足りた、温かい気持ちになる。


 ずっとこうしていたいけれど、暗くなる前に亜子を家に帰さないといけないから、夕方になればこの時間は終わりだ。

 満ち足りていた分、手を離す瞬間は、ひどく寂しい。


 けれど、亜子はいつも「またね」と言ってくれた。


 亜子が次を約束してくれるから、次を待つ間の寂しさは、甘さを伴うものだった。


 今度はどんなお菓子を用意しようか、次は電車で遠出してみようか、雨だったら何の映画を観ようか、亜子は喜んでくれるだろうか。一緒にいる時間は全然足りなかったけれど、それでも、幸せだった。

 亜子が一緒にいる、その続きを、当たり前のように考えることができた。


 この日々は確かに、蜜月だった。

 永遠に続くことを疑わなかった。



 夏休みが来るまでは。



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