◆3話 離別、再会
「千くん聞いて聞いて、夏休みに入ったらすぐ、海外旅行に行くことになったの! すごいでしょ!」
「海外? すごいね。どこに行くの?」
「あ、聞いてない……。海外は海外と思ってたから、深く考えなかった……」
「亜子らしいね」
「絶対にお土産、買うからね! それはもう、飛行機検査で引っ掛かるような、すごいの選ぶからね」
「うん。穏当なものにしようね」
「帰って来たらすぐに電話するから、そしたら毎日遊ぼうね! 千くんとする用に、すでに花火セット買ったの。お徳用だから、数がもう、すごいことになってるよ」
「準備が早いね。うん、楽しみにしてる」
「じゃあ、いってくるね!」
「うん。気を付けていってらっしゃい」
というやりとりを、千くんと電話でしたのが、数日前。
「え? 引っ越し?」
「え? だいぶ前から言ってただろう?」
なんか旅行の準備にしては大掛かりだなあ、とは思っていたけれど。
旅行じゃなくて、引っ越しだった。
ということに気が付いたのが、家を出発した後だった。
「な、な、なんてことだ……」
さらに、行先は海外ではなくて、北海道だった。
確かに岡山県からすれば海の向こうには違いないが、国内である。
「もう亜子、北海道に転勤になったから引っ越すって、言っただろう?」
「海の向こうに行く、くらいの説明だったもん!」
「ええー、ちゃんと説明したはずだぞ。福引で当てた超いい肉ですき焼きした時に……」
「すき焼きの時なんて全意識がすき焼きに向いてたよ! そんな朦朧としてる時に重要な説明しないでよ!」
飛行機乗るよー、海を超えるよー、くらいの説明を受けた覚えはあるけれど、とても軽いノリで言われたから、まさか引っ越しとは思わなかったし、記憶の大半が超いいお肉の味で占められている。
「うわあ。海外旅行するって自慢しちゃったよ。うわあ」
「安心しろ、もう転校の手続きも完璧だぞ」
「うわあ……」
道理で、夏休み前の終業式で担任の先生から、「雛井、なんか、隠したいみたいだから夏休み明けまで、みんなには伏せておくが、うん。お別れをみんな告げるのが寂しいんだな。うん。雛井は生命力が強いから、きっと新天地でも大丈夫だ。元気でな!」と、謎の労りを掛けられた訳である。
ぬーちゃんや木田くんには、夏休み明けに学校経由で引っ越しが伝わるだろうから、夜逃げとか国外逃亡とか、あらぬ心配をかけることはないだろう。それに、ふたりからは「今さら亜子氏が何をしでかしても驚かない」「今さら雛井が何をやらかしても驚かない」と、厚い信頼を寄せられている。
問題は、千くんである。
ものすごいお土産を買うという約束も、夏休みにたくさん遊ぼうという約束も、守れなくなってしまった。
それに、千くんは心配性なのだ。
千くんの携帯電話の番号はちゃんとメモしてあるから、新しい家に着いたら、すぐに電話を掛けることはできる。
ごめんね千くん、旅行じゃなくて引っ越しだったよ!
「いやいやいや」
海外旅行に行くと宣言しておいて、国内です、それも旅行じゃなくて引っ越しでした、なんて、恥ずかしくて、とても言えない。
千くんはわたしが海外旅行に行ったと思ったままだから、いつまでも帰って来ないわたしを心配するかもしれない。そして、引っ越し先の住所も電話番号も告げていないから、千くんからわたしに連絡を取ることはできないのだ。
刑事ドラマで、「果たして今から自殺をするつもりの人間が、初回限定版CDの予約をするでしょうか。これは他殺です!」みたいな追及シーンがあったけれど、千くんは頭がいいから、「今から北海道へ引っ越す人間がお徳用花火セットを買うだろうか」と推理して、事件に巻き込まれたと思って警察に駆け込むかもしれない。
世界規模の陰謀に巻き込まれたと結論付けて大慌てするかも知れない。
でも、電話を掛けたとして、急に「引っ越ししました」ということのみを告げたら、なぜ言わなかったのか、嘘を吐いたのか、約束したくせに、と怒られるかもしれない。
そして、訳を説明すれば、確実に呆れられる。やっぱり怒られそうだった。
千くんに怒られることが、とても怖かった。怒られたことが一度もないから、怒られるのは嫌われるのと同義だった。
連絡をしない方が心配をかけることは分かっている。
けれど、旅行と引っ越しを勘違いしていたなんて説明、できない。恥ずかしくて死ぬ。
そして、その説明を省けば、故意に嘘を吐いたことになる。怒られた場合、ショック死する。
連絡したところで死しかない。絶望である。
絶対に心配をかけると分かっていても、勇気が出なかった。
千くんとはこれからもずっと一緒にいるものだと漠然と思っていたので、この急な離別に気持ちが追いつかなかった。血迷っていたと言っていい。
だから、何も言わずにおくという最悪の手段を選んでしまった。
そうして、問題を先送りにしているうちに、どんどん日が経ち、もっと言い出し辛くなった。
ついに、千くんに何も言えないまま、数年が経った。
引っ越し先での暮らしは、転校先の中学校に慣れることから始まって、高校受験、大学受験と、瞬く間に過ぎて行った。
これまでの人生であんなに勉強したことは無かったというくらいの受験勉強の日々を経て、大一番的な気持ちで挑んだ志望校に無事に合格して、京都にある大学への進学が決まった。北海道からは通学できないから、もちろん下宿生活になる。
一人暮らしを始めるための修行も兼ねて、ひとりで下宿先の下見に行くことにした。せっかくだから観光も兼ねて、二泊三日くらいはするつもりである。ひとりで飛行機に乗るのも、ホテルに宿泊するのも初めてなので、入念に準備しなければならない。
ということで、まずは観光雑誌の精読から始めようと、湯豆腐のページと抹茶パフェのページに付箋を貼る作業をしている時に、ふと、千くんのことを思い出した。
湯豆腐がどう、とかいう話を、千くんの部屋でした気がする。
一つ思い出すと、記憶がどんどん蘇りだした。
手を繋いで歩いたこと。お弁当のおかずを交換したこと。勉強を教えてもらったこと。公園でピクニックごっこをしたこと。顔を見上げたらいつも微笑み返してくれたこと。
千くんの携帯電話の番号を書いたメモは、重要なものを入れておく用の引き出しに、合格通知書とか預金通帳と一緒に保管してある。
どうしても千くんの声が聞きたくなった。
まだ、携帯電話の番号は、そのままだろうか。番号が変わっていなくて、無事に千くんに繋がったとしても、千くんの方はわたしの引っ越し先の電話番号を知らない。知らない番号から掛かって来たら、不審に思って出てくれないかもしれない。
でも、電話するだけ、してみよう。
お別れから数年が経つ。遅すぎるし、忘れられているかもしれないし、忘れていないなら怒られるだろうし、嫌われている可能性も大いにあるけれど、どうしても、これで一度きりになっても構わないから、声が聞きたくて仕方がなかった。
ずっと一緒にいると言ったのに、何も言わずに離れたことを謝りたかった。
どう切り出そうか、忘れられていませんように、繋がりますように、嫌われていても落ち込むな、と色々考えながら、もう気持ちが定まらないので、千くんと話したい気持ちしか定まらなかったので、見切り発車で電話番号を押した。
一回目のコール音が、途中で切れた。
電話が繋がった。
心臓が止まった。
まさかワンコールで電話が取られるとは思わなかったから、なけなしの心の準備が全部吹き飛んで、心臓と一緒に思考も停止させていたら。
「亜子!?」
と、切羽詰まった声で、呼び掛けられて、意識が戻った。
千くんの声だった。
「千くん!」
懐かしくて、嬉しくて、大声で応答してしまう。
「あれっ?」
でも、千くんはわたしの家の電話番号を知らないはずなのに、どうしてわたしだと分かったのだろう。こちらは意識が飛んで名乗りも上げ忘れていたのに。
「どうしてわたしの電話だって分かったの?」
まず話すことは他にあるだろうに、「知らない番号だから無視されるかも問題」が念頭にあったので、つい、疑問を口にしてしまう。
「携帯の番号を教えた人は少ないから。それで知らない番号から掛かってきたから、電話帳にいない相手でこの番号を知ってる人は、亜子かなって」
行方をくらました人間からの突然の電話にも関わらず、理路整然と説明してくれる千くん。さすがである。
「そっかー」
千くんが推理してくれたおかげで、不審電話と思われずに済んだらしい。
「よかった。もし番号が変わってたら、どうしようかなって思ってたから、ちゃんと千くんに繋がって嬉しい」
数年ぶりに千くんと話せるのが嬉しくて堪らない。
もっと早く連絡をすればよかった。
何から話そう、まずは謝らないと、そうしよう、と言葉を続ける前に、「ねえ、亜子」と、呼び掛けられた。
「うん?」
「どうして嘘吐いたの?」
「っ」
息を呑んだ。
静かな声だった。それなのに、怒り、というか、憎悪とか、殺意とか、そういうものに近い感情を孕んだ声だった。
初めて聞く声だった。
「……嘘って、その、中学生の時に、海外旅行に行くんだって、千くんに言ったこと……?」
おっかなびっくり訊いてみるも、千くんは無言。無言の肯定である。怖い。
やっぱり怒ってた!
繋がった瞬間は喜びに満ち溢れていたが、一転、今は血の気が引くくらいの戦慄が走っていた。怒られる、嫌われている覚悟はしていたはずなのに。
「う、そ、じゃないの」
「……」
「いや、嘘になっちゃったんだけど! は、恥ずかしい……」
恥ずかしいが、全て打ち明けるしかない。
「あのですね、両親のお話をあんまり聞いてなくてですね、引っ越しじゃなくて、旅行だって、勘違いしてたの。それと、飛行機に乗るって聞いてたから、てっきり、海外に行くものだと……っ。それで、千くんにもクラスメイトにも、海外旅行に行くって言いふらしましたぁっ!」
忸怩たる思いである。あの時の自分を蹴り飛ばしたい。
「勘違い……?」
千くんから応答があって、ほっとした。いや全く安心できない、沼の底のような声のトーンだけど、無言よりは遥かに安心できる。
「うん。ごめんね、お土産買うって約束したのに、怒ってるよね……?」
あれだけ、張り切って約束したのに反故にしたのだから、立つ瀬もない。
「どうして連絡くれなかったの?」
さきほどよりは、やや角の取れた、でも相変わらず喉に手を掛けられているくらいの圧を感じる声で、問い詰められる。
「だって恥ずかしかったんだもん!」
思わず怒鳴ってしまった。逆切れである。
「すぐに言ったらよかったんだけど、言い出せなくて、それで、日にちが経ったらもっと言い辛くなって、それで……」
「……」
「それで……」
「……」
千くんは何も言わない。
言葉が続かなくなった。
どうしよう。
あの優しい千くんに怒られる。
嫌われる。
千くんに嫌われたと思ったら、涙が出てきた。
「ごめ、ごめなさい。ごめんなさい。き、切らないで、千くん、嫌わないで……」
もうきっと駄目なのに、それでも懇願せずにはいられなかった。
すると。
「……嫌いになんか、ならないよ」
びっくりするくらい、優しい声が返ってきた。
一緒にいた頃、いつも聞いていた声。
さっきまでと差があり過ぎて、極度の緊張から来る幻聴かと思った。
もう、死に臨むくらいの悲壮な心境だったので、思いがけない答えに、受話器を持ったままへたり込んでしまった。
「……ほんと? 怒ってない……?」
怖々、確認を取ると、「うん」と、やっぱり優しい声で肯定された。
「ぜんぐん……!」
さっきまでは怖くて涙が出ていたけど、今は安堵で涙が溢れてきた。
千くんは、優しい。きっと世界でいちばん優しい。
「亜子、泣いてるの?」
「ううん、目から塩水が出て鼻がつんとしただけ」
泣いているとばれたら心配をかけるので、ハードボイルドな答えでごまかしておいた。でも、すすり泣きがやむまで、何も言わずに待ってくれていたから、たぶんばれている。
それから、心配をかけたことをたくさん謝って、京都の大学に進学することや、一人暮らしをするつもりであることなど、思いついたことを片っ端から話していった。数年の隔たりなんて無かったみたいに、千くんはあの頃と変わらず、優しい相槌を打って聞いてくれた。
千くんがまだ友達でいてくれて本当に良かった。
久しぶりに千くんに会いに行きたいことを伝えたら、「会いに来てくれるんだ? 嬉しい」と、本当に嬉しそうな声が返ってきた。
いまはどこに住んでいるのかを訊ねたら、なんと、京都に住んでいるのだと言う。わたしの進学先とは違うけれど、千くんも京都の大学に在学中らしい。
「すごい偶然!」と、興奮気味のこちらに対し、「そうだね。本当に全くの偶然だね」と平静の穏やかなテンションで相槌を打たれた。高校生気分の抜けないわたしと違い、すでに成人を果たした千くんは落ち着きのある大人である。
「ちょうど、観光……じゃなかった、下宿先の下見しにそっちに行くつもりだったの! 準備はまだ途中なんだけど」
「ひとりで来るの?」
「うん」
「よかったら案内しようか。住んで二年経つし、けっこう詳しくなったよ」
「やったー!」
千くんの申し出に甘えることにした。ひとりで回るより、ずっと楽しい。
「まさか日帰りじゃないよね?」
「うん。下宿先探しのついでに、観光もしたいから、数日はそっちに滞在するつもり」
「宿はもう取った?」
「ううん、まだ。あんまりお金がかからないように、ビジネスホテルに泊まるつもり。駅の近くがいいんだけど、どの駅がいいのかなとか、悩んでるところ」
「宿探しに慣れてないなら、こっちで手頃なとこを予約しておこうか?」
「いいの? うん、お願い!」
かつて、千くんがわたしの世話を焼きまくり甘やかしまくるので、このままでは人の好意に乗っからねば生きていけない駄目人間になるのでは、と将来の危機を感じた、中学生の頃が懐かしい。
けれど、今回は久々だし、ちょっとくらい甘えたって、すぐに駄目人間にはならないだろう。
後は、当日の段取りなんかを決めて、通話を終了した。
出発当日。
数年ぶりに千くんに会うので、張り切って身支度をした。千くんはすでに成人であるから、こちらも大人っぽい身なりで臨まねば、友達同士じゃなくて、保護者と子に見えてしまう。
お化粧をした方がいいのかなと思ったが、したことがないので失敗しそうだし、そもそも道具を持っていないし、「亜子がぐれた……」と千くんが嘆くかもしれないので冒険するのはやめた。
髪は中学生の頃からほぼ変わらず、肩より長くしたことはない。長ければ結んだり巻いたりしてお洒落にできたのに、この長さなので丁寧に梳かすくらいしかできない。いっそ赤とか金とかに染めた方がお洒落だろうか、と前夜に血迷ったが、「亜子がぐれた……」と千くんが嘆くかもしれないので冒険するのはやめた。
服装にも悩んだ。千くんの記憶ではわたしは中学二年生で止まっているから、ちゃんと大人になった様を見せて驚かせたい。
なので、一番気に入っているメロンパン柄のセーターではなく、大人感満載の黒一色のタートルネックを着た。でもやっぱり無地で寂しいから、ボレロを重ねた。スカートは、今季一押しである招き猫柄のものと、当たり障りのない無地のプリーツとで、さんざん悩んだ末、旅行の間に着回ししやすいように、無地の方にした。
三月はまだ寒いので、ダッフルコートを羽織ることにした。何もないと頭が寂しいからニット帽も被った。
上がコートと帽子でもこもこしているから、ブーツを履けばバランスが良いのだけれど、たくさん歩くだろうからスニーカーにした。しかし、足元だけ妙に寒々しいので、毛糸のレッグウォーマーを着けてみたら上下のバランスが取れた。結果、全体的にだいぶ防寒力の高いコーディネートに仕上がってしまった。
身の回り品用の小さな鞄と、宿泊用の重たいボストンバッグを提げる。最低限にしたけれど、5日分だから重たい。
本来は2,3日の滞在のつもりだったけど、「一週間くらいの方が、宿代が返って安くなるんだよ」と千くんに教えられ、「日にちに余裕がある方が、ゆっくりした気持ちで観光できるんじゃないかな」と提案され、でもやっぱり一週間は長いから、5日間の旅に落ち着いた。
わたしが単身、飛行機に乗り下宿探しに行くことを、「亜子は生命力が強いから」というふわふわした理由で了承していた両親も、さすがに5泊6日の長旅と聞いて、わたしが客死してしまわないか心配したが、「なんと、あの水崎千くんが案内してくれるのです。京都在住なのです」と、どや顔で言ったら、手放しで許可が出た。
娘よりも遥かに信頼度が高い。千くんが昔から顔なじみ、かつ、非常にしっかりした子であると両親は覚えていたようだ。
というわけで、服装も荷物も完璧、支度段階で張り切り過ぎてもはや玄関を出る前から疲労困憊状態だが、ともかく出発した。
昼過ぎに、待ち合わせの駅に着いた。
道に迷う分と、トイレが混んでいる分の時間を多めに見積もって、到着予定時間よりも30分遅い時間を待ち合わせ時間にしておいたけど、思いのほかスムーズに着いたので、あと20分くらい余裕がある。
周りを見渡すと、わたしのようにもこもこと着膨れた人間は、一人もいなかった。しかも、なんか春めいたパステルカラーの女の子の方が多い。なんてことだ。
さすがに冬仕様が過ぎたようで、暑くなってきた。防寒用品を取りたいけれど、手荷物が増えてしまうので我慢した。
待ち合わせ時間まで、まだある。アイスを食べて体を冷やしておこうと、コンビニを探してキョロキョロしていると、ひとりの青年に目が留まった。
待ち合わせの目印にした時計台の下に、ひんやりした、深々と静かな雰囲気の青年が立っていた。
中学校で初めて千くんを見かけた時のことを思い出す。無表情で、冷たい雰囲気で、別人みたいだけど、間違いない。
荷物が重いのであまりスピードが出ず、よたよたと駆け寄ったら、青年が気付いてこちらを見た。
「千くん!」
呼び掛けると、途端に、青年の雰囲気が温かいものに変わっていく。
「亜子」
記憶の中の姿よりもずっと大人だったけれど、記憶の中と変わらず、優しく笑いかけてくれたから、ちゃんと、この人は千くんであると実感が湧いた。
「ひさしぶ……」
言い切る前に抱き締められた。
こちらは荷物が多いので抱き返すこともできず、棒立ちのまま、けっこう長い間抱き締められていた。
こんなに再会を喜んで貰えるとは思わなかったので、嬉しいのと照れるのと困惑と、あと、力が強いので、酸素が足りない。
「亜子、やっと会えた。嬉しい……」
「うん、わたしも嬉しい、けど、あの」
「亜子が喋ってる……」
「千くん、あの、気が済むまで、抱っこしてくれていいんだけど」
「亜子だ。よしよし。いい子いい子」
「あの、友達の家の大型犬を撫でる感じで撫でてくれるのは構わないんだけど、ちょっと苦しくて、そろそろ」
「よーしよし」
「話聞いてないね!」
薄着だったら背骨にひびが入っていたと思うので、このための厚着だったのかもしれない。
やがて気が済んだ千くんに解放されて、ようやく、彼の姿をまじまじと見ることができた。
わたしから見た千くんは、いつも大人だ。再会するたびに、大人になっていてびっくりする。
たいしてこっちは、春から大学生だと言うのに、あまり風格が出ていない。
たった二歳しか違わないのに、この埋まらない差は何由来なのだろうか。
「亜子、背が伸びたね」
「え、そう? うん、成長期を乗り越えたから、もはや大人に片足突っ込んでるよ」
千くん判定ではちゃんと成長しているようだったので前向きになれた。
が、背が伸びたとは言え、身長差はたいして縮まっていなかった。やっぱり見上げる形になって、見上げ続けていると、頭を撫でられた。懐かしい。
ちなみに千くんは、カラーこそパステルではないけれど、ちゃんと季節に即した格好をしている。なんてことだ。
「亜子、なんか、もこもこしてるね」
「う、うん。季節の先取りがファッション通だから」
「顔赤いけど、暑いの?」
「うん」
「脱いだら? 大きい荷物は持つから。貸して」
なんて徳が高いんだ千くん。彼の優しさを直に感じるのは久々なので、涙も滲もうというものだ。
「ありがとう……」
ボストンバッグを預かってもらって、ニット帽とコートとレッグウォーマーを取ったら、だいぶ涼しくなった。
「じゃあ、行こうか」
千くんはボストンバッグを肩にかけ、空いている手を差し出した。
慌てて、両腕で抱えていた防寒用品たちを片手に抱き直して、空いた手を伸ばすと、しっかりと手を繋がれた。指を絡める繋ぎ方。
中学生の時は疑問を持たなかったけど、こういう繋ぎ方は、友達同士では普通はしないらしい、ということを、千くんとの離別後の数年でわたしは学んでいる。ので、ちょっと恥ずかしい。
でも千くんを見上げると、何の疑問もない様子で、「どうかした?」と言った。「ううん……」と否定すると、千くんはやっぱり優しく笑って、歩き出した。
きっと千くんは、いまでも、「亜子は手の掛かる年下の子である」と思っていて、わたしがうっかり手を離して迷子にならないように、しっかりと手を繋いでいるだけなのだろう。
でも、こんな風に手を繋いで歩いているところを他の人が見たら、たぶん、デート中か何かだと誤解されると思う。大荷物を提げているから、駆け落ちに見えるかも知れない。
千くんに彼女が居たら一大事である。目撃されたら修羅場が始まってしまう。
「あの、千くん。彼女ってい」
「いない」
食い気味に即答された。
幼、小、中、と共に過ごした学友の見解としては、千くんは、かなり女の子に好かれやすい人であると思う。下駄箱に手紙を突っ込まれる系の人である。そういう場面を見かけたことがある。千くんが下駄箱から出てきたものをゴミを見るような目で見ていたのでゴミなのかなと思っていたけどよくよく思い返したら可愛い便箋だったのであれは絶対に恋文だった。
小学生の頃からチョコレートのテンパリングを把握していて、中学生の頃には見本品みたいな厚みのホットケーキが焼けて、高校生の頃にはフランベを成功させていたような人だから、それは女の子にも好かれよう。
まあ、千くんは昔から勉強がすごく出来たし、今はただでさえ難しそうな大学に行っているから、恋に現を抜かす間も無く勉学に励むスタンスなのだろう。勉学の徒である。
「亜子は?」
「うん?」
「亜子はそう言う人いないの?」
「うん。いない」
ちなみにわたしの下駄箱には、常に靴以外のものは入っていませんでした。
「勉学の徒ですので」
千くんはわたしの答えにくすくすと笑って、「偉いね」と言った。