6.誘惑上手
亜子が京都に来て3日目のお話です。
お付き合い3日目にして千くんとキスをした。
今日は朝からおでかけして、千くんお勧めの喫茶店へ行き、炭火焼きチキンチーズサンドイッチとパストラミビーフサンドイッチを注文し、料理上手の千くんを通わせるお店だけあって至上の味わいで、食べ終わる頃には忘我の境地に達し、幸せに満ちた気持ちで京都駅に向かい、ついに憧れの京都タワーに登って興奮していたら、千くんが感動の面持ちで「京都タワーでこんなに喜ぶ人がいるんだね」と仄かに京都タワーに失礼な発言をしたので、京都府警に代わって膝かっくんで天誅をかましてからタワーを後にした。
本当は京都タワーのあとに金閣と銀閣と平等院鳳凰堂と蹴上インクラインと大原三千院に行くつもりだったのだけれど、「亜子、そんな時空を無視した弾丸ツアーを組まなくても、京都に住むんだからこれからじっくり回ればいんだよ」と前日に諭されたので、金閣と銀閣と平等院鳳凰堂と蹴上インクラインと大原三千院また今度ということになった。
なので観光はほどほどに帰ることにし、途中、ふらりと立ち寄ったお店にあったパーカーが素敵だったので、千くんと色違いで服を買ってしまった。
お揃いの服!
彼が桜餅ピンクで、わたしが鶯餅ライトグリーンのパーカーである。パステルカラーの服を持っていないらしい千くんはわたしのカラーチョイスに躊躇していたけれど、「似合うよ! 可愛いよ!」とゴリ押ししたら折れてくれた。
選ぶのに集中していた時には意識していなかったけれど、いざ帰宅した今、お揃いの服を買ってしまったという感慨と照れが激しい。お揃いの服。もはや名実ともに恋人同士であると言っても過言ではないだろう。なんてことだ。
昨日は「千くんとデートをした」という甘酸っぱさを認識して照れてひとりで部屋を転げまわったけれど、今日は一段とデート感に磨きがかかっているという事実に気が付いて、じわじわと顔が熱くなってきた。
転げまわりたいけれど、ただいま千くんとソファで和やかにお茶を囲んでいるので、転げまわるわけにもいかない。
たとえ突発的に前転を始めたとしても、千くんのことだから怒りはしないだろうし、むしろ「亜子は回転率が高いんだね」(?)なんて褒めてくれそうだけれど、そんな訳の分からないことで彼の優しさを享受していては罰が当たる。
照れを押し留めようと膝の上で拳を固く握り締め、俯いてじっとしていたら、異変に気が付いた千くんが顔を覗き込んできた。
「亜子? 顔赤いよ? 大丈夫?」
「顔赤くないです。夕焼けのせいです」
「まだ夕方じゃないけど……。疲れたのかな。京都タワーであんなに興奮するから……」
疲労および発熱等の体調不良を心配する千くん。安定の優しさ、安定の思いやり、安定の千くんである。
「大丈夫! 元気だから! その、ちょっと、お揃いのパーカーを買ったという厳然たる現実を厳粛に受け止めていただけだから。えっと、明日、さっそく、着ちゃう……?」
「うん。亜子の挙げた交際実績例の中に入ってたよね。達成できそうで嬉しいよ」
嬉しそうに微笑む千くん。
一昨日、千くんに結婚を迫られた時、突然の展開に混乱したわたしが口走った「交際の実績がないからよろしくない」という旨の言動を千くんは重々しく受け止めてくれていて、ひとつ達成できそうなだけで、こんなにも喜んでくれている。
こんなにも思ってくれている千くん対し、「なんか恥ずかしい」などというふわふわした理由でキスを避けていることが、なんだかすごく申し訳なくなってきた。
婚姻届けにサインをしてまでキスを先延ばしにしたわけだけれど、あんまり逃げ回るのも千くんが悲しむかもしれない。いや、かもではない。絶対に悲しむ。変な羞恥心なんかのせいで、千くんを悲しませるわけにはいかない。
うん。冷静に考えれば、少し口をくっつけるだけのことを、なぜこんなに恥ずかしがる必要があるのだろうか。お付き合い3日目でキスをするのは展開が早い気もするけれど、わたしたちはもう、お揃いのパーカーさえ買うほどに進んだ仲である。
それほどまでに進んだ恋人同士であるということを鑑みれば、キスなんて挨拶みたいなものである。うん。それに、キスと聞いてつい、口と口をくっつけるのだと思ってしまったけれど、千くん的にはほっぺにちゅーかもしれないし、もしも想像通り口にちゅーだとしても、何にせよ一瞬の話である。
よし!
動じない自信が出てきたので、もうキスをしても大丈夫ですという旨を伝えることにした。
「千くん。あの。キス、しま、しょうか」
「え。もう心の準備はいいの?」
「うん!」
力強く頷いた。
甘かった。
認識が浅かった。
キスなんて一瞬のことだし!
と軽く考えたのが間違いだった。
全然一瞬じゃなかった。
そもそも想定していた内容とだいぶ違っていた。
念のため直前に「一瞬だもんね?」と訊いた時に、穏やかな笑みを返されただけで否定も肯定もされなかった時点で疑うべきだった。
酸欠一歩手前でようやく唇が離れた隙に、腕の中からするりと抜け出して、逃げた。
自室に逃げ込み、扉を閉ざし、籠城することに決めた。
千くんが扉を控えめにノックするが、決して開けない。
ちなみに、千くんの住居において、わたし専用に割り当ててもらった部屋のドアの鍵は、なぜだか外側に付いている。
普通、私室の鍵は内側についているのでは……と思って千くんに訊いてみたら、「気付かなかったな。どうしてだろうね。本当に不思議だね」と穏やかに微笑んで首を傾げていた。
部屋部屋しいから千くんも気づかなかっただけで、きっと本来は物置用に設計されたスペースで、だから外側に鍵が付いているんじゃないかなと思う。
なので、もしわたしが中にいる時に千くんが外からうっかり鍵を掛けたら閉じ込められてしまうのだけれど、千くんはそんなうっかりはしないから安心だ。
内側から鍵を掛けられないという弱点もあるけれど、「亜子の部屋は亜子のプライベートだから勝手に入ったりしないよ」と千くんは言ってくれたし、無問題である。
今だって、鍵が掛かっていないからと言って、彼が無理に押し入ってくる気配はない。
小学生の頃、ハスキー犬を飼いたかったけれど雛井家は犬を飼ってはいけない家だったので犬の飼育本を読んで欲求不満を満たしていたことがあったけれど、その本に確か「犬はオスの方が特に縄張り意識が強いです」的な事が書いてあった。
千くんはイヌ科ではないけれどオスには違いないから、きっと縄張りを重んじる傾向があるのだろう。
ノックに応じない限り勝手に開けたりはしない、プライベート空間を律儀に守ってくれる紳士な千くんが相手なので、ドアに鍵は無くともこの籠城は完璧である。
「ああああ」
以上、鍵が意味を成さないこの部屋においても引き籠もる分には安心であることを再確認してみたけれど、冷静さが戻るかと言えば全くそんなことは無い。
床に突っ伏して心に平穏が戻るのを待つも、思い出し恥ずかしがこみ上げて、叫ばずにはいられない。
近所迷惑にならないようクッションに顔を押し付けて、「ああああ」と叫んで床を転げまわっていたら、やがて再び、千くんが控えめに扉をノックした。
どんな顔をして向かい合えばいいのか分からないので、部屋の隅っこで身を屈めて沈黙を決め込んでいたら、今度はノックではなく、「亜子」と優しい声で呼び掛けられた。
「亜子」
「……」
「パン屋さん、行かない?」
「えっ」
「この時間なら塩パンが焼きたてだと思うけど、行きたくない?」
「えっ!」
塩パンが焼きたて。
なんてすごい誘惑をしてくるんだ千くん。
「買ってすぐベンチに座って食べない?」
「うん」
籠城をやめて扉を開けた。
千くんはわたしの手を引き、玄関ではなく居間に向かい、流れるようにソファに座らせると、にっこりと微笑んで言った。
「今日、パン屋さんは定休日です」
「……! はっ、謀かられた……っ!?」
ああ、千くんが知らぬ間に、甘言と虚言を操る狡猾な人間に成長している……。
「どうして逃げたの?」
そして真顔で始まる尋問。
婚姻届けの隠蔽工作が発覚した時と同様、静かでありながら逃げを許さぬ圧を持った声音である。
なんだろう。寛ぎの家具であるはずのソファなのに、プロポーズとか尋問とか、心臓に悪いイベントが高確率で発生する不穏な場所になっている気がする……。
ともあれ、千くんは許可が出たから実行に移しただけなのに、無言で逃亡を図られた訳だから、その心痛は察するに余りある。これ以上千くんを悲しませてはならない。絶対零度の凍気にぷるぷる震えながら、正直に答えた。
「はい、すみません、ごめんなさい、びっくりしたからです……」
「驚いただけ?」
「はい。一瞬だと、思っていたもので」
「本当に?」
「はい。想定と、だいぶ違っていたので」
「俺のこと嫌いだからじゃない?」
「はい」
「俺のこと好きだって言ったのはその場を逃れるための嘘でやっぱり本当は嫌いで逃げる隙を伺っているとか、そういうのじゃない?」
「はい。千くん大好きです」
答えた瞬間、彼から発せられる圧が雲散霧消した。2秒で永久凍土の雪が消え去り春が来た。「もはや罪深い……」という呟きと同時に抱き締められる。罪深いとは如何に。心労を増やした罪だろうか。それなら確かにわたしの罪は深い。千くんに心配をかけた件数がそのまま罪になるなら恐らく極刑、よくて終身刑である。
情状酌量の言い訳を考えているうちに、千くんはわたしの肩に顎を載せ、「よかった。そっか。驚いただけなんだ。可愛いなあ。可愛い。好きだよ」と言った。耳元で優しい声で囁かれると、尋問とはまた別の緊張で動悸が激しくなる。
かと思えば、ぼそっと「亜子に何かする時は紐で繋ぐか押さえ付けるかしないと駄目だな……」という不穏過ぎる独り言が聞こえてきたので再び戦慄した。繋ぐて。押さえるて。シャンプーの時にシャワーを嫌がって逃げ回る犬への対応と同じである。千くんは稀にわたしを犬扱いする。
各種要因からなる動悸・息切れを起こしているこちらと対照に、千くんは心底安心したように深く息を吐くと、身を離し、微笑んで言った。
「じゃあ、もう一回キスしようか」
穏やかなトーンでまさかの追い打ち。
「え、なう、な、なにゆえそないな結論に……?」
何が「じゃあ」なのか分からないので問うと、「回数を重ねれば慣れるよ」と、さらりと回答された。
「なれ、慣れないと駄目……?」
「キスするたびに逃げられたら日常生活に支障が出るから」
「そん、そんなに日常的にするものかな……!?」
週1とかでは駄目なのだろうか。
「そんな資源ゴミの日みたいなペース許さないから」
まだ何も言っていないのに却下されてしまった。
人の心が読めるのだろうか……。
「しゅ、週2……」
「燃えるゴミの日のペースも却下」
「毎月3のつく日……」
「ポイント3倍デーも駄目」
「毎月5のつく日……」
「回数減ってる」
「奇数の日……」
「もう一声」
「奇数の日と偶数の日……」
「うん。いいよ、それで。妥協する」
キスをするのは奇数の日と偶数の日ということでようやく妥協してくれたが、よく考えたら毎日が奇数か偶数の日である。妥協とは。
「やっぱり素数の……」
「亜子が言ったんだから毎日しないとね。ほら、毎日のことなんだから、慣れなきゃいけないよね?」
「う、ん……」
確かに毎日のことであれば早く慣れないといけないので、つい了承してしまったけれど。
なんだろう、連日のように発揮される、千くんのこの交渉能力の高さは何なんだろう。いつか外交官とか秘密組織エージェントとかの勧誘が来そうである。
サングラスをかけたスーツ姿のエージェント千くんを想像して意識を飛ばしていたら、「パン屋さんは定休日だけど、ケーキ屋さんは開いてるよ。一昨日、亜子と食べたケーキを買ったお店」と、とんでもなく魅惑的な言葉が聞こえて、瞬時に現実に引き戻された。
「えっ、あの、金粉がまぶされてきらきらしたチョコケーキと、黒豆が飾られてはんなり感のある抹茶のムースの、私的ミシュラン5つ星のケーキ屋さん……!?」
「うん。買いに行く?」
「行く!」
「うん。じゃあ、キスの練習してから行こうね」
巧みな誘惑を織り交ぜてくる高度な交渉術にこちらは翻弄され通しである。
「……。……。い、一瞬、だけなら」
「善処します」
千くんは穏やかに微笑んで、「対応できません」をマイルドに表現するためのビジネス用語を駆使するのだった。
やはりソファは、心臓に悪いイベントが高確率で発生する不穏な場所であるらしい。